019.教室の片隅で

 ステラが奇妙な少年に出会ったのは、この帝国学院に入学してから二日後のことだった。緑の瞳をくりくりとさせながら彼女に容赦のない言葉をぶつけた彼は、これまで見て来た男子たちとなんら変わらぬようでありながら、彼らとはまったく違う雰囲気をまとっていた。
 例えるならば――彼女の実家、イルフォード家に何人かいた、戦場を経験した武人の空気であろうか。
 少女は腹を立てながらも、なぜかこの少年のことがずっと気になっていた。なぜだろうと考えて、すぐに答えが出る。
 彼が初めてだったのだ。彼女を「ステラ・イルフォード」としてではなく、ただの「ステラ」として見てくれていたのは。
 それまでに出会った人はだれもが、彼女を貴族の娘として扱った。しがらみから逃れたがるステラにとって、それはとてつもなく、淋しいことだった。

 入学して一週間が経った頃。ようやくステラはこの世界の空気に馴染み始めていた。そしてこの日は、自分のロッカーの荷物を整理していたらたまたま帰りが遅くなってしまっていた。大きな窓の外を流れる茜色。真ん中に浮かぶ大きな黄色い太陽は、早足に進む少女を照らしていた。
 鞄を抱えたまま走り出そうとした少女はしかし、そこでとある教室に人の気配を感じて立ち止まった。首をひねって教室の方を見る。規則的に並ぶ机。その窓際の列の最後尾に、人影が坐していた。橙色の光のおかげで姿は判別できない。
 ステラは散々迷った挙句、そっとその教室の、開きっぱなしになっている引き戸に身体をくっつけた。そうして中をのぞき込み、凝視する。
 影の正体はすぐに知れた。癖のある黒い髪に、真剣な緑の瞳。ステラが出会った奇妙な少年だ。
 黙したまま帳面を睨み、ペンを握りしめるその姿を見て、ステラはふと彼の名前はなんだったかと考える。だがいくら糸を辿っても出てこない。最初の最初に聞いた気がするが、そのときは興味などなかったのだ。だから耳を通り抜けてしまったのかもしれない。
 少年はそうしてステラが考え込んでいる間にも、黙々とペンを動かし続ける。ステラはもう一度その姿を見て、息をのんだ。
 必死に食らいつこうとするような、緑色の輝きが、何かに似ている気がしたのだ。
 そう思うと、なぜか急に正視に堪えない気分になる。ステラはきゅっと唇を引き結ぶと、彼の意識を乱さぬように、静かにその場を立ち去った。

 ステラは、時折口の中でやばいやばいと漏らしながら廊下を走っていた。図書室で帝国の歴史などを調べていたらとんでもない時間になっていたのである。季節が季節なので幸い空はまだどうにか明るかったが、遅いのには変わりない。時計を見たときはぎょっとした。
 早く帰らないとチビたちに怒られる。
 そう考えながら疾走していた彼女はしかし、ふと足を止めた。
 勢いのまま通り過ぎようとしていた教室の片隅に影が凝っている。あまりにも覚えがありすぎる影に、少女は苦笑した。
 影に近い教室の後ろの入口に立つと、息を吸う。
「何してるの、レク?」
 決して大きくない声は、しかし人気のない空間によく響いた。真剣に本とにらめっこをしていた少年の瞳が彼女を捉え、苦々しく笑んだ。
「なんだ、ステラか」
 からかうような語調。ステラはわざとらしく口を尖らせた。
「なんだとは何よー。てか質問に答えてよ」
「『継承術』についての記述が魔導の本にないか調べてたんだよ」
 覚えはあるが馴染みのない単語を言葉に乗せたレクシオが、分厚い本をひょいと持ち上げる。幼馴染の意図をすぐに読み取った少女は一言「で、あったの?」と問いかけた。彼は首を振った。
「でしょうね。都合の悪い情報は削除されるに決まってる」
「それ、聞く人が聞いたら謀反人扱いされるぞ」
 レクシオが呆れかえったような声を上げるが、そんなものはステラに関係のないものだった。
「良いのよ。いつか反旗を翻す予定なんだから」
 胸を張ってそう言うと、少年はおいおいと呟いたが、それ以上は言わずに肩をすくめた。それから結局「さて、俺も帰りますかね」と言って席を立つ。
 ステラは彼に向かって、手を差しだした。
「ちょうどいいや。そこまで一緒に行きましょ」
 彼女の幼馴染は緑の目を瞬いたが、すぐに相好を崩すと、女性にしてはたくましい手をとった。
 こうして二人はどこまでも伸びていそうな廊下を行く。響き渡るは穏やかな足音。
 後ろめたさを抱えて走り抜けた日は、少女にとって遠い記憶となりつつあった。