023.はじまりの日

 薄暗い森の中で、少女は息を殺していた。琥珀にも黄金にも似た瞳を、鋭く動かしながら、はりつめた気配が遠くへ去るのを待ち続ける。風が鳴り、葉がそよぐ。聞こえてきていた獣の声は、今は押し殺した息遣いに変わっていた。森の民を人の争いに巻き込んでしまったことを申し訳なく思いながら、少女はひたすら、その場で身をかがめていた。
 空気がきゅうっとしぼむようにひきしまる。早鐘のように鳴る心臓とは反対に、少女の頭の中は、すうっと冷えた。身じろぎひとつ、してはならない。待て、今は待たねばならない。少女は、心の中で念じ続ける。

 あてどなく大陸を放浪する彼女――ゼフィアー・ウェンデルが今回の件に関わりはじめたのは、西北の山に緑が戻ってきた頃だった。
「頼むよ! 俺、どうしても行かなきゃなんねえところができてさ、じいさんとこに、寄れないんだ!」
 付き合いの長い商人の若者は、久々に会うとそう言って、彼女に小包を差しだしてきたのだ。いわく、これを東南の港湾都市、カルトノーアに届けてくれということらしい。『物』の詳細がまったくわからない、ということで彼女は少ししぶったが、地面に頭をつけてまで頼まれては、断れない。もともと友の頼みをないがしろにしたくなかったゼフィアーは、胸を張って請け合ったのである。
「わかった。そういうことなら、私が引き受けよう」
 彼女も、長く旅をしている身だ。万が一『やっかいなこと』が起きても切り抜けられる自信があったし、はたから見ても、サーベルを振って舞う彼女は、間違いなく敵対する者の脅威となりえる強さを備えていたのである。
 だからこそ、今回もどうにかなるだろうと、考えていた。――不気味な黒ずくめの集団に、立て続けに襲われるようになるまでは。

 ひきしまっていた空気が、やがて少しずつゆるんでくる。ゼフィアーは、目に見えない変化に合わせ、ゆっくりと呼吸した。

 ふっふっ、ふ、ふうー……

 悟られないよう、ゆっくりと。そして、俊敏な黒ずくめたちの気配が消えたところで、彼女は軽く腰を浮かせた。けれど、その直後、己の得物に手がのびる。ふくれる殺気。頭がしびれる。振り返る。サーベルを抜き放つ――前に、頭に強い衝撃がきていた。
 ぐらん、と揺さぶられる。吐き気がこみあげ、痛みが駆けて、体は強く飛ばされた。上がった声すら聞こえない。木の幹にぶつかったが、とっさにとった受け身が、ゼフィアーの頭を守った。ずきずきと痛む腹を押さえて、立ち上がる。
「おっと、これは――」
 少女は口もとに笑みを刻んでささやいた。彼女の前に立ちふさがる、黒ずくめは三人。手をのばせば届きそうなほどに距離を詰められており、すでに逃げ場はなかった。ゼフィアーがサーベルの柄から手を離すと、黒ずくめの一人が彼女の頭を強引につかんで上向かせた。
「うっ」
「――小娘。おまえの持っている包みをこちらへ渡せ」
 すぐそばで聞こえる低い声は、ささやきと呼べるくらい小さいが、明らかな殺気を漂わせている。さらにゼフィアーは、彼か彼女かわからないこの人物のあいた手が、刃物をにぎっていることに気づいていた。
 まさに絶体絶命。しかし、彼女は――
「断る」
 まったく、あきらめていなかった。
 彼女が要求をしりぞけると、黒ずくめたちの間に冷たい戦意が走った。しかし、同時にゼフィアーも動いていた。軋む体に鞭を打ち、むりやり前へ出ようとする。ほんのわずかよろめいた黒ずくめの右腕を強くにぎって、ひねった。自分に触れる指をそうしてひきはがした彼女は、真正面の相手めがけて頭突きをかます。うめき声をきくより早く、黒ずくめの脇をすり抜けた彼女はサーベルを抜き放つと、うずくまる黒い頭を蹴って飛び上がり、サーベルを振った。
「悪いけども、しばらく大人しくしていろ」
 湾曲した刃は近くにあった木の枝を、根元から断ち切る。切り落とされた枝は、勢いよく黒ずくめたちの頭上へ降った。彼らが動揺している間に、ゼフィアーは木を渡り草を踏んで、その場から走り去ったのである。

 追手から逃れて走ったゼフィアーは、やがて、街道に出た。ふだんは白い石が敷き詰められ、珍しいほどにきれいにされているであろう、商人と旅人の道。けれど、今は、風で飛ばされたと思しき草や木の枝が押し寄せ、凄惨な有様になっていた。
「ううむ。この間の嵐は、すごかったものなあ。いまだに、魂の気配が揺らいでいるし」
 ひとけのない街道を歩きながら、ゼフィアーは呟く。ふしぎな色彩をもつ瞳が、わずかに翳る。
 その後ゼフィアーは、遠くに町の影をとらえ、ほっと息を吐いた。そのまましばらく、体をひきずるようにして歩いていたが、町まであと一歩というところで、腹を押さえてうずくまる。あの黒ずくめは気絶させるつもりで蹴ったのだろう、思いのほか、痛みは強かった。
「む――これは、まずいかもしれんな」
 今の話ではない。この程度の痛みなら、根性で切り抜けることができるゼフィアーだった。
 それより問題なのは、今後である。さすがに、一人で謎の襲撃者を振りきるのは難しいかもしれない、と思いはじめていた。頼まれごとをこなすために護衛を雇うという奇妙な状況になってしまうが、しかたがない。
「私が死んでしまってはどうしようもないものな、うん」
 ひとり納得したゼフィアーは、むりやり痛みを黙らせると、山麓の町ドナへと踏みこんだ。

 町に入ったまではよかった。しかし、護衛探しは難航した。ゼフィアーは、すぐ理由に思いあたる。
 町にいる人々は、復興に忙しいのだ。嵐のせいで荒れてしまった町の中、人手はいくらあっても足りないくらい。建物も直さねばならないし、道に出てしまったごみもかきださねばならない。屋根のない人々を保護する方法を考えねばならないし、穴だらけになってしまった町そのものを、賊や野獣から守る必要もあった。
 こんな調子では、とうてい護衛は雇えないだろう。思ったが、ひとまず二日、ねばってみることにした。
 そして結局、二日目の昼前まで、一人も捕まらなかった。

「護衛をお願いしたい」
 このときもゼフィアーは、町の広場で旅の傭兵とおぼしき集団を呼びとめて、そう言っていた。傭兵たちは顔を見合わせたあと、戸惑ったふうにゼフィアーを見返す。
「あー……嬢ちゃん。もう一度言ってみ?」
「うむ!」うなずいて、顔の前で手を合わせたゼフィアーは、続ける。「私の護衛をしてもらえないだろうか! お金はきちんと用意している」
 傭兵たちは、また困った顔をしていた。何やらひそひそとささやきあっている。
――ゼフィアーの依頼がしりぞけられるのは、単に人手不足だけが原因ではなかった。しかし、今まで依頼されたことしかなかった彼女は、そのことに気づけずにいた。ささやきあう傭兵たちの表情から、不穏な空気を感じ取り、思わず前のめりになる。
「た、頼む! 私一人ではどうにもできないのだ!」
 彼女は叫んだ。とにかく、必死だった。しかし、返ってきたのは了承の返事ではなく、大きな男性の大きな手だった。なでられる。それは子ども扱いされている証拠だ。ゼフィアーは、今回も自分の敗北を悟った。
悪いな、嬢ちゃん。俺たちには先約があるんだ」
「そ、そうなの、か……」
 ゼフィアーはうなだれた。先約がある、という言葉の真偽はわからない。けれど、そう言われてしまえば、食い下がることはできないのだった。
「悩み事があるなら俺たちみたいな荒くれ者じゃなく、親切な町の人に言ってみることだ」
 ゼフィアーがしょんぼりしているのを気にしつつも、傭兵たちはその場から去ってゆく。ちらりとうかがえた表情から、彼らが決して意地悪をしているわけではない、とはわかった。それでも彼女は、気分が重く沈んでゆくのをこらえることができなかった。よろよろと、広場の隅まで歩き、ついにそこで膝から崩れ落ちて座りこむ。
「町の人を巻きこむわけには、いかんというのに」
 つつましやかな生活を送っている人々に、得体の知れない黒ずくめを追い払ってくれなどと、どうして頼めようか。このときになってはじめて、ゼフィアーは心細さにうずくまった。
――肩を、とん、と叩かれたのは、そのときだった。
 ゼフィアーは目をみはり、顔を上げる。
 いつの間にか、すぐそばに少年が立っていた。旅装束で、腰から剣をさげている。青みがかった黒髪の下で、静謐な藍玉の色を宿した瞳が、わずかな憂いをたたえて細められている。ゼフィアーが呆然としていると、どこか浮世離れした雰囲気の少年が、ため息をついた。とたん、彼の存在が重みを得た気がした。
「今は町がこんなでな。地元の連中から仕事をたくさん頼まれてるから、傭兵も旅人も、よそ者の仕事を受ける余裕がないんだよ」
 少年の穏やかな声は、しかし、予想どおりの現実をゼフィアーにつきつける。彼女はまた、うつむいた。ぽそり、と彼女が声になるかならないかの呟きをこぼすと、少しの沈黙が漂う。それからまた、少年の声が降った。
「せめて、こんな道端で人を捕まえるんじゃなくて、あそこに行け」
「あそこ?」
 ゼフィアーは顔を上げ、北を示す指を追いかけた。明らかに、町で一番大きな建物が、ところどころに傷をつくりながらもそびえている。首をひねるゼフィアーに、少年は淡々と解説を寄越した。いわく、あそこは仲介所でありあっせん所。つまり、仕事をお願いしたい、あるいは受けたい人々がさかんに出入りしている場所なのだと。
 あっせん所の存在はゼフィアーも知っていたが、この町にあることは知らなかったし気づかなかった。――望みは、あるかもしれない。
 ゼフィアーは、少しだけ軽くなった心を抱え、はずみをつけて立ちあがった。拳を胸に当てて、優しいまなざしの少年に、感謝の意を示す。
「わかった、行ってみる。教えてくれてありがとう」
「おう、気をつけて行けよ」
 少年は明るく返して、そのままゼフィアーの脇を通り抜けようとした。けれど、その直前で足を止めた。どうしたのだろう、と思っていると、再び青い瞳が彼女を見る。
「もし誰も捕まらなかったら、町の東側の小路にある宿屋に来な。受けるか受けないかは別にして、話くらいなら聞くから」
 思いがけない言葉に、ゼフィアーはぽかんとした。声が聞こえたときに、条件反射で頭を下げて、逃げるように北へと走り出す。その途中、彼女ははたと気がついた。
「……名前くらい、きいておけばよかったかな」
 しかし、かすかな思いつきはすぐに胸の奥へしまいこむ。もし、また会うことになったら、そのときに聞けばいい。自分に言い聞かせたゼフィアーは、あっせん所に向かった。

 偶然か、必然かはわからない。けれど、出会いは確かにはじまりだった。二人の道は、この一瞬で、長く深く、交差したのだろう。
 ゼフィアーはのちに、この日のことをたびたび振り返っては、強く実感するのである。