「美雪?」
「――あ」
ある男の妻として一部の界隈では有名であった行商人の彼女が、かつての同胞と再会したのは、行商を始めてから一年半が経とうかという頃であった。
街の真ん中でばったり出会った二人はしばらく互いを見つめあう。――やがて、彼女の名を呼んだ壮年の男の方が吹き出した。
「お互い歳とったな」
「…………クリス。第一声がそれって、ちょっとどうかと思うんだけど」
北原美雪は、『解放軍』時代の友人を白い目で見た。
二人はそれから近くの酒場に移動すると、杯を交わしながら語りあった。響き渡る喧騒は、いつでも粗野な印象を美雪に抱かせる。けれど、彼女は決してそれが嫌いではなかった。
酒の入った杯に抵抗なく口をつける女を見て、クリスがしみじみと呟く。
「そうか。美雪も酒が飲める歳になったんだよなあ」
「昔はよく、周りの男どもが私に勧めてきてたわよね。あれにはちょっと引いた」
「奴ら、後でジェラルドにこっぴどく怒られてたしな」
クリスの言葉に、美雪は何ともいえず沈黙する。
「ピエトロ王国を『堕天使』の手から取り戻す」――大層な大義名分を掲げて『神聖王』と彼に従う者たちが活動していた時代。拾われ者の美雪は、まだ幼い少女で、クリスは長を支える少年参謀だった。彼らと過ごした、せわしなく、危険で、けれど温かい数年を思い出して、美雪は懐かしさと寂しさを同時に抱く。
「あれからきっと、みんな変わったのよね」
ぽつりとこぼれる呟きに、クリスが眉をひそめる。それから無言で杯をあおり――美雪の方を見てきた。
「ああ。変わったな。みんな、いろんなふうに」
「あんたはそんなに変わってなさそうで安心したわ」
「俺はおまえが商売やってるってところに驚いたよ」
軽口を交わし合ったあと、二人はそっと笑った。
どこにでもあるような穏やかな時間。けれどそこに空虚が混じるのは、本来そこにいるべき人間がいないからかもしれない。
美雪はまだ酒の残った杯の中をじっと見つめて、慎重に問うた。
「あの、さ。ジェラルドのことは、伝わってるの?」
答えはすぐに返ってこなかった。美雪が顔を上げると、旧友が気まずそうにしている姿が映った。それだけでもう、答えが分かってしまった。ふ、と彼女が声に出さず笑うと、クリスは目をみはる。驚きから覚めると目を伏せた。
「おまえは」
「ん?」
「おまえは、ジェラルドにもう一度会いたいと思ったことがあるか?」
唐突な問い。
けれど美雪は驚かなかった。ただ微笑する。
「――何度も、何度も思ったわ」
会いたいと思った。願った。
だが、それは叶わない願いであるということもよく分かっていたのだ。
だから一度も口にしなかった。
触れればそれだけで崩れてしまいそうな儚い言葉は、二人の間を漂う。
男の赤い瞳がそれを捉えて、少し歪んだ。
「そうか」
きっと、同じことを思っているのは彼女だけではないだろう。
あの男に関わった人たちすべてが同じ願いを抱いて、その影をどこかに背負って生きている。
叶わないことを願っても仕方がない。
それでもその思いを忘れず背負い続けることが彼への弔いなのだろうと、美雪は思っていた。
少しして、クリスとは酒場の外で別れた。
去っていく後ろ姿を見送りながら、美雪は、古き時代に思いを馳せて、天を仰いだ。
――――あの頃も今も、空は変わらず蒼かった。