021.羅針盤

『所有者を死へ導く羅針盤がある』――そんな噂を彼が初めて耳にしたのは、数ヶ月前に立ち寄った小さな村だった。最初は単なる迷信の類だろうと高をくくっていたが、さすがにそれから先、生活空間に寄るたびにそんな話を聞かされていては、当初の見解も揺らぐというものである。
「この街に、噂の羅針盤があるらしいけど……」
 エリヤは呟いてから、高くそびえる城壁を振り返った。それから再び正面に視線を戻す。
 ここは、周辺地域で唯一の商業都市だ。エリヤのような行商人でも違和感なく溶け込めるほど、商人や買い手たちがあちこちで交渉を行っている。荷車が盛んに行き来しており、乾いた車輪の音が何度も耳についた。
 自分の小さな荷車の方を向いた彼は、それから荷車のてっぺんで悠々と風に吹かれる黒猫を見た。視線に気づいたのか、金色の瞳が少年を捉える。
「どう、セト?」
 エリヤが小声で問うと、猫はひらりと四足歩行になり、尻尾を揺らした。
「分からないな。確かに、ちょっと変な感じはするけど」
 猫の口は動いていない。それでも確かに人と同じ言葉がエリヤの耳へと届いた。彼は黒猫、セトの答えを聞いて腕組みをする。
「俺もそんな感じ。これは、組合か酒場で情報収集するしかないな」
「おまえが酒場に出入りしたら、かなり浮くよ」
「分かってるよ。だから組合に行くぞ」
 セトからの注意に肩をすくめたエリヤは、彼がうなずくのを見ると荷車をひいて歩き出した。
――それなりの成長を遂げた国には必ず職業組合というものがある。商人たちもこの組合を形成しており、商人となるには当然、この組合に加入しなければならないのだ。
 市庁舎より少し小さい程度の建物。青い屋根と入口にかかる看板を見てそれと判断したエリヤは、荷車を指定の場所に停め、セトを肩に乗せて組合へと入った。
 そうして結果、得た情報は、この街に例の『羅針盤』を押し売りされた人がいるらしいということである。その人物の住所を教えてもらった彼は、その人のところへ向かうことにした。
「しかし、そんな怪しい物を買っちゃう人って、どんな人なんだろう」
 エリヤがぽつりと呟くと、背伸びをしていたらしいセトが答えた。
「多分、ちょっと気が弱いんだろう。そういう奴ほど押し売りの被害に遭いやすい。気の毒なもんだよ」
 ちっとも気の毒と思っていなさそうな声音に、エリヤは苦笑を隠しきれなかった。それでもどうにか荷車をひいて角を曲がる。
 自分たちに――というより荷車の上の猫に――好奇の視線が向けられているのには気づいていたが、もはやいつものことなので気にしてはいなかった。

 件の人物の家は、商人組合から少し歩いた先にある閑静な高級住宅街の中心にそびえていた。荘厳なたたずまいの巨大な屋敷に、少年と猫はしばし呆然とする。この手の家を久し振りに拝んだせいだった。
 気を取り直したエリヤは、扉に取り付けられている狼の顔を見た。それが口に丸い輪をくわえている。ノッカーであろう輪をにぎった彼は、それを数回引いた。ごんごん、と鈍い音が二回。
 すると、少しして人の足音が聞こえた。セトがひらりとエリヤの肩に飛び乗ると同時に、か細い声が聞こえた。
「どなたですか?」
 微かに震えているのが聞いて取れ、少年は顔をしかめたが、我慢して続ける。
「旅の商人です。あなたが買ったという『羅針盤』について話を聞きたいのですが――」
 エリヤの淡々とした声は、突如門の向こうから響いたけたたましい音によってさえぎられる。目を丸くしたエリヤは、声をかけた。
「……あの?」
「す、すいません。今開けますね」
 くぐもった声は明らかに引きつっていた。セトと顔を見合わせたエリヤはしかし、すぐに前を向く。解錠の金属音が聞こえた。扉はゆっくりと開いていき、間から男の顔が現れたが、その男は気の毒なほど青ざめている。
「こ、こんにちは。旅の商人さん……なんですよね」
 おどおどした、などという表現は生易しいような様子で問われたエリヤは、しかし表情を変えずに「はい」と言った。すると、相手の目が細められる。
「あの羅針盤を、どうする気なのですか?」
 不穏な空気はない。だが、微かな警戒心が読み取れる。普通ならば慎重に言葉を選ぶべきであろう局面で、だがエリヤは平然とした態度で言った。
「いえ、お話が聞きたいだけでどうこうしようという気はないですよ。ただし、あなたがお望みならその羅針盤を遠ざけてさしあげることもできます」
 男が目を見開いた。そして、肩の上ではセトがひっくり返りそうになっていた。
 何度も何度も発言の真偽を確かめられたあと、エリヤとセトは男の家に招き入れられた。男にくっついて廊下を歩いていると、黒い前足が少年の頬を小突いた。彼は顔をしかめて、黒猫を横目で見る。
「何すんだよ」
「そりゃこっちの台詞だよ!」
 潜めた声でセトが言い返してくる。エリヤはすぐその理由に思い当たり、口を開こうとしたがセトにさえぎられた。
「なんであんなことを軽々しく口にしたりしたんだよ。もし、話を聞いても羅針盤をどうするか判断できなかったら、なんて弁解するつもり?」
「いや、判断できないってことはないと思う」
 いきり立つセトに対し、エリヤはさらりと返した。反論される前に続ける。
「少なくとも、神器かどうかの判別はできるはずだ」
 セトの、金色の瞳が見開かれる。
「……なんだって?」
 彼の声音は驚愕に満ちていた。一方のエリヤは淡々と言葉を発する。
「俺は、噂を聞いているうちに羅針盤が神器の一種じゃないかって思ってきてたんだよ。これはそれを確かめる最高の機会だ。神器であれば俺とセトの力で壊すなり、どっかの誰かさんに対処してもらうなりすればいい。そうでなけりゃ、どうしてあんな噂が立ったのか確かめてあげれば、この人の気も済むでしょ」
 穏やかな茶色い瞳が、不安そうな男の背を捉える。セトは呆然としていたが、やがてため息をつくしぐさをすると、「相変わらず無茶するなあ」とぼやいて、もう一度少年の頬を小突いたのである。
 通された部屋は、いわゆるリビングというやつだった。ただ、入ってみて二人は唖然とする。リビングらしいテーブルや椅子、棚なども置かれてはいるがその周りには骨董品の数々が鎮座していたのだ。
「どうぞ、お座りください。今、お茶をお持ちしますので」
「ああー……そんなにかしこまらなくていいですよ」
 放心状態からなんとか立ち直ったエリヤがそう言うと、男は微笑んで厨房の方へと向かっていったようだった。椅子に座ったエリヤは気配が遠ざかっていくのを感じながら、辺りをきょろきょろと見回す。
 部屋の品々たちは、エリヤの商人魂を刺激してやまなかった。古代王国貴族の家で多用されていたという時計、何千年も前に描かれた絵画、鋭く輝く保存状態の良い銅剣などなど。それらすべて、一目で価値があると分かるものだ。
「すごい人だなあ。多分、こういうところに目をつけられて羅針盤を押し売りされたんだろうけど」
「そうだろうね」
 目を輝かせているエリヤの肩の上で、セトが尻尾をゆっくり振ってのん気に応じた。
 そのとき、男が盆を持って入ってきた。「どうぞ」と言ってカップを差し出されたので、エリヤは丁重に礼を言って受け取る。すると彼が、魚の干物も一緒に差し出してきた。
「これ、その猫ちゃんにどうぞ」
「……ああ。ありがとうございます」
 エリヤはそれをつまむと、セトの方に軽く放った。彼はそれを口でくわえると目を細めて小さくぼやいた。
「まったく、みんなして猫扱いするなよな」
「良い人じゃないか」
 エリヤはそう言って微笑んでやった。それから、自分の席に着く男の方を見る。自然と厳しい顔になって切り出した。
「それで、あの……例の羅針盤のお話をお聞かせ願えますか」
 訊くと、男は苦笑した。
「分かりました。本当は実物も持ってこれれば良かったんですが、気味が悪くてとても触れなくて」
「大丈夫ですよ。仕方のないことです」
 エリヤが間髪入れず返すと、男は明らかにほっとしたような顔になって語り始めた。

――男の話を要約すると、どうもこういうことらしい。
 骨董品集めが趣味の彼の下には、ときおり古物商などが訪れる。この日も、その人物はごく普通の古物商を装ってやってきたそうだ。そして彼に羅針盤を見せ、これには不思議な力がある、加えて歴史ある代物だと説明した。
『死へ導く羅針盤』の噂を聞いていた男はその話を聞いて正体にうすうす気づいたというが、それでも商人は退かなかった。どうあっても男に羅針盤を売りつけようとしたのである。
 最終的には脅迫にまで達しかけた商人の押しに負けて、男は羅針盤を購入した。
 それからしばらくは何もなかった。だが、そのうちだんだんと、羅針盤の近くにいると自分がおかしくなっていく感覚があったという。知らぬうちに家の外に出ていたり、使うはずのない包丁を持っていたり、という具合で。
 それ以降、怖くて羅針盤に近寄れず、またどこにも行けなくなってしまったそうだ。

「なるほど」
 一通り聴き終えたエリヤは、吐息のような声を漏らす。そしてセトをちらと見た。彼は相方の視線を感じるとひとつうなずく。
 無言の肯定を受け取ったエリヤは、すっかり青ざめている男を見据えた。そして、口にした――事態を大きく変動させる一言を。
「もしかしたらその羅針盤、私たちの力でどうにかなるかもしれません」
 男の反応ははっきり言って見物だった。少年の言葉を聞いた途端、顔に生気が戻り目は大きく見開かれる。そして、椅子を蹴倒して立ち上がるかのような勢いで身を乗り出したのだ。
「ほ、本当かい!? どうやって!?」
「申し訳ありませんが、それは言えません。企業秘密なんで。そして、大変厚かましいですが、それを実行するためにあなたにあることをしてもらいたいんです」
「なんだい、何をやればいい? なんでもするよ!!」
 男は必死だった。その必死さのあまり目がぎらついていることに、おそらく本人は気づいていないだろう。エリヤはあまりの気迫に身を引いたが、笑顔だけは保ってきっぱりと、してほしいことを伝えた。
「はい。あなたに、その羅針盤を持って出かけてもらいたいんです」
 瞬間、男は顎が落ちるのではないかというほど口を大きく開いて立ちすくんだ。

「ほっ、本当に大丈夫なのだろうか……」
 久し振りに太陽を拝んだせいか目を細めていた男は、そう言って自分の手元に視線を落とした。その手には小ぶりの羅針盤がにぎられている。それは高級感を漂わせる金細工が周りにあしらわれている。茶色い盤の上で銀の針が揺れ、やがて北を指して止まった。
 不安を前面に押し出す男に、隣に立っているエリヤは微笑みかけた。
「大丈夫です。何か問題が起こりそうだったら、私とこの猫が全力で阻止しますので。あなたの不利になるような状態にだけはさせませんよ」
 そう言って彼は、親指でセトを示す。人語を解する黒猫は、だがこのときはどこにでもいるような猫のようにのんびりしていた。
 男は、渋々うなずいた。
「分かった。それじゃあ……行くよ」
「はい」
 男が羅針盤を力強くにぎって歩き出す。時折揺れる針を見つめる目は、恐怖に揺れているようだった。
 エリヤは表情を引き締めて、彼の斜め後ろを歩く。すると、セトに尻尾でつつかれた。
「エリヤ、本当に大丈夫かい?」
 真剣な光をたたえた瞳を見返して、少年は肩をすくめた。
「大丈夫じゃないかもしれないな。間近で見て分かったけど、あれはかなり強力な神器だよ」
「ちょっと」
「でも、誰かがやるしかないんだ。そして俺たちはそれをやりたいと思っている、適役じゃないか。セトも神器の情報欲しいだろ?」
 最後の一言はセトにとって決め手だったらしい。それを突きつけられた途端、彼は背中を丸めて「そうだけど」などとぼやき始める。その様子を苦笑して眺めたエリヤは、前を向く。
「せっかくの機会なんだ。活用しない手はない」
 そうして浮かべた笑みはしかし、少しだけ強張っていた。
 エリヤとセトが二人して異変に気付いたのは、それから数分後のことだった。先程まで市街地を市街地を、と意識しているようだった男が、急に人気のない方へ向かいはじめたのだ。足取りも、どういうわけか先程よりおぼつかないものになっている。
「来たな」
 エリヤは目を細めた。セトも彼の肩から下り、臨戦態勢をとる。心なしか毛が逆立っていた。
「どうする? このまま放っておくと、厄介なことになるかもしれないよ」
「そうだね」
 張りつめた声で投げかけられた問いに、エリヤはうなずく。そして、布が巻きつけてある右腕をゆっくりと掲げて目を閉じた。
「――気が進まないけど、使わせてもらうとしようか」
 そう言うと彼は右腕の布を勢いよく取り払った。すると、腕に十字架をかたどったような文様が浮かびあがり、青紫色に発光した。
 光を感じた少年は目を見開く。すると、彼の脳裏に映像が展開された。
 今進んでいる道が後ろへ流れる。現れたのは小さな民家、そして濠。濁った水が激しく流れ、『彼』の体を押し流す。
 映像は断片的で、また砂嵐にまぎれたようなものである。それでも、男の運命を暗示するには十分なものだった。
「この先に濠がある」
 目を閉じたエリヤは端的にそう言った。
「それって……!」
 セトが息をのみ、そしてさっと身がまえた。エリヤもきっと前を見る。
「うん。止めるぞ、セト!」
 言い終わる前に、エリヤは地面を蹴っていた。すぐさま男に追いつき、勢いに任せて羅針盤を持っている、右腕をつかむ。しかし、恐ろしい腕力でもって振り払われてしまった。だがそれは想定の範囲内だ。エリヤは即座に後ろへ跳ぶ。そして振り返った男の、生気のない目を見て舌打ちをした。
 男の目がぎょろりと動き、舐めるように少年と猫を見る。刹那、猫が――セトがばねのように凄まじい速さで飛び出す。
「エリヤ! こいつは」
「ああ、正気を失ってる! なんとしても羅針盤を奪うんだ!」
 男の体にからみついたセトが放った言葉に応じたエリヤは、そのまま再び男につかみかかった。男は、動作だけは鬱陶しそうにそれを払おうとする。だが今度のエリヤは退かなかった。力任せに腕をひねり、その身体を地面に叩きつける。その瞬間セトが飛び上がり、羅針盤に飛びかかろうとした。
 だがこのとき、羅針盤が黒く光る。まるで、彼らに抵抗するかのように。エリヤもセトも目をみはった。
「これは――」
 セトが続ける前に、エリヤが左腕で男を押さえつけ、右腕を掲げる。
「神器が暴走したんだよ! セト、どいてろ!!」
 セトが飛び上がり、空中で半回転してから着地する。その間にエリヤは右腕の文様を輝かせた。すると、そこから一条の光が彼の手元まで延び、やがてそれは凝固する。固まった光はこねた粘土のように伸び、突剣の形をとった。
 エリヤは突剣をしっかりと握りしめると、手首をひねり、腕を振り、青紫色の刃を力いっぱい羅針盤に叩きつけた。刃は黒い光を裂いて本体を叩き――破壊した。
 羅針盤は水晶が割れるときのような音を立てて勢いよく砕け散る。黒い光も、たちまちのうちに霧散した。
 金や銀の欠片が散っていくのを見届けたエリヤは、男から離れて吐息を漏らした。光の剣が刃から収縮し、やがて光となってから蝋燭の火のようにふっと消える。
「ああ、壊すのに精いっぱいだったな……」
 空中に散る光を見て、彼は思わずそんな落胆を口にしてしまった。その横に、緑の布をくわえたセトが歩いてくる。
「エリヤ、これ腕に巻いときな」
「うん」
 微笑んだエリヤはセトから布を受け取り、それを右腕に強く巻きつけた。
 羅針盤の欠片はもう、どこにもなかった。

 羅針盤の所有者であった男は、少しして目を覚ました。狼狽する彼に「あれは壊した」と伝えると、泣いてお礼を言われてしまう。エリヤたちの方がすっかり恐縮してしまったほどだ。
 そして彼と別れた二人は、再び荷車をひいて――セトはその上に乗って――街の中を歩いている。
「ところでエリヤ、さっきの神器だけど」
 荷物の上で言う猫をエリヤは振り返って見上げる。
「かなり強力で、精神操作系のものみたいだね。僕をこんなにしたものと同じくらい禍々しかったよ」
「……何か、関連性があるかもね」
「調べてみる価値はある」
 少年は目を伏せ、猫は伸びをする。だが、張りつめた沈黙は長続きしなかった。エリヤは大地を踏みしめ、勢いよく荷車をひいた。すると上のセトがつんのめる。
「うわっ! 何するんだよ、エリヤ!」
「なあに、少し喝を入れてやろうと思ってね」
 飛んできた文句に、エリヤは笑みだけで返す。そしてごろごろという車輪と石がこすれる音を聞きながら、天高く右の拳を突き上げた。
「さ、今日も元気に商売するぞ! 頼んだよ、マスコット!」
「だーかーらー、僕を猫扱いするなって、いつも言ってるだろう!?」
 二人はぎゃあぎゃあと騒ぎながら、商売を許されている街の広場に向けて歩いていった。道行く人々が訝しげに振り返っても、おかまいなしである。
 明るい声を受けて、少年の腕の布が刹那、淡く輝いた。