第一章 石と月光の修行場2

 ルーの言ったとおり、ずっと奥の壁際まで進むと、次のケリス文があった。互いがなにかを言う前に、イゼットが前に進み出る。文章を少し読んで顔をしかめた。――この文章を書いた人間は、詩人かなにかだったのだろうか。
 再び婉曲な言い回しに苦しめられたイゼットは、今度は文章の中身をそのままルーに伝えることにした。まんまるの目を開いている少女を見下ろしつつ、歌うように言葉を紡ぐ。
「『蛇の腹を慎重に渡ること。その先、出る杭を打て』――だ、そうだよ。どういう意味だろう……」
「どういう意味でしょう……」
 二人揃って首をかしげる。そうしていると、互いに鏡を相手にしているようだった。ややして、ルーが目をしばたたく。
「蛇のお腹……蛇ってことは、くねくねしてるんでしょうか」
「くねくね? ああ、それはあるかも」
 イゼットは、軽く指を鳴らした。
 蛇の腹。蛇のようにくねくねしている。要は、道が蛇のように曲がりくねっているということ、かもしれない。その先の『出る杭を打て』という文については、いくら考えてもわからなかった。赤き壁と同じで、実物を見ればわかるのだろう。そう結論付けて、二人は道が伸びている方へ進む。
 予想は当たった。その先の道は、文字どおりひどく蛇行していたのだ。しかも、ここだけ妙に足もとが不安定である。一歩進むたびに、地面はぐらぐらと揺れた。下がどうなっているのかは、まったくわからない。
「『慎重に渡ること』ってこういうことですか……」
「気をつけないと、地中に埋まっちゃいそうだな」
 イゼットは、荷物の中にしまっていた革ひもを胴に巻き、それで槍を背負って進むことにした。イゼットの槍は背丈より少し長いていどのものであるから、なんとか背負うことができるのだった。どこぞの国の軍隊が使うような長槍であれば、こうはいかなかっただろう。ルーはその様子を興味深く観察していた。
 しばらくは二人とも黙りこくって歩いていたが、不安定な足場に慣れてくると、また会話が増えてきた。二人とも運動神経が良い方だったのが救いである。ただ、イゼットは何度か足におもりのついたような感覚をおぼえて、ふらついた。なんとか体勢を立て直したが、冷や汗ものの出来事である。
「イゼットさんの槍って、すごく立派ですよねえ。きちんと手入れされていますし」
 先ほど、イゼットが槍を背負うところを熱心に見ていたルーは、そんなことを彼に言った。続けて「それを使って戦ったり、狩りをしたりするんですか?」と、目を輝かせる。狩猟民族らしい、ともいえる好奇心あふれる表情に、イゼットはほほ笑んだ。――同時に、どう答えたものかと、悩みもする。
 結局、アハルのアイシャに対して言ったのと、だいたい同じ意味の答えを返した。
「この槍は護身用……というか、ただの飾りだよ。一応訓練はしているけど、実際に戦うことはほとんどない」
「そうなんですか」
 うなずきつつも、ルーは形のよい眉をしかめ、目を細める。腑に落ちない、と顔に書かれていた。それはそうだろう。
 ルーはアイシャと違って、自分が狩猟と戦いの技術を持っている。イゼットの体の使い方を見れば、あるていど武術の心得があることは、一発で見抜けるはずだ。
 それでもイゼットは、ルーに本当のことを話すつもりはなかった。打ち明けるにしても、今ではない。自分自身にそう言い聞かせ、彼は一歩ごとに揺れる「蛇の腹」を進むことに集中した。だが、直後にまた足が重くなる。あるていど予想のついていたイゼットは、今度こそなんとか踏ん張ったので、体勢を崩すことは避けられた。安堵の息をつく若者を、ルーはふしぎそうに見ていた。
 それから半刻ほどして、ようやく「蛇の腹」は終わる。しっかりとした地面を踏んだ瞬間、二人は安堵のあまり笑い声をこぼしてしまった。しかし、笑みはすぐに消える。
 二人の眼前には、言葉をなくすほど急な上り坂があったのだ。
「ルーのご先祖様は、鬼か」
「どうでしょう。でもまあ、ボクたちにとっては大した坂じゃないので……」
「そんなことだろうと思ったよ」
 イゼットはため息をつく。
文句ばかり言っていてもしかたがない。気を取り直して上り坂を見上げた。そのとき、坂のてっぺんに「なにか」が飛び出ているのを見つけ、おや、と思った。目を凝らしてもそれ以上詳しくはわからない。
 しかたなく、イゼットはクルク族の少女を呼んだ。
「ルー。ちょっといい?」
「はいっ、なんでしょう」
「あれ、なんだろう。ルーなら見えるかな」
 イゼットが坂の上を示すと、ルーはつま先立ちになってその方を見つめた。ほどなくして、あっさりとうなずく。
「岩の突起のようなものがありますね。あれは多分、自然のものじゃないです」
「誰かがわざと作ったもの、か」
 呟いて、それからイゼットは目を見開いた。ほぼ同時にルーも同じことを考えたようだ。二人は顔を見合せ、互いに答えをぶつける。
「『出る杭を打て』!」
「杭って、あの突起のことですよね!」
「そうだと思う」
 イゼットが肯定すると、ルーはがぜん張り切ったようだった。その場で足踏みを始めたものだから、イゼットは目をみはる。
「え、ルーまさか……」
 彼がみなまで言う前に、ルーは元気よく「はい!」と返事をした。
「ここはボクらの領分です。杭を打てるかどうか、ちょっとやってみます!」
 言葉が終わるより若干早く、ルーは勢いよく駆けだした。そのまま、急すぎる坂を軽快に上ってゆく。彼女はあっという間に、坂の終わりに達してしまった。足取りは軽く、疲れた様子は一切ない。イゼットは唖然として、坂の上から手を振るルーを見上げた。
「とんでもないな」
 思わずうめく若者をよそに、ルーはさっそく「杭」の様子を見はじめたようだった。矯めつ眇めつ観察し、叩いたり押したりしているようなそぶりも見せる。――しかし、杭はびくともしない。
 ややして、ルーが立ちあがった。少しだけ疲れた様子だ。イゼットが再び見上げた直後、大声が坂を滑り落ちてきた。
「だめです。打つ――というか、押し込むことができるようにはなっているんですが、ボクじゃ力が足りないみたいで」
「そうか。どうしよう」
 叫び返したイゼットは、坂を観察した。ところどころに凹凸が見える。ほんの小さなへこみから、上の杭に引けをとらない大きな突起まで様々だ。
「母さんは、きっとこれをなんなく押し込められるんです……。やっぱりボクはまだまだ未熟です……」
 なんだか耳を疑う言葉が聞こえた。しかし気づかなかったふりをして、もう少し坂を観察する。そして、「よし」と呟いたイゼットは、槍を下ろして、行灯ランプを置いた。
「ルー。ちょっと、そこで待ってて」
 イゼットは叫ぶなり、坂に一歩を踏み出す。いきなり後ろによろけそうになるが、そこは根性で踏ん張った。
 ひとつ、ひとつ。突起に足をかけて坂を上っていく。上にいくにつれ突起がなくなってくると、イゼットは槍の石突に紐を巻きつけて結んだ。その槍を力いっぱい上方に投げる。投槍ではないのでそれほど飛ばないが、問題はない。槍の先端が上の地面にささったことを確かめると、紐をつたってさらに坂を上る。
 そうしてなんとか上に着き、イゼットは息を吐いた。興味深そうなルーの視線には気づかず、杭を確かめにかかる。
「確かに、押せそうではあるな」
 表面積が自分の顔ほどもある杭をぺしぺしと叩いてみた。びくともしない。しかし、少し力をこめると、わずかに揺れた。向かい側から杭に跳び付いた少女を見やる。
「二人なら押し込めるかもしれない。やってみよう」
「がってんです」
 軽く数を数えた二人は、同時に両手をついて、力を入れた。しばらく踏ん張っていると、少しずつ杭が下がっていく。イゼットの両足が震えだした頃になって、ようやく杭は勢いよく沈みはじめた。ダメ押しとばかりに、ルーが全身を使って杭を押しこんだ。
 そして、杭が完全に地面に埋まったとき、少しだけ地面が揺れる。下の方で鈍い音がした。
「なんだろう」
 イゼットは、転げ落ちないように気をつけつつ、下をうかがう。なにか、違和感があった。坂以外には壁しかなかったはずの場所。その、坂の右側の壁が、少しへこんでいるように思える。
「穴があいたんじゃないでしょうか」
 すぐ横から声がした。見ると、ルーが身を乗り出している。彼女はもうしばらく下を見てから、小さくうなずいて、坂の下を指さした。
「下りてみましょう」
 つまり、今度はこの急斜面を下るということだ。イゼットはため息をつきたいのをどうにかこらえて、体勢を整えた。