髪にまつわる思い出話

 クレメンツ帝国学院の広大な敷地の中央近く、やや南寄りの場所に、屋外運動場はある。運動場と名がついてはいるが、『武術科』の試合や魔導学の実習にも使われる場所だ。四角く区切られた土地には土が盛られているが、平らなだけではなく、ところどころにこんもりと緑ものぞいていた。
 青空がまぶしいある日の昼前。屋外運動場では、初等部『武術科』の基礎鍛錬の授業が行われていた。
 この日の内容はまさに「鍛錬をすること」であり、何をするか明確な指示は出されない。ゆえに子供たちは、めいめい好きなように運動場に散らばって体を動かしていた。ひたすら体術の基本動作を繰り返す子もいれば、かけっこをする子もいる。
 そんな中、レクシオ・エルデは一人で走り込みをしていた。
 体の動きと呼吸を意識しながら、運動場の一隅を淡々と走る。まわりに人はいない。少し離れたところから同級生の騒ぐ声が聞こえる程度だ。それがけれど、レクシオには心地よかった。もとよりともに鍛錬をする相手などいないし、いても気のつかいあいになって困るだけだ。
 ふいに、視界を黒い糸が横切る。顔をしかめた少年は、足を止めて垂れてきたそれをつまんだ。頭のあたりに、つんと痛みが走る。糸と錯覚したそれは、自身の髪の毛だった。レクシオはため息をついて、垂れてきた前髪をかき上げる。髪留めを一度外して、慎重につけ直した。
「あっ、レク!」
 視界が開けたとき、底抜けに明るい声が両耳を貫いた。顔をしかめて振り返ったその先で、長い栗毛をひとつにまとめた少女が手を振っている。
「ステラ――」
 さん、とまで言いかけて、レクシオは口をつぐんだ。ここへきて敬称をつけたら、彼女が怒りだす気がしたのだ。
 ステラ・イルフォードはうさぎのように駆け寄ってきて、ずいっと顔を突き出す。
「ねえねえ、一緒に柔軟体操しない? ひとりだとしっかり体伸ばせないんだ」
「え……いや……」
 レクシオは、うろうろと視線をさ迷わせる。期待のまなざしを向けてくる少女を一瞥し、頭をかいた。
「もうちょっと走り込みしたい……」
 小声でそう答えると、ステラは「そっかー」と言ってあっさり距離をとった。
「じゃ、わたしも一緒に走っていいー?」
「……じゃま、しなければ、いいよ」
「しょうちしたー!」
 やたらいい動きで敬礼をした少女は、意気揚々と少年の隣に立つ。
 レクシオは困惑しつつも、少しずつ走り出した。
 ある事件以降、レクシオに近づいてくるようになった少女はけれど、基本的に彼の嫌がることはしない。走り込みのときもやたらと話しかけてくるようなことはなかった。ただ、時折こちらを振り返っては、不思議そうに首をかしげていた。
 その視線が少し気になったレクシオだったが、意味を尋ねる機を逸してしまう。そして、柔軟体操を始めた頃には、そのこと自体をすっかり忘れていた。

「レクって、なんで髪伸ばしてるの?」
 ステラが唐突にそう訊いてきたのは、同じ日の昼休みのことである。
 目もとを覆うほどの前髪をいじくっていたレクシオは、少女の方に顔を向けた。
「なんだよ、いきなり」
「なんとなく気になって」
 うっそりとした声で彼が切り返すと、ステラは椅子の上で足をぶらぶらと揺らす。悪意はなさそうだが、何を考えているのかもよくわからない。
「実技とかのたびに髪をまとめるの、めんどくさくない?」
「ああ……」
 基礎鍛錬のときに気にしていたのはそこか、と気づいて、レクシオは気のない声を漏らす。前髪をひと房つまんで、なんとなしにいじくった。
「別に……人殺しに似てる、って言われるよりまし」
 ぽつり、と呟く。
 その後、二人の間に沈黙が落ちた。レクシオは、しまった、と思ったが続ける言葉は浮かばない。
 むっつりと黙ったままでいると、突然手が伸びてきて前髪をかき上げた。手のむこうから、少女の顔がぬっと現れる。
「うわっ!?」
 レクシオが悲鳴を上げると、ステラは楽しそうに笑った。
「おお、いいじゃん」
「いきなり何するんだよ!?」
「レクのおめめをもっと見たいなーって思って」
「はあっ?」
 顔をくしゃくしゃにしたレクシオをよそに、ステラは満足げに座り直す。慌てて前髪を直す少年を見て、あっけらかんと言い放った。
「短いのも、きっとにあうよ!」
 レクシオは、しかめっ面で同級生の言葉を聞き流していた。――このときは。

 髪の話をした数日後の朝、レクシオは教室の隅でうずくまっていた。
 教室にはすでにいくらか生徒がいて、荷物を広げたり談笑したりしている。課題をやったとかやらなかったとか、今日は好きな先生の講義があるとか、そんな話が漏れ聞こえてきた。――そして、時々視線が突き刺さる。
 向けられるのは、珍しい動物を見たかのような目と、声と、ひそひそ話。いつもよりはっきりとそれらがわかってしまうから、レクシオは顔を上げられずにいた。
 そんな中、元気のいい少女の声が騒がしい教室の空気を割った。笑い声と警戒のささやきが入り混じり、教室中に広がっていく。
「おはよう、イルフォードさん」
「おはようございます、ステラ様」
 同級生たちがちらほらと挨拶を返し、声の主が元気よくそれに応じている。その音を聞き取って、レクシオは恐る恐る顔を上げた。軽快に、当然のように彼の方へやってきたステラは、レクシオを見るなり目を丸くする。
「わ――」
 吐息のような声を聞き、レクシオは身構えた。全身がこわばって、喉がきゅっと縮まる。
 彼が言葉に迷っている間に、ステラが身を乗り出してきた。
「おはよう、レク!」
「おっ……おはよ……」
「髪、切ったの? 切ったよね!?」
「……ん」
 辛うじてうなずいたレクシオは、とっさにうつむく。視界に飛び込んでくる色の多さにまだ慣れない。
 一方ステラは、少年の困惑などお構いなしに輝く瞳を向けてきた。
「すっごくいい! やっぱりにあうね!」
 澄み切った笑顔を向けられたレクシオは、目を見開いて固まった。それからしおれるように背を丸め、顔を両手で覆う。
「あ、ありがと」
「どーいたしまして! ところで、なんで顔隠すのさ」
「やっぱりやだ……こわい……見えるの、こわい……」
「こわくないよー。大丈夫だよー。なんか言ってくる奴がいたら、わたしがぶちのめすから!」
「ぶちのめすな……っていうか、そういうこと大声で言うな……」
 周囲が一瞬ざわついた気がしたが、きっと気のせいだろう。気のせいだと思いたい。
 レクシオは、縮こまりながらステラの言葉に相槌を打つ。もはや日常となった二人のやり取りは、担任教師がやってくるまで続いた。

「おーっす、お二人さ……ん?」
 聞き慣れた声が、最後の最後でひっくり返る。幼馴染と話し込んでいたレクシオは、正面を向きなおして手を挙げた。
「や、トニー。なに固まってんですか」
 彼がそう声をかけると、猫目を見開いていた少年は我に返った様子で息を吐いた。
「びっくりした。誰かと思った」
 レクシオは首をかしげる。けれど、隣のステラに「髪でしょ」と指摘されて、納得した。つけたままだった髪留めをさっと外して、前髪を適当に払う。
「珍しいな、レクが前髪上げてるとか」
「さっきまで衛生の実習だったんだよ」
 未だに驚いた様子の学友を見て、レクシオはからからと笑う。
「使うのは人形だけどさ。現場にいる気持ちでやった方がいいだろ」
「なあるほど。『武術科』って大変だな」
「『魔導科』でやる薬学実習もなかなかのものだと思うけど」
 トニーの呟きに、ステラが苦笑する。それからレクシオを振り返った彼女は、ふと目を瞬いた。
「そう言えば、レク、ちょっと髪伸びた?」
「んー?」
 幼馴染に問われたレクシオは、手近な髪をひと房つまむ。それをながめてうなずいた。
「そうさな。そろそろ整えた方がいいかもな」
 今度の休みにやるかあ、などと呟いていると、ステラが悪戯っぽい笑みを向けてくる。
「昔みたいに短くはしないの?」
 頭の片隅に追いやられ、霞がかった記憶。それを不意につつかれて、レクシオは固まった。彼が返答に窮している間に、トニーが両目を光らせる。
「え? レクって、もっと髪短かったのか?」
「うん。ちなみに、その前は顔が隠れるくらい長かった」
「何それめっちゃ見たい」
「――こらそこ。勝手にばらすな」
 一瞬の困惑から立ち直ったレクシオは、すぐさま隣の少女を小突く。わざとらしく飛びのいた彼女を見て、少年はふっと口もとをほころばせた。
「ま、今のところは現状維持かな。なんだかんだ、このくらいの方が落ち着くし」
 先の問いの答えを投げる。
『レク』
 その瞬間、耳の奥に低い声が響いた。

 灰色の空気。冷たくて白いもの。頭に触れる、大きな手。
 あれは、いつのことだったか。

 よく似た顔だち、そっくりな緑の瞳。それを呪った時期もあった。そんな己を何より嫌った時も。
 けれど今は、暗く烈しい感情はない。思い出も呪いものみこんで、もう会えない大好きな人々の面影を抱きしめる。
 それでいいと、思えた。

「――そっか」
 声が、降ってくる。
 幼馴染の少女が、陽だまりのような微笑を浮かべていた。
 彼が呪いを自覚するきっかけを作ったことに、彼女はきっと気づいていないだろう。
 言葉にしようとは思わない。ただレクシオは、いつものように笑って、黒髪をかき混ぜた。
「それに、この長さ、楽でいいんだよな。そんなに手入れしなくても『それなり』に見える」
「え、落ち着くってそんな理由?」
「あー。でも、なんかわかるわー。寝癖直すのめんどいもんな」
 気の抜けた会話をしながら、友人と廊下を歩く。あの頃は想像もしなかった日常に、レクシオは今日も安堵して、身をゆだねた。

 ――それは、少年がある男の足跡そくせきを見出す、少し前のお話。

(終)