015.君の面影

 夏の空を見上げた。辺りに建物がほとんどないせいか、紺色の空には赤や青の星たちがきらきらと輝いている。だがそれは、純粋な輝きよりも少し薄れて見えていた。
 ふと視線を横に向けると、月がある。満月だ。今日はいつもより銀色が濃い。まん丸の月は自分の存在を主張するかのように煌々と夜を照らし出している。白銀の光が淡く、辺りに降り注いでいた。
 それが何を意味するのか、ヴィントは知っている。彼はしばし空を見ていたが、ふとした瞬間に、何か思い立ったように走り出した。

『彼ら』に関わりだしたのは、はたしていつのことだったろうか。少なくとも息子と別れてからだったには違いないが、ヴィントの中ではどうも記憶があいまいだ。
 それまで宗教など、まるで興味がなかった。だというのに秘された神話とそれを邪魔する者たちのことを知ったとき、なぜか放っておけないような気持ちになったのだ。胸の奥がざわざわと踊り、歌う。警告の歌を歌い続ける。それは十二年前のあの日、故郷の道の真ん中で感じた、おぞましい予感に似ていた。
――その予感は的中してしまったのだ。であれば今のこの予感も、軽視はできない。彼は短い間にそう判断し、少数組織で動いているらしい、謎の者たちの邪魔を始めたのである。今日、この満月の夜に、この場所にいるのも、そんな活動の一環だった。

 夜の道を走っていると、遠くから音が聞こえてくる。金属の音と、爆発音。誰かが戦っているのか。少しして訝しい気持ちは消えた。流れてくる魔力の風には、彼の敵のものが混ざっている。誰があの勢力と敵対しているのか。ヴィントは短く舌打ちすると、走る速度を上げた。
 戦闘は激しさを増した。
 戦っているのは学生だということに気付いた。そこにどうしようもない違和感と、しかしなぜか腑に落ちるような感覚があった。
 そしてこの夜――ヴィントが予見したとおり、『銀の選定』が行われた。
 神父が殺される事件が発生しているという話を聞き行動開始したヴィントだったのだが、敵対勢力により『選定』が妨害されるようなことはなかったと分かって、一安心した。
 それから先はただのきまぐれである。現代の『銀の翼』に選ばれたのは何者か、確かめに行こうと思った。
 しかしその先で、ヴィントは思いもよらぬ人物を目撃することになる。

 不本意なことに見慣れてしまった、鎌使いの青年の姿を見つけたヴィントは近場の木に飛び乗り、その様子を傍観する。視線の先では件の青年と、三人の少年少女が対峙していた。そのうちの一人、茶色い帽子をかぶった少年の口が動く。
「銀の、魔力……」
 驚愕に見開かれた瞳は、そばにいる少女を見ている。きょろきょろと落ち着かなさそうに辺りを見回す彼女からは、確かに特異な魔力が感じられた。
 ふいに、男は心音の高なりを覚える。微かな違和感。頭の奥が痺れるような。
 彼がそれに顔をしかめたとき、少女が木の方を見た。そしてヴィントの存在に気付いたのか、怪訝と恐怖が入り混じったしかめっ面をする。
 その顔を見て、ヴィントは微かに、ほんの微かに目を見開いた。

 心臓が早鐘のように鳴る。
 かつての記憶が刺激され、いくつもの映像がよみがえる。
 雪の降る町。甲冑の輝き。束の間の平穏と笑顔、そして自らが作り上げた血の――
 ヴィントの顔から表情が消える。
 彼女は、あの少女はあまりにも似ていた。北の町で出会った二人の戦士に。ディオルグ・イルフォードとリーシェル・イルフォードに。
 二人とも、ヴィントと息子を助け、受け入れ――彼の息子を殺そうとし、彼が殺した人間だ。

 ヴィントがめまぐるしい回想に浸っている間に、地面を蹴る音がする。鎌使いの青年ギーメルが、得物を手に学生たちへと向かおうとしていた。
「止まれ。ギーメル」
 声はごく自然に出ていた。ギーメルが不快そうにぴたりと動きを止め、学生たちが驚いたように振り返る。つい口出しをしてしまったことにいらだちを覚えたヴィントだったが、今はそんな場合でもなかった。
 青年が苛立たしげな表情で彼を見上げてきている。
「てめぇに指図される覚えはないけどな?」
「貴様は二度も失敗しているからな。そろそろこの任からは外されるだろうと思って、先にそれを通告してやっただけだ。俺も、貴様らのような馬鹿者に味方する気はない」
 ヴィントはさらりと返す。本当のことしか言っていない。ギーメルは隠そうともせず舌打ちをした。
 ギーメルとヴィントはかなり折り合いが悪い。敵対関係なので当然と言えば当然で、その方が自然なのだろうが、それにしても相性が悪かった。少なくとも当事者たちはそう感じているはずだ。
 ふいに、空気が変わる。またしても覚えのある力が、大気を微かに揺らした。ヴィントは、ぽつんと立っているラフェイリアス教会の方を見た。
「見てみろ。そろそろ来るぞ」
 直後、教会の一角が、爆発とともに崩れ落ちる。さらなる騒動にざわめきが広がり、少年の悪態が聞こえてくる。悪態をつくのはいいが、傍観者は敵の行動に責任を取る気はさらさらない。
 皆の視線がそこに集中したときを見計らい、ヴィントはその場を後にした。

 夜の騒動を遠くから見下ろしながら、ヴィントはいくらか前の出来事を思い出した。
 教会の屋根の上で、息子と遭遇したのだ。
 しばらく見ない間に大きくたくましくなった少年は、仲間と共に行動しているような様子だった。その仲間というのが――ほぼ確実に、あの三人の学生たちだろう。
 自分の息子と、おそらくはイルフォードの息女であろう少女の姿が順番にちらつく。
「因縁、というのかな。これが」
 親を亡くした少女と、その仇を父に持つ少年が共にいる。これを因縁と言わずしてなんと言おう。
 親によって作られてしまった、血に塗り固められた鎖に縛られる二人。
 彼らがあの事件の真実を知る日は、必ずやってくる。
 そして――ヴィントがその血ぬられた過去を清算すべき日も。
 ヴィントはふっと自嘲を口に刻むと、神に背いた者たちの監視を続けるべく、戦場めがけて駆けだした。