夜明け前の空は、透き通った蒼だ。眠りから覚めはじめたばかりの街は、まだ静かだ。明けきらぬ夜のなか、ちらほらと炊煙が立ちのぼりはじめるのを、美雪は靄を胸に抱いたまま、見つめていた。
あの炊煙と光の下にいる人々は、何も知らない。
これから何が起きるのかを。そしてその果てに、誰が犠牲になるのかも。
それでいい。それがあるべき形だ。伝承が真実であることは、市井の人々に知られるべきではない事実。頭ではわかっている。けれど、彼女はこのような日を迎えるたびに、ぬぐいきれない疑念を抱くのだ。――本当に、それでいいのかと。彼が誰にも知られぬまま戦うことが、正しいことなのだろうか。
「なーに辛気臭い顔してるんだ?」
明るい声に肩を叩かれ、美雪は慌てて振り返る。いつの間にか、支度を終えた夫が立っていた。いつものような、膝下まである長衣ではなく、軽鎧と脚に沿うズボン、それに重たそうなブーツ、という格好で。それは、軽装とはいえ、まごうことなき戦装束だ。一瞬、言葉を失いかけた美雪は、けれどなんとか笑顔をつくる。
「やだなー。そんな顔してたかな、私」
「してた、してた」
夫は笑ったあと、ふいに表情を引き締めた。ピエトロ人らしい海の色の目が、鋭い光を帯びる。
「大丈夫だ。聞いた限りでは残党ってのも、昔ほど強い奴らじゃないらしい」
「でも……」
「ん、油断するつもりはねえ」
彼の表情は、そのやりとりは。つかのま、昔に戻ったかのようだった。まだ二人が、少年と少女だった頃の――だが、続けて笑みを咲かせた夫の顔は、今の、男のものだった。
「サクッとぶっ飛ばして帰ってくるから、ちゃんと待ってろ。浮気とかすんなよ」
「――しないよ!」
美雪渾身の回し蹴りを、夫は飄々としてかわす。それから、最低限の荷物だけをまとめた袋を肩に担いだ。
「子どもたちのこと、頼む」
「うん」
「いつも、苦労かけて悪いな」
「大丈夫よ。それに……今さら!」
美雪が拳をにぎったあと、二人はひそかに笑いあう。夫はそして、自分より小柄な妻の額に口づけた。彼が、踵を返そうとしたとき――薄明の闇が、揺らいだ。
「おかあさん? おとうさん?」
まだ幼い少年の声が、二人を呼ぶ。彼らは瞠目した。夫はやりにくそうに頭をかいて、美雪は慌てて振り返る。
黒茶の瞳に映ったのは、子ども二人。息子が、まだ幼い娘の手をにぎって、眠そうな目でこちらを見上げていた。美雪はつとめて穏やかな笑顔をつくり、息子と目を合わせた。
「光貴、どうしたの。こんな時間に」
「んと……晴香がさ、のどかわいたって、いうから。お水……」
美雪は、今度こそ顔をほころばせる。眠気をこらえて説明する男の子の頭をくしゃりとなでた。
「そうだったの、気づかなくてごめんね。晴香の面倒見てくれてありがと、光貴」
こっくりとうなずいた息子にほほ笑んだ美雪は、そのまま、もっと眠そうな娘を見やる。そして最後に、二人ともの頭をまとめてかきまぜた。くすぐったそうな声を上げる子どもたちに、美雪はあえて、底ぬけに明るい声をかけた。
「さあさ、そろそろ戻りな。ああ、晴香はちゃんとおしっこしてから寝なさいね」
「はあい」
安心したように笑う娘の横で、息子は神妙な顔をしていた。その目は、間違いなく、父親の方を見ている。内心の焦りをかくしたまま、美雪は、夫の方をうかがった。
「おとうさん、どっか行くの? お仕事?」
どちらへともなく向けられた質問に、美雪は困惑する。訊かれることはわかっていたが、やはり、返答に窮した。まだ、子どもたちには、夫のことは何一つ教えていないのだ。
しかし夫の方は、うろたえる妻をよそに、いつもどおり、さびしげに唇を上げた。
「ああ。お仕事だ。今度はちょっと、長くなるかもしれない」
「……いつ、帰ってくるの」
「わからないんだ。けど、なるべく早く帰ってこれるよう頑張る。ごめんな、あんまり一緒にいてやれなくて」
息子は、泣きそうな顔をしたが、すぐに首を振った。痛ましい姿に何を思ったか、夫は目を伏せると、今度こそ家族に背を向ける。美雪は、大丈夫、とみずからに言い聞かせ――声を高めた。
「大丈夫よ! 私、私たち、待ってるから!」
夫は、顔半分だけ振り返った。明るく作った表情の裏の傷が、隠しきれずににじんでいる。それでも、彼はうなずいた。
「ああ。――美雪、光貴、晴香。愛してる。これからも、ずっと」
痛いばかりにまぶしい一言を落として、夫は今度こそ、戦場への一歩を踏み出す。東の空からこぼれた、一条の光が、風になびく金色の髪を輝かせた。美雪と子どもたちは、扉が閉まる瞬間まで、その場に立ちつくしていた。
それから、彼らの父親は、本当に長く帰らなかった。
「いつ帰ってくるの?」と何度か問いかけたが、いつしか、それもやめた。
問うたびに、母がさびしそうにするからだった。
なるべく訊くなと妹に強く言って、何度泣かせたことか。
本当は、自分が傷つきたくなかっただけだったのだろう。
悪い未来を、見たくなかったからだろう――
黒々と渦を巻く雲の中から、雨の糸が降り注ぎ、水浸しの石畳に新たな一滴を叩きつける。遠くで何度も雷鳴がとどろき、ときには、白い光が瞬いた。この世の終わりを予感させるほど、暗く激しい天気だったにもかかわらず、いかめしい客人たちは北原家にやってきた。晴香がおびえてしまったからか、大人の話をするからか、母は子どもたちとは別の場所に行ってしまった。当の子どもたちはというと、慣れ親しんだ居間の中で、ただひたすら、母の帰りを待っているところである。
「おかあさん、遅い……」
部屋の隅で、膝を抱えてうずくまっている晴香が、ぽつりと呟いた。くぐもった小さな声。けれどそれは、隣にいた光貴にはきちんと聞こえた。たしなめるべきか慰めるべきか、彼が悩んでいたところで、窓の外に雷光が見えた。晴香が短い悲鳴をあげて、耳を押さえて伏せた。光貴はとっさに手をのばし、妹の背をさする。
十秒数えるより早く、雷鳴はやってきた。地をも揺るがす轟音は、少女の抵抗をやすやすと貫いてくる。泣きだしかけた妹を光貴は強く抱きしめた。自分自身も本当は、泣いてしまいたいくらいの衝撃だったが、守るべき妹の存在が、彼を少しだけ強くした。
そうして、長いこと雷をやり過ごしていると、光ることが少なくなった。音も小さくなってきた。壁掛け時計をちらとうかがった光貴は、顔をしかめる。
「本当、遅いな……」
呟いてから、妹に呼びかける。少女は涙にぬれた顔を上げた。
「俺、ちょっと母さんの様子見てこようと思う。一人で、待っていられる?」
晴香は一瞬、絶望に塗りたくられたような表情になったが、すぐ、気丈にうなずいた。光貴は相好を崩して妹の頭をなでると、掛布を一枚、晴香の背にかけた。
「怖いのはわかるけど、なるべく壁から離れてな。音や光が怖かったら、ちゃんと目を閉じて、耳をふさいで」
「……うん」
「大丈夫、すぐ戻ってくる」
言いながら、光貴は、妙な胸のうずきを覚えて天井を見上げた。遠い記憶をかき起こされる感覚に、意識を持っていかれそうになる。だが、すぐ我に返ると、走って居間から飛び出した。
母がいかつい大人たちと歩いていった方向を思い出しながら、じょじょに玄関の方角へと歩みを進めてゆく。また、空が暗くなるなかで、光貴は玄関先の部屋の扉が、わずかに開いているのを見つけた。その隙間には、見覚えのある人影。いかつい大人たちの姿はない。
「っ、かあさ――」
部屋をのぞき、呼びかけようとして。光貴は、衝撃に喉を塞がれた。
その部屋は、もともと父の寝室だった。今は、ほとんど物がない。その部屋の中心に母がいた。丸めた背が、ずいぶん頼りなく見える。何をしているのか、わからない。だが、母のむこう側に大きなものが横たわっていることに、気がついた。
よく、見えない。光貴が目をこらそうとしたとき、外で白い光が弾けた。
雷光に身をすくませた光貴は、その先に浮かび上がったものに、震えた。
ほんのわずかだけ、大きなものが光を浴びて、輪郭を得る。――それは、人間だった。人の体が、横たわっていた。顔と体にそれぞれ白い布がかけてある。わずかにのぞく体は無惨なもので、衣服はやぶけて、素肌には無数の傷が走っていた。
まるで、誰だかわからないような肉体。
それなのに、光貴には、「彼」が誰だか一瞬でわかった。わかって、しまった。
光貴は、息を殺して身をひるがえした。その場から逃げだした。見たくなかった、認めたくなかった。あれだけ怖かった轟音も、もはや気にならない。
「どうして」
荒い息の下からこぼれた声は、自分のものではないかのように、かすれて低い。
「なんで、だよ」
なんで、あんなところで寝ているのか。
どうして、母に『あんな顔』をさせているのか。
どうして、どうして――
『なるべく早く帰ってこれるよう頑張る』
「とうさんの、うそつき……!」
雨音も、雷鳴すらも切り裂く少年の慟哭は、誰にも届かない。
嘆きながらも、罵りながらも。光貴の脳裏には、もう一つの言葉が、こだましていた。
これはきっと嘘ではない、最後の、言葉が。
『愛してる。これからも、ずっと』
――光貴と晴香が、父の死を直接知らされたのは、翌朝のことだった。