第二章 雌伏の終わり(2)

 ステラたちが老婦人の家を辞した頃。レクシオとトニーは、目抜き通りからやや離れた地区にいた。
 奇しくも先日と同じ組み合わせになった二人は、先日と同じく軽快に手伝いをしては次の場所に移っていた。
 いくつかの肉体労働が一段落したとき、トニーがふと足を止める。並んで歩いていたレクシオも、自然と立ち止まった。
「およ、オスカー。シンシアも」
 反対側から一組の男女が歩いてくる。レクシオは、トニーの声でそれに気づいた。相手もそれぞれ目を丸くしている。
「これはエルデさん、トニーさん。ごきげんよう」
『研究部』の二人がレクシオたちの前で止まる。シンシアがまっさきに礼をした。レクシオは一応「こんにちは」と頭を下げてこれに答えたが、視線が当たるのを感じて元の体勢に戻った。
 オスカーが、まじまじと少年たちを見ている。
「……珍しい取り合わせだな」
「ん? そうでもねえよ?」
 率直な感想にトニーが首をかしげた。そのままレクシオを見上げ「なあ?」と同意を求めてくる。レクシオは、曖昧にうなずいておいた。
「そっちはもしかして、色々調べてくれてんの?」
「ああ。俺たちとしてもちょうどいい下見になってる」
 より珍しい取り合わせとなった四人は、誰からともなく歩みを再開する。どこまでも淡々としているオスカーの横で、シンシアがため息をついた。
「今のところ、神様らしき方々とはお会いしていませんわ。以前、オスカーたちが姿を見ているはずですから、出会えばわかると思っているのですけれど」
 シンシアは、ひと房こぼれた茶色い髪を白い指ですくい上げる。名を呼ばれた少年が無言でうなずいた。
「ただ、時折視線のようなものは感じる」
「視線? 俺ら、そんなの気づかなかったぞ」
 淡白な爆弾発言にトニーが猫目を見開く。今度、オスカーはうなずきも首を振りもしなかった。
 ――次の瞬間、その目が鋭く細る。
 彼は弾かれたように振り返った。その初動に気づいたのは、おそらく同じ武術科生のレクシオだけだったろう。彼はオスカーよりやや遅れて、後ろを見る。
 一目で敵とわかる存在は、視線の先にいなかった。ただ一人、通りがかりの旅行客のような男性がいた。やや人相が悪い男性は、心底驚いた様子でこちらを見返している。
 短い沈黙の後、オスカーが軽く肩をすくめた。
「……驚かせてすみません。物音がしたもので、鳥か何かが突っ込んできたのかと」
 彼はそんなことを言ってのけ、男性に手振りで詫びを入れる。男性の方は恐縮したように頭を下げて「もし驚かせたのならすみません」などと言っていた。
 男性が顔を上げたとき、トニーが帽子をつまんで下げる。
「んん?」
「どうなさいました?」
「いや。あの人、どこかで見たことあるような気がして」
 友人の言葉を聞いたレクシオは、男性の方へ目を凝らす。トニーとシンシアがやり取りをしている間に、彼は一礼して立ち去ろうとしていた。彼が背を向けたとき、レクシオは目をみはる。
 ほんの一瞬、見えた横顔。それが記憶と重なった。その記憶は、決して古いものではない。
「あっ!」
 考えるより先に、叫んでいた。レクシオは半歩前へ出て、男性を引き留めるように手を伸ばす。声に驚いたのか、男性が勢いよく振り返る。そして――ぎょっと目をみはった。
「君は……」
「あ、あなた、アーノ……」
「しーっ! しーっ!」
 叫びかけたレクシオを、男性が大慌てで制止する。人差し指を唇に当てる仕草を見て、少年は声を飲み込んだ。
 彼が私服姿でうろついていて、かつ名前を呼ばれたくないということは、公にできない仕事の最中なのだろう。彼、セドリック・アーノルドは、おそらくそういう立場の人間だ。
「あっ! 思い出した!」
 レクシオが咳ばらいをして声と気持ちを静めている間に、第二の叫び声が響いた。トニーの方も記憶を掘り起こしてしまったらしい。彼は猫目をみはったまま踏み出しかけていたが、レクシオを見ると思いとどまるように足を引いた。
「この人、学院の警備員さんだ!」
 少し潜めた声でトニーが証言すると、『研究部』の二人が目を剥いた。
「なんだって?」
「確かですの?」
「間違いない。俺とジャックは何度か会ってる」
 帽子に注いでいた二人分の視線が、正面へ向く。レクシオも改めて振り返った。セドリック・アーノルドはやりにくそうに頭をかいている。
 オスカーの目つきが、より険しくなった。
「だとしたらおかしいだろう。なぜ、学院の警備員がこんな遠くの街にいるんだ」
「いやいや……警備員にも休みはあるからね?」
 アーノルドは軽い調子で弁明する。半分納得しそうになったのか、オスカーが眉を寄せて押し黙った。
 しかし、学生による追及は終わらない。
「『だとしたら』、なおさらおかしいですよ」
 今度は、レクシオが口を開いた。アーノルドへ向けた目を笑みの形に歪める。
「学院の警備員としてではない立場で帝都の外にいて、なおかつ名前をはっきり呼ばれたくない。ということは、何か命令を受けて動いていらっしゃるんでしょ? 上にいるのがあの少佐さんか、ほかの誰かかは知りませんけどね」
 アーノルドは何も言わない。学友たちは唖然としている。それでもレクシオは、視線を逸らさなかった。
「イルフォード家のお膝元でそんなふうにこそこそして、大丈夫なんすか? 上司の立場とか、権力問題とか、色々あるでしょう」
 声量をぎりぎりまで落としたのは、気遣いのつもりである。レクシオがわずかに身を乗り出すと、アーノルドは肩をすくめた。
「やれやれ。これは、事態がこじれたな」
 レクシオは繕った笑みを崩し、片目をつぶる。
「俺に名乗ったのは失敗だったんじゃないですかね」
「あの状況で名乗らないわけにはいかないだろう。それに、君がこんなに手ごわい子だとは思いもしなかった」
 おどけたようなアーノルドの言葉を受けて、レクシオは苦笑した。「褒め言葉として受け取っておきます」と明るい声を返し、目をすがめる。
 今度のそれは、笑みではない。
 値踏みするような、あるいは警戒するような。
 鋭い緑に射抜かれた男は――瞑目し、そして表情をやわらげた。
「事態はこじれた……が、幸運な出会いでもあるかもしれないな」
 レクシオは数度まばたきする。
 自分を取り巻く空気がわずかに緩んだ、と気づいたのだろうか。アーノルドは怪訝そうな表情をしている学生たちに笑いかけた。
「お察しの通り――私は、ある目的のためにここにいる。学院の警備員としてでもなく、一個人としてでもなく、ね。そのために、イルフォード家のご令嬢に話を聞きたい。取り次いでもらえないだろうか?」
「君たちがここにいるということは、彼女もいるんだろう」――そう続いた言葉に、レクシオはすぐに答えられなかった。トニーたちも困ったように沈黙している。
 四人の学生は、互いの顔を見合う。
 やがて、重苦しい空気を低音が揺らした。
「何がなんだかわからねえけど……できることは限られてるな」
「……そーだね」
 ため息まじりのオスカーの言葉に、トニーがほろ苦い笑みを返す。
「とりあえず、ステラを呼んでこよう」
 同意を求めるように猫目が動く。レクシオは大仰に両手を挙げた後、「頼むわ」とささやいた。

「ステラ、一緒に来てくれ。ちょーいと緊急事態」
 唐突な学友の言葉に、ステラたちは揃って目を瞬いた。

 トニーがひょっこり現れたのは、セシル少年と別れて少し経ったときだった。広場の様子も聞き終え、ラキアスへの連絡事項があったのでそのメモも取り、さあどうしようかと話していたところである。小走りで路地から目抜き通りに出てきて、ステラたちを見つけた彼は、明るく先の言葉を放ったのだった。若干息を切らせながらも、悪戯っぽくほほ笑んで。

「緊急事態……って。何? なんかトラブルでもあった?」
 やっと呼吸を整えたトニーの方へ、ステラは身を乗り出す。彼は帽子の端をわずかに持ち上げた。
「トラブル、と言えばトラブルかもなあ。みんなが想像しているような感じではないけど」
「ど、どういうことですか?」
 ミオンが目を回しそうな顔で問うが、トニーははっきり答えない。眉根を寄せて、何やらうなっている。この場で説明する気はなさそうだ。
 ステラが顔をしかめたとき、彼は帽子をとって乱暴に頭をかく。
「なんかな。おまえと話したいって人がいんのよ」
「あたしと?」
「うん。とりあえず、レクシオが団長たちを呼びにいってて、オスカーたちにその人と一緒にいてもらってる。だからみんなも一緒に来てくれ」
 猫目の少年の声音は、珍しくかたい。
 彼がここまで神妙にしているということは、よっぽどの事態が発生したのだろう。四人が互いに目配せしたのち、代表してステラがうなずいた。
「わかった、行く。案内頼める?」
 ステラが真剣に答えると、トニーはようやく顔をほころばせた。
「もちろんよ」
 いつもの調子で口の端を持ち上げた彼は、軽やかに来た道を駆けだした。

 トニーに導かれるまま路地を行く。何度か角を曲がった先で、見知った人たちを見つけた。ステラがものを言うより早く、トニーがそちらへ手を振る。
「オスカー、シンシア」
 呼びかけられた二人が振り向いた。
 そのときステラは、彼らのそばにもう一人いることに気づく。彼が自分と話したいという人なのだろうか。どこかで見たことがある気もするが、はっきりとは思い出せない。
 ステラがしかめっ面をしている間に、トニーが立ち止まる。彼に倣って足を止めた四人は、その場をぐるりと見回した。
 レクシオ、ジャック、ナタリーの三人はすでに到着していた。幼馴染の少年は、ステラに気づくといつもの調子で手を振る。オスカーは相変わらずの無表情だが、かたわらのシンシアは所在なげにこちらとあちらを見比べている。
 そして、最後の一人。大人の、男の人だ。
 年の頃は、はっきりとはわからない。が、ラキアスよりは上だろう。正直言って人相が悪い。この状況でなければ、ステラは確実に警戒していただろう。
 彼はまず、トニーに笑いかける。そうしているといい人そうだ。
「ご足労頂いて申し訳ない。助かったよ」
「いえいえ。俺らも詳しい話を知りたいんでね」
 トニーは男性に悪童のような笑みを返す。明るさの裏に棘を含ませた言動を受けて、男性は困ったように眉を下げた。
 その視線が動き、ステラの前で止まる。それに気づいた彼女は、猫目の少年の前へ出た。
「ステラ様も、わざわざお越しいただいて恐縮です」
 ステラはわずかに眉をひそめる。仰々しい敬称をつけたということは、彼は彼女の素性を知っているということだ。なおかつ、イルフォード家と多少関わりのある立場にいるのだろう。
 一体どんな面倒事が持ち込まれるのだろう、と胸中で嘆息した。
「……私と話をしたい、と聞きました。失礼ですが、お名前を伺っても?」
「それは、もちろん」
 気を取り直してステラが問うと、男性は朗らかに答える。
 そして、その場で敬礼した。
「憲兵隊専任捜査官、セドリック・アーノルドです。此度は、ある極秘任務のため、帝都より参りました」
 男性の角ばった名乗りを聞き、ステラは目をみはった。