第四章 神授の剣(2)

 黒い布に覆われた巨体の半ばで、蒼い光が炸裂する。火花を起こす魔導術。単純かつ強烈なそれはしかし、大男にわずかな痛みを与えることもできなかったようだ。わずかに首をかしげた彼は、変わらず足を動かし続ける。
 そこへ、ステラは飛び込んだ。呼吸に合わせて跳躍し、突きを繰り出す。白銀の剣は、巨人の腹を鋭く捉えた。
 雷電に似た音を立て、『銀の魔力』が幾度も弾ける。ようやく、相手の体がぐらりと揺らいだ。光る両目がステラを見下ろし、巨大な拳が緩慢に振り上げられる。それが下ろされる直前、ステラはすぐさま飛びのいた。そのまま数度地面を蹴って後退する。
 拳が床にめり込んだ瞬間、彼女の周囲を防壁魔導術が覆った。再び轟音が鳴り響き、神殿が揺れる。地上は今頃大騒ぎになっているのではないか、などど考えて、ステラは眉を寄せた。
「うん。見た感じ、女神の魔力は効くみたい。と言っても効果は微々たるものだけど」
「まったく効かないよりはましだろう」
 隣にやってきたオスカーがそう返して、そのまま駆けてゆく。拳を持ち上げようとしているヌンの、手首あたりをめがけて、拳と蹴りを連続で叩きこんだ。やはりヌンはこゆるぎもしない。立ち上がり、両手を腹に当てていた。
「硬いな。神様とやらの体は、みんなこうなのか?」
「そんな感じはしなかったけど……」
 ステラは小首をかしげる。それから少し頬を引きつらせた。
「でも、彼に関しては、本来『翼』二人で挑む相手じゃないのかな、という気はしてる」
「そうだな。これでは埒が明かない」
 舌打ち混じりに呟いたオスカーが、ふと遠くを見る。
「もう一人の『翼』は無事なんだろうな」
「多分……。魔力の流れは感じるからね」
 ヌンの巨体と砂ぼこりに邪魔されて、奥の様子はよく見えない。『選定』以降より特徴的になった魔力を辿るしか、様子を知る方法はなかった。魔力の動きはいつもより激しい。そして、それに混じって神族の異質な力も感じる。きっと、あちらでも戦闘が始まっているのだ。
 先ほどのダレットの宣言と同時、アーサーがヌンの背後に潜り込もうとしたのをステラは見ている。彼が援護に回ってくれた可能性は高いが、それでもいささか心配だった。
「助けにいきたいですけど……この人を突破するのは難しいですね」
「動きが遅いから隙はあるけど、何しろこの巨体だからなあ。下手な動きをしたらこちらが潰されかねない」
 ステラたちの背後で、魔導士二人がそんなふうに言葉を交わす。話しながらも、彼らはまったく同じ構成式を編み上げた。そして生まれた薄氷の壁が、大男の無造作な平手打ちを受け止める。それをながめたオスカーが、後ろに視線を走らせた。
「……なら、潰されないようにすればいいな」
「本気かい?」
 目を向けられたジャックが裏返った声を上げる。彼の旧友は、小さく顎を動かすと、前を向きなおした。
「二秒くらいならできるだろ。おまえが手伝ってくれれば、もう一、二秒延びるかもな」
「わかったよ。手伝おう」
 ジャックは、肩をすくめて苦笑する。それから隣を振り返った。
「というわけだ。二秒――いや、三秒で抜けられるかい、ミオンくん?」
 問いを向けられた少女は、茶色い瞳を見開いた。それから、しかとうなずく。
「はい!」
 曇りのない返事を聞いて、ジャックはいつものようにほほ笑む。それと同時に何やら構成式を編みはじめたようだ。ステラも剣を握り直し、切っ先をぴたりと安定させる。
 ミオンが少しずつ移動を始めた。散歩のような足取りで、ゆっくりと。それを見つけたからか、ヌンが右足を持ち上げる。彼をにらんだオスカーが前に出た。腰を落として構える。高く上がり、勢いよく下ろされた足を、少年はしがみつくようにして受け止めた。踏ん張ったまま、体をひねる。黒い巨人は傾き、凄まじい勢いで床に叩きつけられた。
 同時、後ろで構成式が光る。それが弾けて空気中に消えると、ヌンのまわり、腕周辺の床がせり上がった。その部分はみるみる薄い板状に伸びて、ヌンの腕をがっちり覆う。
「今だ、ミオン!」
 オスカーが鋭く叫ぶ。神殿の壁際で構えていたミオンが駆け出した。倒れたヌンの足もとを通り過ぎた彼女は、薄い闇のむこうへ消えていく。その先で、すぐに魔力が動いた。
 同級生の姿を見送って、ステラは肩をすくめる。
「あたし、いらなかったね。これ」
「何言ってんだ。あんたの仕事はこれからだぞ」
 後退してきたオスカーが淡々と呟く。ステラは小さくうなずいて、剣の柄を握りしめた。むろん、承知している。
『銀の魔力』を再度刃に通したとき、地鳴りのような低音が響き渡った。ぼこぼこ、ごろごろと、落石を思わせる音がそこに混じる。ヌンが変形した床の拘束から強引に腕を外したのだった。腕が自由になると、彼はどこか億劫そうに立ち上がる。石の破片がいくつも落ちて、そのたびに苦い臭いが充満する。
「本当に数秒だったね」
 ジャックが苦々しげに呟いた。ほほ笑んではいるものの、その声は少しかすれている。
「あれの攻撃を止めただけでも大したもんよ!」
 言い終わるなり、ステラは床を蹴った。上体を起こしたヌンめがけて、躊躇なく剣を叩きつける。おそらく下腹のあたりを銀色がかすめた。不気味に光って見える目がやや細くなる。
 鬱陶しそうに手を振り上げた彼をにらみ、ステラは軽く横に跳ぶ。今度、大きな手はステラを捕らえるかのように動いた。ステラはなんとかかわしたが、指先はわずかに額をかする。
 攻撃が過ぎ去った後、彼女はその個所に違和感を覚えた。じわじわとした、経験したことのない痛みが走る。
「……何これ?」
 思わず呟いたが、深く考える暇はない。すぐさま追撃が飛んでくる。しゃがんで回避したステラは、一度剣を収めた。それから転がるように距離を取る。
 大男はじっと己の手を見つめている。次の攻撃が飛んでこないことを確認して、ステラはそっと額に触れた。瞬間、痺れが走った。目の端で白銀色の光が弾ける。
「おい、どうした」
 低い問いが飛んでくる。ヌンの腕を避けたオスカーが、滑るように駆けてきた。ステラは無愛想な少年をまじまじと見つめる。
「ね、オスカー。あたしのおでこ、どうなってる?」
「おでこ……?」
 訝しげに繰り返したオスカーは、ステラを見返してぎょっと顔をこわばらせた。
「どす黒い痣ができてる」
 短く沈黙したのち、彼は絞り出すように答えた。ステラは軽く首をかしげ、また額をなでる。再び銀光が散った。
「……薄くなったな」
 両目をしばたたきながら、オスカーが言う。ステラは顔をしかめてうなずいた。
「なるほどね。レクが言いかけてたのはこういうことか」
『こいつの手足に気をつけろ』。炎の幻影が現れる前に聞いた、幼馴染の忠告だ。オスカーも思い出したのか、眉間に深いしわを刻む。
「オスカー、ジャック、あいつの攻撃を受けないように注意して。あたしはなんとかなりそうだけど、二人は危ない」
 ステラは戦場をぐるりと見渡しながら叫ぶ。すぐに「わかった!」と明るい応答があった。
 オスカーも「承知した」と言ったのち、左足を後ろにずらす。
「俺たちが攻撃食らったらどうなるんだろうな。即死か?」
「わかんない。けど、その可能性が高い」
「さすがにきついな」
 舌打ちして、オスカーが駆け出した。その勢いで跳躍し、鋭く拳を突き出す。大人の男すらも吹き飛ばしそうな一撃が、ヌンのみぞおちあたりに直撃した。彼の体が大きく揺らぐ。
 オスカーが着地し、ジャックの前まで走る。それを見届けて、ステラも助走をつけた。その足でわずかに傾いたヌンの体を蹴って駆けあがる。止まる間もなく剣を振った。その一撃は黒い肩をしたたかに打つ。
 ヌンがぐうっとこちらを向いた。視線がかち合った瞬間、ステラの背中に悪寒が走る。直後、彼の姿がふっとぶれた。いや、ぶれたように見えたのはステラだけだったろう。
 宙に放り出された。ステラは他人事のように判断した。
 視界がぶれる。揺らぐ。鋭い風が耳を突く。視界の端で緑の光が瞬いた。
 風が起きる。体がくるりと回転する。風に受け止められる格好となったステラは、地上に向かって叫んだ。
「ジャック、ありがと!」
「よかった。無事だね、ステラ」
 すぐさま明るい応答があった。ふっと相好を崩したステラは優しく地面に下ろされると、得物を構え直す。
 轟音が立て続けに鳴り響く。ステラが無事着地するまでの間にも、戦闘が続いていたようだ。オスカーが蹴りと拳を叩きこみ、時折繰り出されるヌンの攻撃を避けていた。ステラでも割り込めないほどの激しいぶつかり合い。それは間断なく続くように思われた。だが、ふいにその流れが緩やかになる。
 ゆっくりと数歩下がったオスカーが短く息を吐く。それから、じりじりと足を別の方向に動かした。ヌンから視線を逸らさないまま、視界から逃れるように動く。
 誰も、何も言わない。援護に徹しているジャックも、二人に目を配り、腕を構えたまま沈黙していた。
 ひりつくような静寂。その先で、再びオスカーが息を吐いた。ほぼ同時に前へ飛び出す。ヌンとの距離を一息に詰めると、続けて拳を繰り出した。今度、ヌンの体はなかなか揺らがない。代わりに、ほんの少し後退したようにも見える。それを捉えた瞬間、ステラも飛び出した。
 ヌンはステラの方を見やり、大きく腕を振り上げる。少女もそれをにらみ返し、いつでも剣を振りかざせるように地面を踏みしめた。――が、予測していた攻撃はこなかった。
 ヌンが体をひねる。横薙ぎに振られた腕は、ステラの反対側にいる少年を捉えていた。
 ステラは目をみはる。思考するより先に体が動く。
「オスカー!」
 名を呼ぶ声が重なった。オスカーを淡い金色の球体が包む。ヌンの拳が直撃し、球体が粉々に砕ける。少年の体が勢いよく吹き飛んだ。
 ステラは反射的にヌンへ体をぶつけた。やはり揺るがない。我知らず舌打ちをして飛びのいた。
「オスカー、大丈夫かい!?」
 ジャックの声が地下神殿に反響する。心底あせっている様子だ。
 とっさに受け身を取ったオスカーが、うめきながら起き上がった。
「平気だ。防壁のおかげで命拾いした」
 直撃してたら半身潰れてたな、などと呟きながら、彼はなんとか立ち上がる。相変わらず、冗談なのか本気なのかわからない。
 ステラは安堵して肩の力を抜いた。しかし、すぐに表情を引き締める。上から飛んできた攻撃を避けた。右足を軸に体を回転させる。そのまま剣を眼前の敵に叩きつけた。
 刃がわずかに湾曲する。みしみしと軋みを上げる。すぐ後、甲高い音が天を貫いた。
「は」
 無意識のうちに、間抜けな声がこぼれる。支えを失った体が、ぐらりと大きく傾いた。慌てて踏ん張ったステラは、よろよろと下がる。五歩目あたりで尻餅をついた。
「おい、ぼうっとすんな――」
 背後から叱声が飛んでくる。けれど、それは不自然に途切れた。
 そして、ステラはそれを聞いていなかった。右手を、そこにあるものを見下ろして呆然とする。
「……うそでしょ?」
 中等部の頃からずっと使い続けてきた、愛用の長剣。その刃が、半ばから折れていた。