第三章 白雪の約束(2)

 その日は快晴だった。朝早くから陽光が硝子越しに差し込んで、家の中を明るく照らしていた。曇りがちなルーウェンにしては珍しいことである。
 今日は暑くなりそうだ。身支度を整えながら、ヴィントはそんなことをぼんやり考えていた。書類で重たくなった鞄を手に取ったとき、奥の方から形の定まらない声が聞こえてくる。やや遅れて、寝室から妻が顔を出した。
「おや、ヴィント。もう行くの?」
 妻――ミリアムは、オリーブ色の瞳をくりくりさせて問うてくる。ヴィントは淡白に答えた。
「ああ。研究所はもう開いてるだろうからな」
「今日はナイジェルさんの研究室へやだっけ? あの人、時間にうるさいからね。自分が早出するのは勝手だけどさあ、それをまわりに押し付けんなってーの」
 辛辣な言葉を放ったミリアムは、その勢いのまま寝室から出てくる。肩にかからないほどの長さの黒髪を手櫛で梳きながら、彼女はさっさと出ていこうとする夫を振り返った。
「朝ごはんは?」
「必要ない。むこうで何か出されるだろう」
「あそこで出るの、お菓子とまっずい珈琲じゃん。待ってて、なんか用意する」
 ヴィントは一瞬面食らう。必要ない、ともう一度言おうとしたのだが、ミリアムは答えも聞かずに台所へ行ってしまった。何やら呟きながら、食糧棚をあさっているらしい。
 かぶりを振ったヴィントは、一度取って返して、食卓の椅子に腰を下ろした。明るい室内、何気なく寝室の方へ目を向ける。そして、瞠目した。
 半開きの扉のむこうから、男児が出てきた。眠い目をこすっていて、この頃の日中よりも足もとがおぼつかない。父親ゆずりのくせ毛が、変な方向に跳ねていた。
「レクシオ」
「えっ!? レク、あの岩場のごとき部屋から一人で出てきたの!? 将来有望!」
 ヴィントが子どもの名を呼ぶと、台所から妻の返答がある。言っている意味がよくわからない。いつものことだ。ヴィントは黙って受け流した。
「こけてないよね?」
「大丈夫そうだ」
 ミリアムの問いにヴィントが答えた直後、野菜か何かを切る音がする。軽快な音色は、幼子の意識をも揺さぶったらしい。レクシオが目を瞬いて、こちらを見上げてきた。
「おとうさん」
「ああ。……おはよう」
「おはよー」
 寝ぼけた声で答えた息子は、そのまま足もとに歩み寄ってくる。ヴィントがぎこちなく両腕を差し出すと、彼はその腕にすっぽりと入ってきた。
「おかあさんは?」
「朝ごはんの準備中だ」
 抱き上げると同時、レクシオは目を輝かせて「ごはん!」と叫んだ。そんな二人の背後で、肉の焼ける音が響いていた。芳ばしい香りが、家中に充満する。
 それから少しして、ミリアムが台所から出てきた。「レク見てくれてありがとう!」と言いながら、小さなバスケットを差し出してくる。
「ほい、ごはん」
「……ありがとう」
 息子を隣の椅子に座らせて、ヴィントはそれを受け取る。触れた瞬間、魔力の名残が感じられた。彼は思わず、見た目にわからない程度の苦笑を相貌に乗せた。
「おとうさんのごはん!」
 レクシオが、食卓に両手をついて、身を乗り出してくる。
「ぼくのは? ぼくのは?」
「レクのは、これから。お父さんは今日お仕事だから、お外で朝ごはん食べるんだよ」
「おしごと」
「そう。もじゃもじゃじいじのお手伝い!」
 偏屈な研究員に息子がつけたあだ名を口にして、ミリアムはむっと眉を寄せる。ナイジェルの表情の顔真似らしい。それでレクシオもおぼろげながら理解したらしく、少し怯えながらもうなずいていた。
 妻子のやり取りをわき見しつつ、ヴィントは静かに立ち上がる。
「……行ってくる」
 ぼそりと声をかけると、彼らは揃って手を振った。
「おー、いってらっしゃい! お昼には戻ってきてね!」
「いってらっしゃーい」
 元気な二人に手を振り返し、ヴィントは扉に手をかける。「朝ごはん、朝ごはん」と楽しげに歌う声を聞きながら、朝の町へと踏み出した。

 見上げる空は、めまいがするほど真っ青だ。まるい太陽が燦燦と光を振りまいている。石畳から立ち昇る熱も、いつもより濃密な気がした。
 時は昼前。無事、魔導研究所での手伝いを終えたヴィントは、いつもより少し早足で歩いていた。とはいえ、傍から見ればいつもの歩調とさして変わらないように思えただろう。彼はルーウェンの中でも、「平坦で面白味のない奴」と評されていた。
 妻と息子は今頃何をしているだろうか、というようなことをぼんやりと考えていた。なじみ深い商店街に差しかかったところで、陽気な声がその思考を断ち切った。
「よう、ヴィント」
 頬のひとつも動かさずに振り返る。
 茶髪に近い黒髪の青年が、なぜか大きな袋を抱えて駆けてきた。ヴィントにとって数少ない友人である彼は、ほかの人が逃げていくような無表情の男に、遠慮なく話しかけてくる。ヴィント自身、鬱陶しいと思うことはあっても嫌いではない。今も、少しだけ表情をやわらげた。
「今日もナイジェルのところに行ってたのか?」
「ああ。むこうから呼び出された」
「おまえもすげーよな。あの偏屈じいさんとめげずに会話できるんだもん」
「彼は研究の話がしたいだけだ。黙ってうなずいていれば、文句も言われん」
「それが難しいんだろ」
 快活に笑った青年に応じるように、ヴィントも口もとを少しだけほころばせた。そして、わずかに顔を逸らす。
 特に示し合わせたわけでもないが、二人は並んで歩き出す。それぞれの家庭や仕事の話をまとまりなくやり取りしながら、商店街を抜けていく。そして町の中央――広場に着いたところで、別れようとした。
 しかし、ヴィントが短い挨拶を告げた瞬間。青年が訝しげに顔を上げる。
「……どうした?」
「いや。なんか、今、妙な臭いが――」

 彼の言葉の続きは、かき消された。天地を揺さぶる轟音によって。

 何事か、と驚く暇もなく、熱風が吹きつけた。春や夏の風とは全く違う、肌を炙るような熱波が襲いかかってくる。あちこちで驚愕と困惑の声が上がり、それはほどなくして悲鳴に変わった。
「なんだぁ!?」
 顔を覆った青年が、素っ頓狂な声を上げる。戸惑いをあらわにしていた彼は、行く先を見て青ざめた。
「おい、ヴィント、あれ」
 青年が指さした方を見て、ヴィントも小さく息をのんだ。遠くから激しく黒煙が上がり、かすかに切迫したような悲鳴も聞こえる。その方角にあるのは――彼の家だ。
 青年が体を翻す。ヴィントが反射的に振り返ると、彼は険しい顔をこちらに向けた。
「おまえは家に急げ! 俺も様子見てくる!」
「……ああ」
「お互い無事だったら、ここで合流しよう」
 青年は口の端を持ち上げて、広場の中心に向けて親指を立てた。引きつった彼の笑みを見て、ヴィントはつかの間沈黙したが、結局うなずいた。逡巡している余裕はない。
「わかった。気をつけろよ」
「お互いにな!」
 明るい声を背中で聞きながら、ヴィントは強く石畳を蹴った。

 地獄が広がっている。
 民家や商店が無残に壊され、至る所から火の手が上がっていた。そのかたわらで、老若男女が血を流して倒れている。どう見ても、建物の崩落や火災に巻き込まれた雰囲気ではない。
 散らばった硝子の破片をまたぎ越えながら、ヴィントは眉間にしわを寄せる。
 何が起こっているのか。
 抱いた疑問は、すぐに解消した――最悪の形で。
 にごった絶叫が響く。壊された民家の前に、屈強な男たちが群がっていた。絶叫はその先から聞こえてくる。誰かが、この男たちに取り囲まれているようだった。
 男たちの服装には見覚えがある。――帝国軍の制服だ。
 帝国の軍人がルーウェンに来るのは、よくあることだ。彼らは『デルタ』の監視をしているのだ、というのも知っている。だが、最近は彼らが町の人間に手を挙げることはなかった。なのに、どうして今、こんなことが起きているのか。
 行く先で爆音が響く。ヴィントは『はっ』と息をのんだ。歯を噛みしめると、男たちから視線を逸らして走り出す。
 下卑た笑い声と、絶叫が重なって響く。肉が潰れ、骨の砕ける音がした。
「ミリアム……レクシオ……!」
 家族の名が、自然と喉の奥からこぼれ出る。
 背後から、いっとう大きな叫び声が聞こえて、ふっつりと途切れた。

 何かに急かされるようにして、走り続ける。
 火の手を避けて。広がる死から、目を背けて。
 快活な笑顔を見せてくれる妻と、どこまでも無邪気な息子の顔を思い浮かべる。ただひたすらに、彼らの姿を探し続けた。
 そして、ヴィントが辿り着いたのは、我が家が『あった』場所だった。
 家は、ほとんど瓦礫の山になっていた。かろうじて形を留めている個所もあるが、愛しい我が家の面影は、もはやどこにもない。瓦礫のはざまから、細い火が舌を伸ばしては引っ込めている。
 変わり果てた家を見て、さすがのヴィントも放心した。天地が何度もひっくり返り、定まらないような感覚のまま、ふらふらと歩く。ほどなくして、足もとに何かが当たった感覚で我に返った。右足の先を見下ろして、また息をのむ。
 それは人の頭だった。少し離れたところに胴体らしきものが転がっていて、その間を乾いた血液の線が繋いでいる。見覚えのある男だ。近所の家具屋で働いていて、エルデ家に色々気を遣ってくれていた。もしかしたら、一家にこの異常を知らせにきてくれたのかもしれない。
 ヴィントは、彼の頭と胴体を、人目につきにくそうな瓦礫の陰にひきずっていった。そのかたわらで、つかの間目を閉じ、その後に一礼した。彼なりの弔いを終えると、無言で遺体に背を向ける。
 先ほどよりしっかりとした足取りで歩き出したとき、彼の耳がかすかな泣き声を拾った。ヴィントは硬直し、それから駆け出した。瓦礫を蹴り上げ、どこからか降りかかってきた火の粉を避けて、無理やり家の『中』を突き進む。
 かつての居間があった場所で、ヴィントは子どもを見つけた。その子どもも軍人に囲まれていて、遠くからでもわかるほど震えている。
 軍人が何かを言って、子どもを蹴った。吹っ飛んだ彼の襟首をつかんで無理やり引き寄せた軍人が、あいた方の拳を振りかざした。
 泣き声が、天を衝く。ヴィントの視界が真っ赤に染まった。考えるより先に走り出す。頭を動かすより先に構成式を組み立て、生じた風と雷撃を軍人たちに向けて放った。破壊音と悲鳴が重なって響き、軍人たちの体が瓦礫の中へ落ちていく。ヴィントは彼らに目もくれず、子ども――息子のもとへ駆け寄った。
「レクシオ、無事か」
「お、とう、さん」
 しばしの沈黙の後、少年はヴィントを見上げる。ただでさえたどたどしい言葉を組み立てて、彼は父親を呼んだ。ヴィントはうなずいて、小さな頭に手を置く。
 よく見ると、息子は血と傷にまみれていた。血は自分のものだけではなかろうが、それを差し引いても一人で動ける状態ではない。
 軽く周囲を見回したヴィントは、嫌な予感を覚えつつも息子に目を戻す。
「レク。母さんはどうした?」
 答えはすぐに返らなかった。だが、ヴィントは事態を察した。息子の相貌からすべての表情が剥がれ落ちた後、全身がぶるぶると震えだしたからだ。
「おかあさん」
 両目に涙が溜まって、盛り上がる。
「おかあ、さん……ぼく、の、うえで……いたい、顔、して」
 父親によく似た瞳が、動く。その視線を追いかけて――ヴィントは、沈黙した。
 半ばから折れた柱のそばに、女性がうつぶせで倒れていた。体中に刺し傷や切創がある。一番大きな傷からにじみ出た血は、端から茶色く固まりかけていた。
「……ミリアム」
 妻の名を呼ぶ。ごまかしようもなく揺れるその音は、別人が発したもののように聞こえた。
 返事はない。当然だ。傷や出血の具合を見る限り、もう手遅れだろう。ヴィントの頭脳は、冷静に判断し、理解する。その一方で、頭の中に住むもう一人の自分が、広がる現実を拒絶しようとしているのを感じた。
 淡白で、多くのことに無関心だった男に、屈託のない笑顔を向けてくれた人。明るく話しかけてくれた人。そして、伴侶として共に歩むことを選んでくれた、奇特で稀有な女性。
 花のような笑顔を見ることは、もう叶わない。太陽みたいな声を聞くことも、叱られることも――
 ヴィントは拳を握る。それから一度深呼吸すると、ミリアムの遺体のそばでしゃがみこんだ。思ったほど硬くないその体に手をかけ、慎重にひっくり返す。生々しく開かれたままの瞼をそっと下ろした。
「すまない。遅くなった」
 応えはない。わかった上で、語りかける。
「ゆっくり休め。レクのことは、俺に任せろ」
 ささやいて、少しの間、黙り込む。それから、ミリアムの額に一度、口づけを落とした。これが最後だな、と胸中で呟きながら。
 炎と木々の弾ける音を聞き、ヴィントは立ち上がった。呆然としている息子の頭をなでて、抱き寄せた。
「レク。ひとまず、ここを離れよう」
「……おかあさんは?」
「母さんは、一緒には行けないんだ。俺とおまえで――外へ行こう」
 レクシオは勢いよく口を開いて、すぐに閉じた。それが、ただ黙り込んだだけではないことは、荒々しい息遣いから伝わってくる。時間がない。
 ヴィントは、涙目で沈黙している息子を背負うと、再び瓦礫を蹴って道に出た。悲鳴と嘲笑と破壊の三重奏を聞きながら、ひたすらに駆ける。軍人の気配を拾うたび、瓦礫や廃屋の陰に身を隠した。ゆえに進みは遅かったが、確実にルーウェンを突っ切る道を進んでいた。
 おそらく、まともな門は封鎖されているだろう。多少強引でも、裏道を使うしかない。軍人どころかほとんど人の寄りつかない、それでも町の外へ出られる場所。それをヴィントは、知っていた。
「大丈夫、大丈夫だからな」
 平坦な声で、それでも懸命に息子を励ましながら、ただ一つの目的地を目指す。根拠のない慰めを嫌うヴィントが、こんな言葉を口に出したのは、おそらく今回が人生で最初だった。
 途中、広場にも寄ってみた。だが、青年はいなかった。嫌な想像が立て続けに脳裏を巡る。ヴィントはかぶりを振って、暗い思考を追い出した。
 軍人たちがいないことを確かめて、石畳を蹴る。瓦礫にふさがれる前に、なんとか辿り着かなければ。それだけを思った。
 やがて親子が見出したのは、大きな建物。幾人かの魔導士が中心となって運営する、魔導研究所だ。
 研究所は、まだ形を保っていた。今朝来たばかりの門を見上げたヴィントは、つま先をまったく違う方向へ向ける。
 用があるのは、研究所の裏だ。背後に広がる起伏に富んだ森――そこを抜けて、町から脱出しようという魂胆である。
 木々が鬱蒼と茂っている割には、人が食べられるような植物は実っておらず、足場もかなり悪い。そんな具合だから、木こりくらいしか好んで入らないところだ。
 研究所の裏手に回り、散乱した資材と無人の倉庫の間を抜けて、森を見出す。ひと気のないそこへ、ヴィントは躊躇なく踏み込んだ。人どころか動物の気配さえなく、木々が無秩序に枝葉を広げている。もしかしたら、動物たちはこの騒ぎで逃げ散ったのかもしれない。
 あたりに軍人が潜んでいないことを確かめると、ヴィントは息子に一声かけて、木の根をまたいだ。いつ火の手が回るかわからない。急ぐに越したことはないのだ。
 一歩一歩、進めば進むほど、木々が周囲を覆いつくす。己の影すら見えなくなる。それでもヴィントは、ただ淡々と歩き続けた。