第二章 お互いの秘め事9

 道が、裂けている。
 もののたとえなどではない。浅き緑の生い茂る道に、ばっくりと裂け目が走っているのだ。裂け目は、ひとつではない。奥へ、奥へと続く道、数歩ごとに裂け目はあって、来訪者の歩みを妨げている。
 来訪者、つまりイゼットとルーとカマルは、言葉もなく森の裂け目に見入っていた。この三人にしては長い沈黙。それはややして、空気を震わす音に破られる。長い、長いため息をついたのは、イゼットだった。
「これも『からくり』かな」
「……わかりません」
 ルーが降参とばかりに両手をあげる。さすがに、彼女の表情にも呆れの色がにじんでいた。そして、そのまま歩きだすと、裂け目のふちを指でなぞった。それから、屈んだ姿勢のまま、熱心に裂け目をながめまわす。落ちるかもしれない恐怖などは、微塵も感じられなかった。
 イゼットは内心はらはらしていたが、そこはルーの身体能力を信じることにして、黙って見守った。
「最近できたものみたいです。修行のための仕掛けじゃないですね」
 振り返ったルーが顔をしかめて告げる。イゼットもまた眉をひそめた。
「カマルくん、このあたりで最近、地震がきたとか大雨が降ったとかいうことがあったっけ」
「へぇ?」
 ぼうっとしていたのだろう。ひっくり返った声を上げたカマルは、それからちょっと考えこんで、首を振った。
「ないと思う。雨はちょっと降ったけど、それ以外は特に――」
 カマルは言いながら、大ぶりのナイフで裂いたみたいな裂け目をにらむ。
「なんなんだろうな、これ。こんだけばっくり割れてるとちょっと怖い」
「だよね。それに、どうやってここを渡るかっていう問題もある」
 裂け目の幅は、だいたい歩幅三歩分。イゼットとルーならなんとか渡れないこともないが、その隣にいるカマル少年が問題だ。
 その少年は、籠をぐっとにぎりしめて、イゼットの方へ身を乗り出す。
「おれ、このくらい平気だよ。何がなんでも先に行くんだからな!」
 イゼットは、笑っているとも呆れているともつかない表情で、カマル少年の頭を押さえた。これはいくら言い聞かせても聞かないだろうと思ったが、危険が伴うことには変わりない。
 イゼットは悩んだが、その悩みは間もなく吹き飛ぶことになる。
「大丈夫ですよ。一緒に頑張りましょう」
 ルーがけろりとしてそう言った。彼女は、近くの木の枝に蔓のようなものを巻きつけて、何やら準備を始めている。イゼットは苦笑いしつつも「わかったよ」と答え、カマルの手をとった。
 よし、と呟いたルーが、蔦の先端をにぎる。頭上の枝が軋んだが、ルーは気にすることなく、蔦をにぎったまま数歩後退した。そのまま助走をつけて、裂け目の手前で地を蹴った。少女の体は軽やかに飛んで、裂け目のむこうできれいに着地する。唖然としている二人を振り返ったルーは、この上なく明るい笑顔を見せた。
「ささ。二人とも来てください」
 簡単に言うな。
 イゼットは心の中で悪態をついた。
 それでも毒は心にとどめて、イゼットは近くの木を見上げた。ルーが木の枝に巻きつけた蔓は、すでにちぎれそうになっている。この二人の重量を支えるのは無理だろう。
 イゼットは少し考えて、わくわくした顔で待ちうけているルーの方を見た。
「しょうがないな。――ルー」
「はい!」
「ちゃんと受け取ってね」
 ルーは首をかしげていた。が、ほどなくしてなにかを閃いたように笑みを浮かべる。イゼットは続けて、カマルの体を抱えあげて、持ちあげた。
「うわ、ちょ、何すんの!?」
 少年から当然の抗議が飛んだ。しかしイゼットは、それには答えなかった。代わりに、
「ごめん。危ないから口閉じておいてね」
と言うと、抱えあげた少年を――文字通り、投げた。
 対岸でルーが体と腕を伸ばす。顔じゅうをひきつらせた少年をしっかり受けとめて、自分の隣にそっと下ろした。
 イゼット自身は、その見事な働きを見届けた後、木に登り、枝をつたって裂け目の先に渡った。ちょうど、先刻、ルーがやったのと同じ芸当だ。
 無事むこう側に着地したとき、彼を出迎えたのは、怒りのこもった涙声だった。
「ひどいやイゼット! あんたがそんなことするなんて思ってなかった!」
「ご、ごめん。とっさに思いつかなくて……」
「せめて、やるならやるって言えー!」
「いや、うん。申し訳ない」
 半泣きで怒るカマルに、イゼットは平謝りする。もう、こればかりは謝るしかない。なんとなく腕が痛いが、当然の報いと思うことにした。
 ルーは当初、笑いをこらえて二人のやり取りを見ていた。しかし、突然目を細めて振り向くと、すぐさま二人に向き直った。
「二人とも、お静かに」
 二人――主にカマルは、ぴたりと黙りこむ。ルーは変わらず険しい顔で耳を澄ませる。ややあって、彼女は確信した様子で続く道を指さした。
「先の方から人の声がしました」
「本当? なにも聞こえなかったけど……」
「すごく小さな声でしたからね。たぶん、あれは女の人の声です」
 三人は誰からともなく顔を見合わせた。
「どこの誰かはわかりませんけど……」
「行くんだよね」
 イゼットが言うと、少女と少年が同時にうなずいた。
「です」
「あたぼうよ!」
 イゼットは顔をほころばせると、荷物と槍を抱え直して歩きだす。小さな連れが後を追った。声のもとへ向かうために、差し当たって、また割れた大地を飛び越えなくてはいけない。
「投げてもいいけど、今度はちゃんと合図くれ!」
「承りました」
 イゼットはうなずいた。
 この件に関しては、カマルに対して頭が上がらなさそうだ。

「もうちょっと先です」
 何度目かの曲芸、もとい裂け目越えの後、ルーが眉間のしわを増やして言う。さすがにイゼットも疲れてきて、カマルなどは息も絶え絶えといった様子だが、二人ともうなずいた。
 声のもとには確実に近づいている。イゼットの耳にもかすかにだが、聞きとれるようになった。助けを求めているような、か細い女人の声だった。
 またひとつ、細い裂け目を越えた先で、ルーの眉間のしわがもう三本増えた。その理由はイゼットにもはっきりわかった。悲鳴に近い声が、裂け目の下から聞こえる。
「ボクの声が聞こえますか」
 裂け目の下に向かって、ルーが叫んだ。かすかに声がした。応答があったのだろう、ルーはうなずいてから「そこを動かないでくださいね。今助けます」と続けた。
「本当にルーが行くの?」
 地面に槍を突き立てて、イゼットは問う。
「女の人一人なら、ボクで大丈夫だと思います。それに、ボクが行った方が『彼女』も抵抗がなくていいですよ」
「それはまあ、確かに」
 男は妻以外の女に触れてはいけない――というのが、ヒルカニアや古のペルグの習いだ。その習いを堂々とおかしている二人がここにいるわけだが、裂け目に落ちた彼女も同じ感性の持ち主かはわからない。
 イゼットは荷物から取り出した革ひもを槍の石突近くに巻き、ひもの先の方ををルーへ投げ渡した。ひもを軽く腕に巻いて強くにぎったルーは、槍を支えるイゼットに向かって「きをつけ」をする。
「では、行ってまいります」
「気をつけて」
 ルーはいっさいの抵抗なく裂け目の中へ飛び込む。間もなく何やら会話する声が聞こえたが、地上からではほとんど聞きとれない。イゼットはしばらく槍を支えて黙然と立っていたが、少ししてカマルの方へ目を向けた。彼が、急に目を見開いて息をのんだことに、気がついたからだ。
「カマルくん?」
「……てた」
「え?」
 震える声でなにかをささやくカマルに、イゼットは思わず問いかえす。答えを聞く前に、槍が少し揺れて、ひもがぴんと張った。イゼットは慌てて槍の方へ体重をかけた。
 ほどなくして、「帰りました」という元気な声が響く。槍とひもにかかる力がゆるんだ。
 ルーは、女の人を抱えていた。
 少女というには大人びて、しかし婦人というには若い。娘、という言葉がしっくりきそうなその人は、土ぼこりと傷と痣をやせ細った体のあちこちにつけている。長い黒髪はバサバサで、血色は悪そうだ。けれど、相貌には安堵の色が浮かんでいた。娘は両足が地面につくと、ふらつくようにルーのもとから離れる。
「あの、本当にありがとう」
「いえ、いいんですよ。それより少し休憩してください。絶対に消耗してますから、そのまま動くのは危険ですよ」
 ルーが澄まして忠告すると、娘はほほ笑んで「はい」と言った。イゼットは口を挟まずに見ていたが、途中でふしぎな感覚をおぼえて、目を瞬いた。彼女の横顔をなんとなく知っている気がしたのだ。
 見えない手に引き寄せられるように、イゼットは隣を見る。
 どことなく娘に似た雰囲気を持つ少年が、両目をいっぱいに開いて、固まっていた。
「姉ちゃん」
 開かれたままの口から、感激とも動揺ともつかぬ声がこぼれる。
 娘が振り返ったその瞬間、カマルは雷に打たれたように震えて、前のめりになり、そのまま倒れて地面に手をついた。
「サミーラ姉ちゃん!」
 見開かれた両目からにじんだものが粒となってこぼれ落ち、草をぬらす。その先が続かぬ少年と、ただ立ちつくすその姉を、イゼットとルーは呆然として見ているしかなかった。