第四章 『金の選定』(2)

 ステラは深く息を吸い、両目をひらいた。
 世界が冷たい。叩きつける雪の感触が、意識を急速に現実へと引き戻す。
「今の、は」
 緊張に固まった声が紡いだのは、疑問であり、確信だった。
 光に覆われた視界。
 つかのま断絶した意識。
 その先で、いつかのように記録を見て。
 最後に、彼の声が聞こえて、ほほ笑みを見た。
『やってしまった』。
 隠し切れない後悔と怒りが、雪崩のように襲いかかって、頭と心を埋め尽くす。
 顔を手で覆いそうになった。その場にうずくまってしまいたかった。けれど、それは許されない。状況と彼女の本能が、許さない。
 風がうなる。その直前に、ステラは飛び退っていた。紫電をまとった剣が、鼻先をかすめる。
「『金の選定』は為された」
 低い声が淡々と告げる。
「やっと、この仕事も終わる」
 続いた言葉の意味が、ステラにはよくわからない。ただ、大ぶりの第二撃をかわして、駆け出した。心の中で司教や神官たちに謝りながら、助走をつける。そして列柱の一本を駆けのぼり、軽く蹴った。
 刺突の構えをとる。そうして、ラメドのもとに飛び込む。目をみはった男は、体をひねって剣を構え、銀色の突きを受けた。けれど、ステラの剣は彼の防御をかいくぐり、頬から耳の下にかけて一筋の傷を刻む。
 ステラは細く息を吐き、身を引いた。跳ぶようにして後退する。深入りはしない。セルフィラ神族に傷をつけられただけでも御の字だ。
 ラメドも反撃してこない。剣を火の玉に変えて、切創をなぞった。それ以降は傷を気にするそぶりを見せず、ただステラに目を向ける。ステラは、そんな彼をにらみつけた。
「ラメド」
「何かね? 『銀の翼』」
「あなたたちの目的は何?」
 ずっと、『選定』を妨害してきたのだろう、と思っていた。『翼』が選ばれるのを阻止するつもりなのだと。しかし、『選定』の瞬間、彼は動かなかった。ステラたちが最も無防備な瞬間に何もしてこなかったのだ。考えてみれば、『銀の選定』のときもギーメルやアインに退却をうながした。あのまま彼らを好きにさせて、ラメド自身も加勢していれば、ステラ一人くらいは殺せていたかもしれないのに、だ。
 一見矛盾した彼らの行動。その奥にあるものは何か、とステラは問う。
 正直、答えは期待していなかった。けれど、ラメドは顎に指をかけると、ふむ、と呟く。言葉をまとめるかのように。
「……そうだな。もう教えてしまっても構わんか。知ったところで、止められるものでもない」
 引っかかる言い回しだ。ステラは眉を跳ね上げる。しかし、彼女が追及する前に、ラメドが言葉を繋いだ。
「我々の目的は、『翼』を潰すことだ」
 彼が平坦な声で告げたのは、わかりきったことだった。
 ステラは反射的に食ってかかろうとしていたが、その前にラメドの声が続く。
「より確実に、残酷に、目的を達成する。私の仲間はそれを望んだ。そのために、わざと『金の選定』を待った」
『銀の翼』たる少女は息をのむ。遠回しな男の言葉を理解するのは、けれどさほど難しくない。背筋に、寒気が走った。
「二つの『選定』が終わり、『金の翼』が選ばれた瞬間、両方を殺す。それが彼の作戦だ」
 改めて簡潔に、反逆の神は意図を述べる。その一言を聞いた瞬間、ステラの思考と体は凍りついた。金色こんじきに満たされた空間となじみ深い笑顔とが、何度も脳裏にちらつく。

 自分が広場を離れるべきではなかった。どうして彼を選んでしまったのだろう。そもそも、『金の選定』の特徴について、さっさとみんなに打ち明けていれば。挙げればきりのない後悔が浮かんでは消え、また浮かんで、頭と心をかき乱す。
 悔恨と動揺から来る混乱の果てで、ステラはぎゅっと目を閉じる。そのとき、決して遠くない過去の声が、耳の奥でささやいた。
『まだ起きてもいない未来の話だ』
 彼の声。どこかで求めていたのだろう。ステラは細く息をのむ。
『深く考えるのはよそうや。身が持たないぜ?』
 そうだ。まだ何も起きていない。
 自分はラメドと対峙していて、黒い獣が広場に現れてはいる。けれど、それだけだ。人は、まだ神にも神の獣にも負けていない。二人は、まだ生きている。
 嘆くのは――あきらめるのは、まだ早い。

 止まった思考が、じわじわと熱を帯びる。
 全身が震えているのは、寒さのせいではない。手袋に覆われた五指で、彼女は、柄が軋みを上げるほど強く剣を握った。
 地面をしっかり踏みしめて。両目をしっかり見開いて。意志を対峙する者へぶつける。そうはさせない、おまえたちの思惑通りにはならない、という意志を。
 ラメドは彼女の変化をどう受け取ったのだろう。軽く瞠目したのち、少しだけほほ笑んだ、ようにステラには見えた。揺らめく火が再び剣に変わり、男の手に収まる。それを見たステラも、得物の感触を確かめた。
 呼吸、目、十指じっし、筋肉の動き。そして足の向き。相手のすべてに神経を研ぎ澄ませ、動きを可能な限り予測する。そして、自らの中を静寂で満たす。
 吹雪の中、冷たい風を感じて、ステラは最初の一歩を――踏み出そうとした。
 だが、それは叶わない。足を出しかけた刹那、彼女の世界が揺れて、ゆがんだから。
「え」
『選定』のときとは違う、曖昧で、不安定なゆがみ。それが眩暈によるものだと気づいたのは、間抜けな声をこぼしてからだった。
「言っただろう。止められるものでもない、と」
 ラメドの声も、ひどくいびつに聞こえる。その音はステラの不快感を掻き立て、吐き気を呼び起こした。
 動物としては耐えがたいそれを意志でねじ伏せて、ステラはラメドをにらむ。口もとが痺れる。舌が上手く動かない。それでも怒りと疑問を紡いだ。
「なに、を……した……!」
「剣に少々毒を仕込ませてもらった。安心したまえ、この地上に存在するものだ」
 毒。そんなものが、いつ入ったのか。少女の鈍る思考はけれど、すぐに答えを提示した。
 腕をわずかに剣がかすった、あのとき。ステラは我知らず傷口を見ようとしていたが、意思に反して体の動きは鈍重だ。視界は、横殴りの雪ばかり映している。
 雪を踏む音がする。それが現実のものなのか、混乱した聴覚が生み出した幻聴なのか、ステラにはもうわからない。ただ、足音にかぶさった声は、妙にはっきり聞こえた。
「苦しみもがいて死にたくはないだろう。その前に、私が殺してやる」
 ふざけるな、と叫びたかった。
 けれど、もう言葉は出ない。それどころか、顔まわりの感覚がなくなってきている。
 不格好に開いた口から息ばかりが漏れる。ただ、ただ、苦しい。それが毒のせいなのか、沸騰しそうな感情のせいなのか、ステラには判断がつかなかった。
 白しか見えない。不快な音しか聞こえない。敵を前にして、何もできない。それがひどく悔しくて、悲しくて、情けない。
 そんなステラの想いとは裏腹に、指先から力が失われていく。愛用の剣が、彼女の手から離れ、落ちる――

 ――その直前に、剣が浮いた。

 ラメドがぎょっと目をみはる。彼はすぐさま飛びのいて、剣を火に変え、紫電を放った。ステラの視界にそれらはほとんど映らなかったが、迫る紫電の輝きだけは、わかった。
 セルフィラ神族の攻撃がステラに到達する前に、薄い金色の半球が現れる。その硬さと速度は学生が作るものの比ではなく、紫電はあっさり打ち消された。
「魔導術? どこから――」
 うろたえるラメドの声を、ステラは半分ほどしか聞かなかった。紫電が消えると同時、何かに強く引っ張られたのだ。
 風が耳元を通り過ぎ、雪が全身に打ち付ける。その中でステラは大きな魔力の流れを感じた。馴染みはない。けれど、覚えのあるものだ。
 魔力はステラの体に染み込み、じんわりと広がった。ややして、息苦しさと震えが少しましになる。ステラは目を瞬いて、自分のすぐそばにある横顔を見上げた。
「アー……ノ、ルド、さん……?」
 消え入りそうな呼び声に、気づいたらしい。人相の悪い捜査官は、彼女を横目で見る。
「やあ。危ないところだったな、ステラさん」
 おどけたふうに呼びかけた彼は、やわらかく目を細めた。

 ステラを抱えたアーノルドは、列柱の間を通り抜け、裏庭の隅まで駆けた。植込みの陰に身をひそめ、近くの塀に少女の体をもたせかけると、背後をにらんで慌ただしく構成式を組み上げる。古き文字が弾けた後も、目に見える変化はない。けれど、自分たちが外界から薄く切り離されたことに、ステラは感覚で気づいた。
 ふよふよと、何かが宙を漂ってくる。魔導術で浮かされたステラの剣だ。アーノルドが虚空を指で弾くと、剣は浮力を失って落ちてくる。男の手は器用に柄をつかみ、抜き身の剣を雪のない地面に置いた。
 防壁、浮遊、おそらく治癒と、何かもうひとつ。この短時間、もっと言えばあの一瞬で、捜査官は三つ四つの魔導術を同時に行使したらしい。見せつけられた事実に、ステラは瞠目した。けれど、驚きを言葉にできるほどの力は、まだない。体に残る痺れを感じながら、荒い呼吸を繰り返す。
 アーノルドはそんな少女を振り返った。その容態が決して安心できるものではないと判断したのか、神妙に口を引き結ぶ。彼女の前にかがみこみ、その腕を優しく持ち上げた。上着の上から赤黒く固まっている傷口に目を走らせると、右の五指を躍らせるようにして、再び構成式を組んでいく。
 今度の作業は、いささか時間がかかったように思えた。冗長で難解な数式を思わせる文字列は、弾けて光の粒になると、傷口へ集束していく。同時に焼けるような痛みが走って、ステラは思わずうめいた。しかし、痛んだのは一瞬のことで、後には不思議なぬくもりが広がる。それは腕から体の中心へと流れていっているようだ。腹のあたりに熱を感じた頃には、呼吸がかなり楽になっていた。
「あ……」
 ステラが思わず声をこぼしたのを見て、アーノルドが口を開く。
「どうだ? 少しは楽になったかな」
「は、はい」
 顔から力を抜いた少女を見て、捜査官も目もとを緩める。
「それはよかった。ただ、今のはあくまで応急処置だ。無理はしない方がいい。……私は医療の専門家ではないし、あまり時間もかけられないからね」
 彼の目が刹那、遠くを見やる。視線の意味に気づいたステラは、素直にうなずいた。石塀にもたれたまま大人を見上げる。
「ありがとう、ございます。あの……どうしてここに?」
「ああ。広場の方も、変な生き物が湧いて出て大変なことになっていたんだがね。少々風向きが変わったので、私がこちらに加勢することにしたんだ」
 言外に、聖堂前広場は大丈夫なのか、と問うたステラに、アーノルドは軽い調子で答えた。首をひねった少女はけれど、言葉の意味を察して目をみはる。口が勝手に動いて、片翼の名をか細く奏でた。そんな彼女を見たアーノルドが、ふと真剣な表情になる。それから彼は、ステラの肩に優しく手を置いた。
「あちらは大丈夫だ。君のご学友やラキアス様が全力で対処している。もうすぐ司令部からの増援も到着するはずだ。だから、我々はここを切り抜けることだけを考えよう」
 幼子を諭すような、落ち着いた口調。その音と言葉に耳を傾けて、ステラはいくらか冷静になった。細く深呼吸して、うなずく。そして直後、植込みの方に顔を向けた。もちろん、意識しているのはもっと先だ。
 魔力とは違う異質な気配。その持ち主は、確実にこちらへ近づいてきている。
 ステラは軽く唾を飲み込んで、捜査官に向き直る。
「……一太刀も浴びずに彼と渡り合うのは、あたしでは不可能です」
 先ほどまでの戦いを、敵の動きを思い出して、ステラは眉を寄せた。深く考えるまでもなく、今の自分とかの神とでは力の差がありすぎる。再びまともに剣を交わしても、似たような結果にしかならないだろう。
 だが――今は、これまでとは状況が違う。彼女は、一人ではなくなった。
「ですから、アーノルドさん。あなたの力と経験を貸してください」
 ステラはほのかなだるさを感じつつも、頭を下げる。アーノルドがどんな表情をしたかは、わからなかった。だが、ややあって、困惑したような声が降ってくる。
「まあまあ、頭を上げてくれ」
 ステラが頭を上げると、切れ長の目を情けなくゆがめる大人と視線がぶつかった。
「頼まれなくとも、力は貸すさ。そのために来たのだからね」
 彼は、苦笑して肩をすくめる。
 ステラはおどけたような物言いに微笑を返すと、地面に置かれていた剣を握った。