銀の翼と迷子のカラス

※『ラフィアの翼』シリーズ×『時追人』(空鳥ひよの様)コラボ作品。

 夕刻の帝都。学校帰りの学生や紳士淑女、砂ぼこりをまとった子どもなどが行き交う大通り。そのただ中に、ステラ・イルフォードはいた。人の激流の中でおぼれているかのように青ざめた顔をして、視線を足もとに向けている。
 実際、ステラは今、暗雲に閉ざされた心を抱えていた。この一か月、妙なことばかりが起きたので、妙なことには慣れ切ったと思っていたが、さらに珍妙な出来事に遭遇したのである。――いや、これはもしかしたら幻かもしれない。非現実的な事件に疲れ切った精神が、自分自身に幻覚を見せている。じゅうぶんにあり得ることだった。
 ステラは足を止める。そして、足元を見おろす。馬蹄と車輪が、石畳をこすって大きな音を立て、それはあっという間に通り過ぎていった。その音に驚いたかのように、目の前のカラスが羽を広げ、すぐに閉じた。ずいぶんと人間臭いカラスではないか。
「ねえ、本当にこっちなの?」
 声をかける。カラスに、だ。するとカラスは、一瞬だけステラの方を向いて、すぐに前を向きなおした。合っているからついてこい、と言わんばかりに。
「…………いくらカラスが人の言葉を理解できるからって、変よね、これ」
 そう。ステラが幻覚ではないかと疑っているのは、このカラスだ。ステラが世話になっている孤児院の前でうろついていたこのカラスは、見てくれからして普通のカラスではなかった。まず、頭に長い毛のようなものが生えている。先端がゆるやかに丸まったそれは、まるで人の髪の毛のようだった。近くで見てみると羽毛のようだったが。加えて、いつも眉間にしわを寄せている。しかめっ面のカラスなど聞いたことがない。そのカラスは、ステラを見つけると、やたらうるさく鳴いた。その姿が、なんだか迷子の子どもを思わせたので――つい、話しかけてしまったのだった。
「なあに? 道にでも迷ったの? あんた、どっから来たの」
 それがいけなかった。
 カラスはカァ、とひと鳴きして、ステラにくるりと背を向ける。そしてそのまま、ちらりと彼女の方を振り返ったのだ。ステラが首をひねっていると、てくてく歩きだして、すぐに止まった。そしてまた振り返る。
「ええ……? なに、ついてこいってこと?」
 カラスは鳴かなかった。代わりにてくてくと歩き出した。ステラは慌ててその後を追いかけ――今に至るのである。
 このカラスもかなり変だが、それを追いかける自分も自分だ。ステラは頭を抱えた。その間にもカラスはてくてく歩き、角を曲がって、細い路地に入っていく。
「どこまでいくのよー!」
 思わず悪態をついて、ステラは足を速めた。路地に入ろうとして――とっさに踏みとどまる。行く先から、人影が飛び出してきたためだった。その人も、慌てたように立ち止まる。しかし『彼』は、そこで首をかしげた。
「……お? ステラじゃねーの。何してんだ、こんなとこで」
「レク!」
 ステラは、路地の奥から歩いてきた彼の名を呼んだ。雑に切られた黒髪の下で、緑の双眸を光らせる少年は、名をレクシオ・エルデといった。ステラの学友であり、幼馴染である。
 ふだんは小悪魔的な言動が目立つレクシオが、今は天使のように見えた。ステラは頬を紅潮させながら、彼の両手をにぎる。
「おぁ⁉」
「ねえ、レク! そこにカラスいない? ていうか、カラス見える⁉」
「はあ? カラス? カラスなんてどこにでも――」
「足元! 多分、すぐそば!」
 レクシオは顔をしかめながら、自分の足元を見る。
――迷子カラスは、ちょうどレクシオの右かかとのあたりで立ち止まり、人間たちを見上げていた。しかめっ面は、相変わらずだ。そして、レクシオの視線も、カラスの頭上の毛で止まった。
「……これのことっすか」
「うわあああ見えるんだああああ! 幻覚じゃないってことね!」
 ステラの言葉に抗議するように、カラスがカァ、と鳴く。レクシオは、幼馴染とカラスを見比べて、それから頭をかたむけた。
「どういうことだ」
「実は――」
 ステラは大急ぎで、レクシオに事の次第を説明する。カラスはその間、一歩も動かず、一声も発しなかった。話を聞き終え、またカラスを見下ろした少年は、腕を組む。
「なるほどねえ。確かに、アホ毛のあるカラスなんて初めて見たが」
 カァ、とカラスが鳴く。今までより一段低い声のように、ステラには思われた。
「しかしまー、ステラが動物と意志疎通できるとは思ってなかったわ」
「できるか!」
 冗談なのか、本気なのかわからない発言に、ステラは食いつく。レクシオを相手にするときの、癖のようなものだった。ため息をついて、石畳を蹴る。ちょうどつま先のところに落ちていた金属片が、澄んだ音を立てて跳ねた。
「ふだんは、動物を見てもそういうこと思わないわよ。だけど、今回はそんな気がしたの」
「……頭、大丈夫?」
「あたし自身が一番そう思ってる」
「ふむ」
 緑の目が、細められた。
「まあ、うさぎのぬいぐるみが人語を喋るくらいだ。カラスの言葉が理解できても、カラスが迷子になってても不思議じゃない」
「……あれは幽霊でしょう」
 ステラの律儀な指摘を流して、レクシオはその場にかがみこむ。
「しゃーねえなあ。カラスが来たとことやらに、行ってみるか。それでいいんだろ? 迷子のカラスさんよ」
「カァ」と鳴き声がした。ステラは驚いて、幼馴染の横顔を見つめる。
「レクも来るの?」
「おう。おもしろそうだから」
 ひらひらと手を振った少年は、立ち上がる。そして、カラス相手に呟いた。
「あんた、なーんか変な顔してるよなあ」
「グァ」
「その顔見てると、腹立ってくるっつーか、魔導術ぶちこみたくなるね」
「ちょっとレク」
「実は喧嘩売ってる? こいつに手ぇ出したら承知しないからな?」
「ガァッ」
「こら、カラスを煽るな! 威嚇してるじゃないの!」
 二人と一羽しかいない路地で、ステラは声を荒げた。

 こうしてカラスを追う人は一人増えた。おかげで会話が増え、ステラの精神的負担は軽減されたが、カラスが威嚇する回数も増えた。むろん、レクシオの発言のせいである。

 道行く人から好奇の視線を注がれる以外は、平和な道程だ。途中、カラスが総菜屋さんの前で立ち止まり、卵焼きを物欲しそうに見ていたくらいだ。その目があまりにも真剣だったので、ステラは卵焼きを買ってあげてみた。カラスは、くちばしを近づけたが、すぐにそっぽを向いてしまった。お気に召さなかったようだ。
「まあ、帝都の総菜はあんま美味くねーし」というのはレクシオの言である。

 そうして歩くことしばし。カラスは、ひとつの建物の前で立ち止まり、バサバサと羽ばたいた。夕日に照らされる建物を見てから、ステラとレクシオは顔を見合わせる。
「ここって……」
「教会だな」
 帝都の片隅の、小さな教会。色々あって、二人が近頃よく足を運ぶ場所だ。どういうわけかそこでカラスは羽を畳み、じっと動かなくなってしまった。
「ここから来たってことかな」
「つっても、なんで教会……」
 顎に指を引っかけたレクシオの言葉は、最後まで紡がれなかった。彼にしては珍しく、驚愕もあらわに目をみはる。ステラもまた、唖然としていた。
 カラスの黒羽のむこうに、石畳が見える。つまりは、カラスの姿が透けていた。しかめっ面が二人を見上げる。カァ、とひと鳴きした彼は次の瞬間、金銀の光に包まれて、その場から消えてしまった。
 空は赤い。遠く、汽笛の音が響く。
 後には何も残らない。黒い羽根の一枚さえも。
 ただ二人残された少年少女は、硬直した表情のまま、互いをまじまじと見やる。
「消えた……?」
「消えたな」
 ステラは、ひゅっと息をのんだ。石畳に伸びている、みずからの影を見下ろして、震えた。
「な、なんだったの? やっぱり幻覚? 幽霊?」
「いや。そんな感じには見えなかったぞ。卵焼き食おうとしてたし。幽霊だったら、あの時点で卵焼きがすり抜けてたはずだ」
「じゃ、じゃあ何……」
「俺に訊くなって」
 肩をすくめたレクシオは、そのまま体の向きを変える。制服の上着が、風をはらんで躍った。彼は、顔だけで呆然としている幼馴染を振り返ると、片目をつぶる。
「迷子のカラスは、無事におうちへ帰れました……ってことなんじゃねえか?」
「そうなのかなあ」
「そういうことにしとこうや。さ、孤児院に戻ろうぜ。チビたちが待ってるだろ」
 ステラは釈然としなかったが、孤児院のことを持ち出されれば、歩き出さぬわけにはいかなかった。
 ふうわりと風が吹く。
 ステラは一瞬だけ振り返った。やはり、なにもなかったが、かすかに声が聞こえた気がした。
『感謝する』と、ただ一言。
 老成しながらも美しさを保った、男性の声に、ステラは心の中だけで「どういたしまして」と応える。
 そうしてカラスに別れを告げた少女は、教会の鐘の音を背にして駆け出した。
 それは、時計の長針が五を指した刻(とき)のことである。


カッとなって書きました。空鳥さん、色々すみません(土下座)
『ラフィアの翼』本編は、現在リメイク中です。旧版『ラフィアの翼シリーズ』はこちらです。