010.頑張ればきっと

 妹の料理下手について改善の余地がないことに、光貴はとっくに気付いていた。幾度となく彼女に料理を叩きこもうとして、その度になんともいえぬ微妙な形で失敗しているからだ。だからいつからか、彼は妹に料理を教えることを諦めていた。その代わり、それ以外のことはなかなか飲みこみが早いので一緒にやっている。
 そんな光貴に再び苦難の時が訪れたのは、ある初秋の昼下がりのことだった。

「私にお菓子作りを教えてください」
 肉屋の息子、ライルの家へ遊びに来ているときに、唐突に妹の晴香がそう言ったとき、光貴は向かいに座る少年と一緒になって目を瞬き、彼女の顔をまじまじと見返した。
 怖いくらい真剣な目。こんな顔は初めて見た。
「……なんかあったの?」
 さすがに察しの良いライルが、晴香に向かってそう問いかける。すると彼女はうつむいてしばらく低くうなり、それからがばっと顔を上げた。
「月光祭、ってあるでしょ!?」
 なぜか勢いをつけて訊いてくる少女に、兄は曖昧にうなずいた。
 月光祭。秋の半ばに王国全土で行われる祭りだ。大切な人に日ごろの感謝をこめて主に料理をふるまうという内容で、収穫祭の側面を備えている。ピエトロ王国は南側の諸国に比べると農作物が豊富なわけではないが、全く採れない不毛の地というわけでもない。なので、余計にこういった祭が重んじられる傾向にあった。
 その名を聞いただけで、光貴とライルはおぼろげながら事情を察した。別に相手に贈るものは料理でなくともいいのだが、晴香はそこにこだわりがあるらしい。
 なるほどねえ、と呟いたライルがソファの肘掛に腕を乗せて微笑した。光貴より二つ年下だというのに、なぜか偉そうな雰囲気が漂ってくる。
「晴香は、誰にお菓子をあげたいのさ?」
「なっ……!」
 からかうように彼が訊いた。目が愉しそうに光っている。対する晴香は幼馴染の質問を受けて、あからさまにうろたえた。
「べっ、別に誰でもいいでしょ!? ライルには関係ないよ!」
「ふーん。何、好きな人でもできた?」
「月光祭はそういう祭じゃないでしょーが!!」
「でもそういうひともいるよ」
「っ、うー!!」
 やいのやいのと騒がしい妹と弟分とのやりとり。激しいそれから目を逸らした光貴は、人知れずこめかみを押さえてため息をついたのである。

 結局、光貴は晴香にお菓子作りを教えることにした。
 正直絶望しか見えないが、妹なりに月光祭を真剣に捉えているのだとしたら応援してやりたいと思う。家に帰ると、彼はさっそく母に頼んでその手の本をあさっていた。
 うんうんうなりながら頁をめくる光貴の横から、母の美雪が顔をのぞかせる。
「どうしたの、光貴? 珍しくお菓子の本なんか見ちゃってさ」
 目を子供のようにくりくりさせながら問いかけてくる母。光貴は本から目を離さないまま、苦い顔をした。
「晴香が教えてほしいって言うから……」
「――あら、まあ」
 母の答えにわずかな間があったことを、責める気はない。顔は見えないが、きっと何か言いたいけど言えないような、何かが歯に挟まったような、そんな表情をしているに違いなかった。
 漂う、気まずい沈黙。
「どうしようかなあ」
 それを打ち破ったのもまた、沈痛な懊悩(おうのう)の言葉だった。

 そうして悩んだ末、晴香とともに作り始めたのはいたって素朴なクッキーだった。
 元々料理が壊滅的なのだから、簡単なものがいいだろうと苦心したすえ選んだものである。極端なことを言えば卵と牛乳と薄力粉を混ぜて練って焼けば良いのだからさすがの晴香も失敗しまいと思った。
 だが一応、光貴がそばについて監督と少しの指示を出した。おかずなら分量は適当でいい。が、菓子は正確に材料をはからないと味がそれこそいろいろとんでもないことになる。
 案の定、晴香は牛乳と粉の分量を間違いかかった。光貴は綱渡りのような気分で妹の菓子作りを見守る。
 やがて、兄妹それぞれが苦心の末に作り上げたのは、ごく普通のクッキー。形をいじろうとすると焼き上がりに支障が出るだろうという光貴の判断で、形は丸だ。
 とりあえず、母である美雪を呼んで試食してもらった。感想は、
「うん、いいんじゃない? おいしいおいしい」
 というものだった。それを聞いたときの晴香は、頬を染めて笑っていた。
 そのとき作ったクッキーはとりあえず、家族と知人できれいに平らげた。

 月光祭の日の王都クリスタは、普段とはまた違う様相を呈する。この祭りは基本、地元単位で行うもので、地域によって色合いが変わってくる。そういう慣習にのっとって、この日だけは市街地の多くを王都市民が埋め尽くすのだ。
 あちらこちらで露店が開かれ、少し視線を巡らせると花束を交換し合うカップルを見かける。どことなく甘い空気が漂う街を、光貴は一人でふらついていた。我が家の「月光祭」たる儀式は朝のうちに済ませてしまったので特にやることはない。
「光貴おにーちゃん」
 突然背後から、舌足らずな声がかかる。振り向いた光貴は目を丸くした。
 一人の少女が立っていた。柔らかい栗毛の彼女は、近所に住む商人一家の娘であり、ライルの妹分である。
 その彼女は、手に小さな袋をかかえており、光貴と視線がかちあうと、素早く袋を差しだしてきた。
「よき祭日を、いとしい人」
――それは、この祭りにて人に物を贈るときに使う言葉である。なぜか少女の口から流暢に流れた言葉に束の間ひるみつつも、少年は笑顔で受け取った。
「感謝します」
 少しおどけて彼が返すと、少女はひまわりのように笑って駆けていった。
 小さな背中を見送りながら、光貴はふと妹のことを思い出す。結局、誰かにあげるつもりらしいクッキーは焼き上がっただろうか。
 どうにかなるだろう、というのが光貴の結論である。何度やってもへたくそなことだって、頑張ればいつかはできるようになるものなのだ。
「お兄ちゃん!」
 何かを精一杯振り絞ったような声がした。そちらに目を向けると、本当に小ぶりな袋を両手で包みこむように持っている晴香に出会った。なぜかぎゅっと唇を結んで立っている。強い決意が表れた目は少年を捉える。
 そして物を持った手は光貴の方に差し出された。
「へ」
 思わずそんな間抜けな声を上げてしまったが、相手にはそれに気づく余裕はなかったらしい。少しうつむくと、真っ赤になって口を開いた。
「よ、良き祭日を!」
 今度こそ光貴は呆然自失の状態から立ち直らないまま、「贈り物」を受け取った。彼が喧騒を耳にして我に返ったとき、既に晴香の姿はなかった。目をぱちくりさせたまま、手元にある紙袋を見下ろす。
 確かに、甘い匂いがした。

「散歩」から戻ったあと、光貴はしばらく晴香のクッキーとにらめっこをした。
 匂いにおかしいところはない。今度こそ成功したのかもしれない。やはり、やればなんだってできるのだ。
 そんなことを思いながら、クリーム色の塊を口に放り込み、かみ砕く。さく、と気持ちのいい音がした。
――沈黙が、下りた。光貴はクッキーを噛みながらうつむく。母が二階から下りてきたことにしばらく気付かなかった。ややあって、彼は母から名を呼ばれる。その瞬間に、一言。
「……なにがあったんだ……」
 彼は呟きと共に前言を撤回した。
 甘いような苦いような妙な味は、塩と砂糖を間違えたとかそういうレベルではない。何か、もっと別の、光貴の知りえない領域で齟齬が生じたに違いない。
 吐き出す程まずいわけでもない、だがありとあらゆる力を削いでいく味。悲しい菓子と既存感に、少年はがっくりと肩を落とすのだった。