第一章 石と月光の修行場1

『石と月光の修行場』と名づけられた洞窟には、月光ほどの明かりもない。けれどもイゼットは惑わなかった。明かりがないことくらいは織り込み済みである。廃棄されていた玻璃の器をもとに作ったお手製の行灯ランプに手早く火を入れた。そっと行灯ランプを掲げながら歩いていると、前を行くルーが何だかまぶしいまなざしを向けてくる。ただ、それもつかのまのことだった。彼女はすぐに前を向きなおし、案内役に徹した。
足もとの起伏は激しいが、道としての形は整っている。何十年、もしかすると何百年もの間、ルーの先祖たちがここを「修行場」として使ってきたおかげだろう。天井も進むごとに高くなってきて、イゼットの槍も余裕で振り回せそうなほどだった。
 当のルーはというと、でこぼこや突き出た岩などものともせず、さながら小動物のように、軽やかな足取りで進んでゆく。彼女の軽快な歩みが止まったのは、洞窟に入って半刻ほど経ったときだ。
「あ、ここです。ここに最初の文字が」
 右手側の壁を示して、ルーがそう知らせてくる。イゼットはすばやくそちらに歩み寄り、行灯ランプを壁に近づけた。
 橙色の光が、岩壁に力強く彫りこまれた文字を照らし出す。図形のような、見慣れぬ文字は、しかしイゼットの記憶にはある。ケリス文字だ。彼の読みは当たっていた。
文字のひとつひとつを指でなぞった若者は、少女を振り返ってうなずく。
「全部は読めないけど、大意はつかめると思う。ちょっと待ってて」
「は、はい! ありがとうございます」
 ルーは早くも顔を輝かせて、半歩退いた。彼女が番犬かなにかのように周囲に目を配っていることに気づきつつ、イゼットは文字を追うのに集中する。
 文字じたいは、問題なく読める。しかし、難解な言い回しや比喩表現が多く出てくるので、解読は難航した。われ知らず、人さし指と中指でこめかみを押さえて考えこんでいたイゼットは、それでもなんとか文章を読み切った。周囲を警戒していたルーを呼ぶ。
「読めましたか?」
 ルーは、幼い子どものように駆け寄ってきた。イゼットがうなずくと、嬉しそうに笑って「ありがとうございます!」と言った。元気な声が洞窟の天井に反響する。
「それで、どういったことが書かれていたんですか?」
「まずは、『道をまっすぐに進め』。それから、『左へ十歩、その後右へ五歩進め』というようなことが、まどろっこしい表現で書いてある。……で、その後がよくわからなかったんだけど……」
 首をひねるルーを見て、イゼットは慎重に言葉をつなげた。
「『獅子の牙に注意せよ。赤き壁には火を灯せ。さすれば道は開かれん』」
「『獅子の牙』? 『赤き壁』に『火を灯せ』……?」
「あくまで、書かれてあることをそのまま読むと、こうなる」
 頭上に大量の疑問符を躍らせていそうなルーに、イゼットは慌てて言い足した。ルーは、まだ不可解というような顔だったが、小さくうなずいた。
「ひょっとしたら、この修行場にもなにか仕掛けがあるのかもしれません」
「仕掛け?」
「です。ただ進むだけでなく、からくりや謎解きもたくさんあるのがこの修行です」
「はあ」とイゼットは気の抜けた声を上げた。それ以上、考えているひまはなさそうだ。ルーが、足取り軽く道をまっすぐに進みだしたからである。釈然としないながらも、イゼットは後を追った。
 クルク族の通過儀礼はよくわからない。修行の旅をするというところまでは、かろうじて理解できる。しかし、なぜ、成人になるためにからくりや謎を解いていかなければならないのか。狩猟民族らしからぬふしぎな修行だ――というのは、農耕民の偏見なのだろうか。
 まっすぐ進んでいくと、道が分かれているところに出た。二人はどちらからともなくうなずいて、左へ十歩進んでから右へ五歩進んだ。その先は、行き止まりだった。赤土のような色をした壁がそびえている。感嘆するルーの隣で、イゼットは無言で壁を見上げる。
「『赤き壁』ね」
 知らぬうちに、声がこぼれていた。
 そびえたつ壁に切れ目は見えない。本当にここで行き止まりであるかのようだ。しかし、イゼットは、壁の先からわずかに風が流れていることに気がついた。どこから漏れているのかはわからないが、間違いなく、奥に空間がある。
「『赤き壁には火を灯せ』。これが難題ですね。松明やかがり火の跡はなし……」
 ルーは、真剣な顔であたりを見回す。しかし直後、「うわっ、と」と妙な声を上げて、半歩退いた。
「どうしたの?」
「イゼットさん。気をつけてください。『獅子の牙』って、多分これのことです」
 ルーは言って、先ほどまで自分がいたところを指さした。地面からとがった岩が飛び出ている。その形はさながら、獣の牙だった。よく見ると、飛び出た岩はそこらじゅうにある。
「すごい絵面だな……」
「ただとがっているだけではありません。あれに衝撃を与えると、どうやら足もとが崩れる仕掛けになっているようです。前の修行場に同じものがありました」
「なるほど。なんというか、古典的だね。いや、古典的なのは当然なんだろうけど」
 決して馬鹿にしているわけではなかった。むしろ、古典的な罠ほど恐ろしいのだ。イゼットは表情をひきしめて、自分の槍を確かめた。そのかたわらで、ルーが何やら不敵に笑っている。
「ふふふ。ご先祖様よ、侮らないでください。前の修行場で三度地下に落ちたボクが、同じ手にひっかかるとお思いですか」
「ひっかかったんだね。三回も」
 イゼットは思わず突っこんでしまった。しかし、ルーは気にした様子がない。
 さて、とイゼットは呟いた。漫才バハーネはこのくらいにして、そろそろ謎解きにかからねば。
 ルーが言ったとおり、火を灯せるようなものはなにもない。とすると、火を灯すというのは、なにかの比喩なのだろうか。イゼットは頭をひねったが、何をしたらいいのかよくわからない。ルーも目を細めて壁をにらんでいる。
 少し時が経って、岩の鳴る音が気になりはじめた頃。ルーが「うーん」と声を上げた。
「あれ、なんとなく松明みたいに見えるんですけどね。気のせいかな」
「え?」
 イゼットはルーの視線を追いかけたが、彼女が「松明みたい」と言っているものはなかなか見つからない。それに気づいたルーが、「あれです」と人さし指を向けた。よくよく見ないと気づかない、それは岩壁のシミのようなものだった。確かに、松明の形に見えなくもない。
「……よく気づいたね。さすが、と言うべきか」
「えっへん、です。でも、どうしたらいいんでしょうね」
「うーん、そうだなあ」
 イゼットは考えて、なんの気なしに手もとの行灯ランプを見た。瞬間、ひとつの案が頭にひらめく。正しいかどうかはまったくわからないが、やってみる価値はあるだろう。
 行灯ランプの中でまだ火が揺れているのを確かめて、イゼットはそっと、腕を掲げた。ルーの怪訝そうな表情を横目に、行灯ランプの光を慎重に、松明のようなシミの先へと持っていく。
 狙いどおりに、明かりがシミの上部分に灯ったとき。唐突に、低い音がした。音はどんどん近づいてくる。
「わあ!?」
「ルー。念のため下がって」
「あ、はい」
 二人は三歩ほど下がる。その間にも、地震の前触れのような音はだんだんと大きくなっていった。ただ、その後に揺れたのは、地面ではなく壁だった。
 揺れた壁は、少しずつ下がっていった。半分ほどが地中に埋まると、その奥が見えてくる。二人は揺れに耐えながら、呆然と壁が下がってゆくのを見ていた。
 やがて、完全に壁が没すると、揺れもおさまった。広い空間がまだ奥に続いていて、生ぬるい風が吹いている。
 二人は顔を見合わせた。どちらからともなく腕を高く上げ、互いの手を打ちあわせる。乾いた音が爽やかに、『石と月光の修行場』に響き渡った。
「やったあ! イゼットさん、すごいです!」
「いや、ルーが壁のシミに気づかなかったら、俺はなにも思いつかなかったよ」
「でも、すごいです!」
 ルーは笑みいっぱいの顔を赤くして喜んでいる。そうまで喜ばれると、イゼットとしては照れくさかった。目を泳がせながらも――自分が最後にこんなふうに笑ったのはいつだろう、と考える。
 かすかな感傷を、彼はかぶりを振って思考の彼方へ追いやった。
「とりあえず、先へ進もうか」
「そうですね。また、奥の壁に文字が見えますし」
「奥って、すっごい奥だよ……。あんな遠くの壁の文字、よく見えるなあ」
「鳥を石で落とすのに比べたら、楽勝です」
 ルーのその言葉を聞き、イゼットは彼女の身体能力については追及しないことを決めた。苦笑いを浮かべながら、意気揚々と進む少女の後ろにつく。「修行」はまだ始まったばかりだ。