005.信じてる

 名を呼ぶ声を聞きとって、エレノア・ユーゼスは振り返った。砂に汚れた天幕と天幕の間から、大柄な男が一人、駆けてくるのが見える。日に焼けた肌と短い黒髪、大きな体に反して目元は優しげだった。さながら地に根を張る大樹のような彼は、エレノアの前で立ち止まると、見本のような敬礼をしてくれる。エレノアは久方ぶりに相好を崩した。
「やあ、フォスター上等兵。……いや、今日付けで軍曹だったか?」
「はっ。報告が遅れまして、申し訳ございません」
「構わんよ。こんな場所だからな、一日のうちに二度昇進することもある。いちいち報告していたのではきりがあるまい」
 きまじめな謝罪を明るく受けとめられても、男の表情は鋼鉄の仮面のようだった。しかし、ふいにそれが揺らいで、はがれ落ちる。おや、と目を瞬いたエレノアは、彼の視線が自分の左腕に向いていることに気がついた。今は固定されていて動かせない左腕を、掲げる代わりに彼女も見下ろすと、男はわかりやすく表情を歪めた。
「これか? 先刻、敵軍と乱戦になって、そこでしくじったのさ。大したことはない」
「……また『使い捨て』ですか」
 駆けだし軍曹の声は暗い。その分、エレノアの方が陽気に繕ってやろうと思ったのだが、口を開いた途端、笑顔が作れなくなった。私もまだまだ甘いな、と心中で自嘲しつつも、彼女は右手を振った。
「現場指揮官の判断だ。上層部にそのつもりはなかっただろう。何せ、魔術師は貴重だからな。君や私が死んだとき、困るのは軍の方だ」
 多分、あの禿頭曹長、今ごろ大目玉をくらっているぞ――おどけてみせたその声は、自分でもわかるほど乾いている。これ以上この話題を続けていては、きまじめな軍曹の精神を削り取るだけかもしれぬ。早々に見定めたエレノアは、男に背を向けた。
「ユーゼス准尉!」
「そろそろ決着もつく頃だ。お互い生きて帰れたら、また羊肉の美味しい店を教えてあげよう」
 ぞんざいに手を振って、一歩を踏み出しかけたとき――エレノアはほんの少しだけ、男の方を振り向いた。
「だから、君は死にに行くなよ。『クルト』」

     ※

 ひたすらに伸びる廊下は、壁も床も天井も、淡い黄色で統一されていた。人の衛生に関わる場所でありながら、汚れていたり臭っていたりすることも珍しくないのが、この時世の病院というものだ。しかし、さすがに国軍本部に近い軍病院ともなれば、あるていどの清潔感は保たれている。慌ただしく駆けまわる医師や看護師たちの妨げにならないよう気を遣いながら、エレノアは目的の病室を探していた。教えてもらった部屋番号を頭の中で復唱していた彼女はけれど、前方から来る一人の男性に目をとめると、復唱を中断した。白衣の男性も彼女に気づいて、相変わらずの朗らかな笑みを浮かべる。
「やあ、隊長さん。腹心のお見舞い?」
「そんなところだ」
 エレノアがさらりと返すと、白衣の男性、もとい軍医ジルフィードは「ちょうどよかった」と目を輝かせた。
「今、様子を見てきたところだったんだ。ついでだから容体を説明しておくよ」
「よろしいのか」
「よろしいも何も、直接の上官は君だ。状態はきちんと把握できていた方がいいでしょう」
 医者の正論に、エレノアは頭を下げた。二人は並んで歩きだし、道すがら、ジルフィードがエレノアに簡潔な説明をしてくれる。結果、わかったのは、彼にしては重傷な方だが命に別条はない、ということ。魔術師でもあるジルフィードが治療に携わることもあり、長く見積もってもひと月ほどで復帰できるだろうということ。そして。
「一応ひととおりの検査はしたけど、魔力の方に異常は見られなかった。でもまあ、復帰後ひと月くらいまでは様子を見ることにするよ。何が起きるかわからないから」
「承知いたした。部下が世話になる」
 エレノアが軍隊式に礼を示すと、ジルフィードは軽く手を振った。その手でそのまま、エレノアの左の扉を示す。ここが病室だということだろう。
「彼には来客があることは伝わっている。あとはお二人水入らずで」
 軍医はそう言い残すと、悪戯っぽくほほ笑んで去ってゆく。揺れる白衣を見送ったエレノアは、扉を三度叩いてから、開いた。
 広くはないが手狭でもない病室の窓際。エレノアが会いに来たその人物は、人の気配に気づくなり、あおむけに寝たまま顔だけを動かした。負傷してもなお光を失わない双眸は、軽い驚きに見開かれた。
「……隊長」
「やあ副長。そのままで」
 きまじめな彼のことだから、無理に起きかねないと思ったエレノアは、先制してそう言った。この部屋の患者であるコンラッド・フォスターは恐縮したように目を閉じる。構わず、エレノアは寝台の脇へ椅子をひっぱり、腰を下ろした。
「どうだ、具合は。痛みはあるか?」
「ありますが、おかげさまで今はかなり楽ですよ」
「そうか。……先生には本当に、頭が上がらないなあ」
 鳶色の瞳は、穏やかに部下を見下ろす。腕と顔に手当ての跡があるが、加えて左足もしっかり治療と固定がされているはずだ。全貌を想像したエレノアは、思わず呟いていた。
「君がこれほどの大けがをするとは、珍しいこともあるものだ」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。情報を精査しきれなかった私の失態です」
「気に病むなよ。君が指揮した隊では負傷者は出たが死者は出なかった。それだけで、十分以上の働きだ。……今回は」
 労うつもりで言ったことに、わずかな翳りがあった。それに気づいたのはコンラッドだけであり、彼はわずかに表情を曇らせた。
 数日前のことである。王都からわずかに北で、魔物が大量に発生した。ちょうど、先年にヴェローネル周辺で起きた件と似てはいたが、今回の現場周辺にねぐらとなるような遺跡はない。討伐と調査のための部隊が派遣されることになり、コンラッド・フォスターが一部の魔術師部隊隊士を率いて陸軍に合流することになったのだ。結果として討伐は成し遂げられたが、かなり激しい戦いになったようで、かなりの数の負傷者と三名の死者が出た。それだけならば軍事作戦ではしばしばあることだが、今回魔術師部隊、通称『白翼の隊』の面々が眉をひそめたのは、作戦行動中の出来事である。乱戦のただなか、統制がわずかに乱れていたところで、当時魔術師たちと戦っていた陸軍の一小隊が、わざと彼らに本部からの指示を歪めて伝え、魔術師たちを群れた魔物のただ中に置き去りにしようとしたのだ。コンラッドの指揮と、エレノア達の下で精鋭として鍛えられていた隊士たちの奮戦のおかげで死者を出さずに窮地を脱せたが、その代償は軽くなかった。
「『使い捨て』精神は今も残っているようだな」
 エレノアは、気づけば吐き捨てていた。コンラッドが、さまざまな感情のこもった目を向けてきているのに気づき、彼女はあわくほほ笑んだ。
 魔術師部隊本部で、報告書とにらみ合いをしながら対応に駆けまわった、数日前の記憶がよみがえる。回顧は間もなく、もっと遠い日の出来事までをも、二人の間にあぶり出した。
「……あのときとは立場が逆ですね」
「そうだな」と短く答えたエレノアは、軽く目を閉じる。荒れ果てた戦場の風景は、今もなお、昨日見たもののようにこびりついていた。彼らがまだ、いち兵士であった頃は、対外戦争が頻繁に行われていた混沌の時代でもあった。魔術師部隊は作られて日が浅く、今のような通り名もなかった。軍部内での彼らの地位は決して低くなかったが、戦場での扱いはまさに捨て駒同然であった。それが、ヴァイシェル大陸の抗争とはまた違う、魔術師差別の形だったのだ。
「――君に、あのとき言わなかったが。当時の私は、先日の君とまったく同じことをしたんだ」
 ふと、思い出して。エレノアは口火を切る。息を詰めるコンラッドをまっすぐに見すえた。
「分隊といえど一隊の指揮を任された身であったから、突っ走るのはよろしくないとわかっていたが……状況が、私を指揮官のままにしておくことを許さなかった。途中から補佐役の少尉に指揮を預け、私自身が囮となった。前線で術が使える魔術師が私しかいなかったからな、自然とそうなった。あのていどの負傷で済んだのは、運がよかったのだろう」
 副長は、黙ったままだ。エレノアは、彼にそっと微笑を向けた。
「当時、私を心配する人間はほとんどいなかった。当時の分隊の人々でさえ、『魔術師が減らなかったこと』を喜びはしても、私という人間に気を回すことはなかった」
「隊長……」
「あんなふうに声をかけてきたのは、君だけだったんだぞ。実はな、こんな人のいい人間が軍にいるものか、と思っていたんだ」
 だからエレノアは、彼を魔術師部隊に引き入れた。隊長に就任する際、副隊長に彼を推挙した。このきまじめな男ならば、信じて背中を預けられると、何年も前から、確信していたから。
「だから、しっかり治せよ。君にはまだまだ働いてもらわねばならない」
 コンラッド・フォスターはただ低頭した。エレノアは静かに立ち上がり、椅子を元の場所に戻す。病室から出る間際、少しだけ、部下を振り返った。
「無事退院してきたら美味しいものでも食べに行こう」
「隊長のおごりでしょうか?」コンラッドが、からかうように訊いてくる。エレノアは思わず声を立てて笑った。
「そうだな。部隊長なる者、部下を労うことを忘れてはならんと先代も言っていたし」
「そういえば、あの方は口癖のように仰っていましたね」
「ああ。先代に怒られぬよう準備しておくから、きちんと治して出てきたまえよ――クルト」
「了解いたしました。エレノア殿がそう仰るのであれば」
 つかのま、かつてのように呼びあって。二人はまた現在の居場所に帰ってゆく。
 ただの兵士であった頃には、名で呼びあっていたあの頃には、もう戻れない。けれど、それを惜しいとは思わない。ただ、「今」を守るために戦うだけだ。