妹の料理下手について改善の余地がないことに、光貴はとっくに気付いていた。幾度となく彼女に料理を叩きこもうとして、その度になんともいえぬ微妙な形で失敗しているからだ。だからいつからか、彼は妹に料理を教えることを諦めていた。その代わり、それ以外のことはなかなか飲みこみが早いので一緒にやっている。
そんな光貴に再び苦難の時が訪れたのは、ある初秋の昼下がりのことだった。
「私にお菓子作りを教えてください」
肉屋の息子、ライルの家へ遊びに来ているときに、唐突に妹の晴香がそう言ったとき、光貴は向かいに座る少年と一緒になって目を瞬き、彼女の顔をまじまじと見返した。
怖いくらい真剣な目。こんな顔は初めて見た。
「……なんかあったの?」
さすがに察しの良いライルが、晴香に向かってそう問いかける。すると彼女はうつむいてしばらく低くうなり、それからがばっと顔を上げた。
「月光祭、ってあるでしょ!?」
なぜか勢いをつけて訊いてくる少女に、兄は曖昧にうなずいた。
月光祭。秋の半ばに王国全土で行われる祭りだ。大切な人に日ごろの感謝をこめて主に料理をふるまうという内容で、収穫祭の側面を備えている。ピエトロ王国は南側の諸国に比べると農作物が豊富なわけではないが、全く採れない不毛の地というわけでもない。なので、余計にこういった祭が重んじられる傾向にあった。
その名を聞いただけで、光貴とライルはおぼろげながら事情を察した。別に相手に贈るものは料理でなくともいいのだが、晴香はそこにこだわりがあるらしい。
なるほどねえ、と呟いたライルがソファの肘掛に腕を乗せて微笑した。光貴より二つ年下だというのに、なぜか偉そうな雰囲気が漂ってくる。
「晴香は、誰にお菓子をあげたいのさ?」
「なっ……!」
からかうように彼が訊いた。目が愉しそうに光っている。対する晴香は幼馴染の質問を受けて、あからさまにうろたえた。
「べっ、別に誰でもいいでしょ!? ライルには関係ないよ!」
「ふーん。何、好きな人でもできた?」
「月光祭はそういう祭じゃないでしょーが!!」
「でもそういうひともいるよ」
「っ、うー!!」
やいのやいのと騒がしい妹と弟分とのやりとり。激しいそれから目を逸らした光貴は、人知れずこめかみを押さえてため息をついたのである。
結局、光貴は晴香にお菓子作りを教えることにした。
正直絶望しか見えないが、妹なりに月光祭を真剣に捉えているのだとしたら応援してやりたいと思う。家に帰ると、彼はさっそく母に頼んでその手の本をあさっていた。
うんうんうなりながら頁をめくる光貴の横から、母の美雪が顔をのぞかせる。
「どうしたの、光貴? 珍しくお菓子の本なんか見ちゃってさ」
目を子供のようにくりくりさせながら問いかけてくる母。光貴は本から目を離さないまま、苦い顔をした。
「晴香が教えてほしいって言うから……」
「――あら、まあ」
母の答えにわずかな間があったことを、責める気はない。顔は見えないが、きっと何か言いたいけど言えないような、何かが歯に挟まったような、そんな表情をしているに違いなかった。
漂う、気まずい沈黙。
「どうしようかなあ」
それを打ち破ったのもまた、沈痛な懊悩(おうのう)の言葉だった。
そうして悩んだ末、晴香とともに作り始めたのはいたって素朴なクッキーだった。
元々料理が壊滅的なのだから、簡単なものがいいだろうと苦心したすえ選んだものである。極端なことを言えば卵と牛乳と薄力粉を混ぜて練って焼けば良いのだからさすがの晴香も失敗しまいと思った。
だが一応、光貴がそばについて監督と少しの指示を出した。おかずなら分量は適当でいい。が、菓子は正確に材料をはからないと味がそれこそいろいろとんでもないことになる。
案の定、晴香は牛乳と粉の分量を間違いかかった。光貴は綱渡りのような気分で妹の菓子作りを見守る。
やがて、兄妹それぞれが苦心の末に作り上げたのは、ごく普通のクッキー。形をいじろうとすると焼き上がりに支障が出るだろうという光貴の判断で、形は丸だ。
とりあえず、母である美雪を呼んで試食してもらった。感想は、
「うん、いいんじゃない? おいしいおいしい」
というものだった。それを聞いたときの晴香は、頬を染めて笑っていた。
そのとき作ったクッキーはとりあえず、家族と知人できれいに平らげた。
「散歩」から戻ったあと、光貴はしばらく晴香のクッキーとにらめっこをした。
匂いにおかしいところはない。今度こそ成功したのかもしれない。やはり、やればなんだってできるのだ。
そんなことを思いながら、クリーム色の塊を口に放り込み、かみ砕く。さく、と気持ちのいい音がした。
――沈黙が、下りた。光貴はクッキーを噛みながらうつむく。母が二階から下りてきたことにしばらく気付かなかった。ややあって、彼は母から名を呼ばれる。その瞬間に、一言。
「……なにがあったんだ……」
彼は呟きと共に前言を撤回した。
甘いような苦いような妙な味は、塩と砂糖を間違えたとかそういうレベルではない。何か、もっと別の、光貴の知りえない領域で齟齬が生じたに違いない。
吐き出す程まずいわけでもない、だがありとあらゆる力を削いでいく味。悲しい菓子と既存感に、少年はがっくりと肩を落とすのだった。