040.私、生きたい

 ソフィアがぼんやりと覚えている故郷での最後の記憶は、自分たちを睨む大人たちの血走った目であった。彼らはずいぶんゆとりのある服を着ていて、その装飾や紋章の映像を辿ると、おのずと聖職者に行き着く。
 事実、彼らは教会で働く者たちであった。
 ソフィアの両親もまた聖職者だった。階級としてはそれなりに上だったと記憶している。ソフィアもまた、物心ついた頃から聖典に親しみ、神聖魔術師として将来を嘱望される娘だったのだ。
 だが、ある日突然、両親は教会を追放された。父親はそのとき殺された。
 両親が何をしてしまったのか、もはや知るすべはない。だがそれがとんでもないことだったのだろうと、大人たちの表情からソフィアは想像した。
 長い逃亡生活を送った。その途上で母は死に、十五にも満たないソフィアは独りとなった。多少学がある彼女にとって仕事に就くことは難しいことではなかったのだが、足がつくことを恐れてそれをしなかった。代わりに、毎日盗みを働いたりして生活したのである。
 そんな日々は、それなりに長い間続いた。

「この、クソガキがあ!!」
 空気を震わせるほどの怒声とともに、少女の身体が床に叩きつけられる。ぼろ雑巾のような有様の彼女の身体は、ごろごろと床を転がった。
 のろのろと顔を上げて相手を見ようとすると、また蹴られて衝撃が走る。
「これで何度目だと思っていやがる! いつまでも人が神様みてえに慈悲深くいられるわけじゃねえんだよ!」
 耳に不快な音を残す怒声を聞き、少女は震えた。手に持っていたリンゴやナシと言った果物を床に落とす。それらは低い音を立てて、少しだけ転がった。
「ごめん、なさい……」
「今日という今日は謝って済むと思うなよ」
 精一杯しぼりだした謝罪の声は、そんな恐ろしい脅し文句にかき消される。少女が再び震えたときには、もう大きな手に胸倉を掴まれていた。そのまま無理矢理引き立てられて、相手の鬼のような形相を間近で見ることになる。
 鳶色の瞳に涙が盛り上がった。
 男が左手を拳にしてゆっくりと持ち上げる。そして、浅黒い拳がふっとぶれた。
「あらあら、いったいこれは何事?」
 突然、薄暗い中にとんでもなく明るい声が入りこんでくる。女性のもののようだった。
 男が顔を上げるのにつられて、彼女もまたその方向を見た。
 声の主は戸口に立ってきょとんとしていた。柔らかな金色の長髪の下で、空のように青い双眸がきらきらと光っている。まだ若い彼女が魔術師であると、少女は一瞬で見抜いた。
「マルタか」
 男は苦虫をかみつぶしたような顔で名前をひとつ口にした。それは女性のもののようで、彼女は呼ばれるとへにゃりと笑った。
「おはようさん。で、どうしたの?」
「このガキが、通算十度目の盗みに入りやがってな。そろそろお仕置きをしてやろうと思っていたところだ」
 そう言うと男は少女を持ちあげて、マルタと呼んだ女性に見せつけた。少女はギュッと目をつぶる。すると、軽い拍手の音がした。
「おお~、すごい泥棒さんなのね」
「感心するところじゃねえだろうがよ、そこは!」
「そんでもって、まだ小さな子じゃないの。そんなに神経質にならなくてもいいのに」
「馬鹿言え。きっちり思い知らせてやらねえと、うちの店が破綻する」
 短い会話のあと、沈黙が落ちる。ソフィアが目を開くと、女性は何やら考えるような素振りを見せていた。女性は横目で少女をうかがうと、なぜかいきなり、にんまりと笑ってうなずいた。
「分かった。それじゃあ、その子こっちに頂戴。きちんと言いつけといてあげるから」
「は? 正気かよ」
「だいじょーぶ。犯罪者の更生は十八番よ。ご存じでしょう?」
 そう言う女性はなぜか胸を張っていた。男は忌々しげに少女を睨みつけると、一度舌打ちして、その小さな体を女性の方へ放った。いきなり投げ飛ばされた彼女はしかし、思いのほかしっかりと女性に受けとめられて、ほっと息をつく。
「どうも。そんじゃ、また昼ごろに買いに来るから、それまでに掃除しといてねー」
「へいへい」
 男の面倒くさそうな返事を聞くと、女性は少女を抱いたまま店の扉を閉め、その足でどこかへ向かった。その間少女は少し高いところから街を見たせいで、変な気分になった。
 やがて、人通りの少ない公園の近くまでやってくると、少女は地面に下ろされた。視線を上げると、例の女性が胸を張って立っている。
「さて、お嬢ちゃん。一応訊くけど、なんで盗みなんてしたのかな?」
 彼女は元気よくそう切り出した。それとは対照的な少女は、うつむいてボソリと呟く。
「生きていくため」
 女性は特別な反応をしなかった。驚くでもなく、怒るでもなく。
「そう。……君、孤児?」
「うん」
 うなずいた少女は、もういない父と母を思い出し唇をかむ。あの日の夜は、憎らしいほどに月がきれいだった。
「何度も、死のうと思った。でも、できなかった。生きたかったの」
 ぽつりぽつりと、言葉の破片を並べていく。それは感情を持たないただの言葉として地面に落ちた。
 やはり女性は、特別なことを言わなかった。ただ、そう、と返しただけである。だがしばらくしてこう続けた。
「君、魔術師よね?」
「え?」
 思いもよらぬ問いかけに少女はぽかんとする。それでも一応肯定すると、彼女はふむ、と呟いてからいきなりこう言ったのだ。
「じゃあ君、私のところに来ない?」
「え、でもわたし……」
「大丈夫。こんなわけあり、山ほどいるギルドだから」
「ギルド――」
 女性の口から出てきた単語を反芻する。それは、書物や大人の話からしか知らないものであった。目の前の女性が微笑み、しゃがみこんで目線を合わせてくる。空色が、悪戯っぽく輝いた。
「君の名前は?」
「ソフィア」
 答えてから、少女、ソフィアは女性をじっと見る。そして、恐る恐る口を開いた。
「あなた、何者?」
 女性は悪童のようであり、慈母のようであった。だが、ソフィアに問いかけられると、戦いに赴く魔術師の顔になる。そこに少女は、とてつもない力を感じた。
「私の名はマルタ。ギルド『インドラ』を率いる魔術師よ……ま、なりたてだけど」
 彼女ははきはきと名乗ると、その優しい手をソフィアに向けて差し出した。そして、目を細める。
「どうかしら、ソフィア。私と共に生きてみない?」
 逡巡は、わずかなものである。
――ややあって、少女は魔術師の手をとった。

 のちに勇猛な働きとリーダー補佐の地位のおかげで、国中に名をとどろかせることになるわけだが、このときの彼女はそのようなことは想像もしていなかった。
 ただ、生きていくためだけに、ソフィア・ブライデントは新しい世界へ踏み出したのである。