「人生」と呼ばれる時間は、実際のところ悠久に流れていく歴史の中のほんの一幕でしかない。その瞬きするほどに短い一幕をどう生きていくのか、それこそが人の生の価値とやらを決めるのだろう。
そんな世界の中では、千を超える「人生」を見てきた彼は、間違いなく異端なのである。
いつから「世界」があるのかは知らない。少なくとも彼は、そう呼ばれる空間がある程度形成されてから生まれ落ちたに違いない。
彼がある程度言葉や知識を理解できるようになった頃、世界では最初の大きな争いが渦巻いた。その原因は、乱暴に言ってしまえば人間たちの支配欲である。人外たちはどちらかというと、争いを傍観する立場であった。
戦争は、世界が不毛の土地になる前に終わった。その後、大小いくつもの争いが巻き起こり、その度に世界は傷ついた。
束の間の平和のあと、大きな大きな惨禍が世を覆った。
人に仇をなす種族と、人の側に立つ種族との大戦争。太古から続く知的生命体の種族をも巻き込んで長期間続けられた争いは、ひとつの炎によって断ち切られた。
それからというもの、最古の種族は息を潜め、復興に尽力した人間たちが主役の時代がやってくる。そうして彼は、何人かの主と出会った。
主の生命の儚さに、何度も何度も落ち込んだ。それでもまた、新たな主が彼を迎え入れてくれた。それを繰り返して――彼はどうにか、命脈を保っていたのである。
「ねえ……もし僕が君より先に死んだりしたら、どうする?」
そう彼が問えば、傍らの青年は目を瞬いた。訝っているというよりは、きょとんとしているようであり、直後の頓狂な言葉でそれは証明される。
「何言ってんだ、おまえ。どう考えてもそうはならないだろ」
「仮定の話だよ」
木の枝にぶら下がりながら、彼は言葉を重ねる。青年は本を開いたままうなって考え込み、それが済むと本を勢いよく閉じた。そして――厚くて重い魔術書を、彼の方に投げつけたのである。重い風切り音を立てて飛んだ本は、間もなく彼の頭を直撃した。「いてっ」と苦悶の声が上がる。
「何するんだよー! この阿呆!」
抗議の声を上げてみると、青年に指を突きつけられた。
「阿呆はおまえだ! そんな不吉な仮定はいらねーんだよ! 今度言ったら魔術で焼くぞ!」
「えーっ!?」
あんまりにもあんまりな脅しである。青年は冗談でもなく悲鳴を上げた。思わず枝にぶら下がるのをやめ、後ろの木へ飛び移ったほどである。だが青年はそんな行動には興味を示さず腕組みをした。
「まったく。これからギルドをおっ立てようってときに、縁起でもないこと言うな」
「うへ~い」
そんな会話をした主とも、間もなく別れなければいけなくなる。
もっとも、「間もなく」というのは彼の視点から時間を計算したときのことであり、当人は人間の中では長生きした方だろう。
ともかく、そんな彼との出会いと別れを経て、彼はしばらく彼の主の故郷を見守ってみることにした。魔術大国としての全盛から、貴族による蜂起、そして王制の崩壊。
少しずつ崩れていく国を憂いながら、彼は新たな主を求めた。それが、あの青年の望みであったから。
そうしているうちに、国では革命が起きた。そのきっかけがなんだったか、知る者は少なかろう。革命によりいびつながら立て直しを迎えたことが、民草にとって幸福であったかどうかは分からない。だが少しずつ、歴史は前進していた。
その頃には、彼はまた新しい主を得ていた。
「……おまえという奴は」
心底呆れかえったというような声が聞こえて、彼は目を開けた。寝心地の良かった窓枠からひらりと飛び降りる。そして「久し振りー」と主を出迎えた。
一方、部屋の入口で不機嫌に仁王立ちしている主たる少年は、彼の笑顔を見て吐息を漏らした。
「どうしてこう、いつもいつも、俺が仕事に行ってる間に不法侵入して勝手に昼寝してるんだよ」
「君が呼びだしてくれないから、僕の方から来てあげてるんじゃないかー」
そう言って頬を膨らませると、少年は顔を引きつらせる。そうかと思えば手近にあった本を彼の方へ投げつけてきた。風を切って、茶色い装丁の本が飛来する。
「人間の姿でいるつもりなら、人間のモラルってもんを守りやがれ!」
本はくるくる回ったあと、彼の頭に直撃した。ぐえ、という情けない声が漏れる。落ちてきた本を右手で受けとめ、左手で後頭部をさすった彼は、本をお手玉のように放り投げた。
「どうしてこう、君はそういうとこばっかりギルに似てるのかなあ」
遠い日のことが、刹那脳裏に去来する。それを知ってか知らずか、少年はふん、と鼻を鳴らした。
「おまえが苦労ばっかりかけるからだ!」
「そりゃあごくろうさま」
「……焼いてやろうか」
あの頃と違い、本物の殺気を感じさせる脅し文句に、彼は舌をちょっと出してから逃走する。
こんな日もやがては終わりを告げ、彼は歴史の中に埋もれていくのだろう。今までの足跡をふと振り返るたび、そう自覚せざるを得ない。
だが、未来のことは未来で考えればいい。「今」はここにしか存在しないのだから。
それを教えてくれたのは、何にもまして尊い二人の主であった。