第三章 狩人たちの誇り2

 ほどなくして、二人はペルグ王国へと入国した。代わり映えのしない道なので、異国に来たという実感は一切ない。ただいつものように、ルーが気合のこもった声を上げた。
「ここから次の修行場に向かいましょう!」
「そうだね。『風と拒絶の修行場』だったっけ」
 またしても物騒な修行場の名に、嫌な予感を覚える。しかし口には出さなかった。今さら言っても仕方のないことだ。
ルーが大先輩たちから聞いた話をもとに、少しずつペルグの街道を逸れてゆく。道行く人々に妙なものを見るような目をされたが、視線が合わないように気をつけながら進んだ。馬たちが黙々とかたい草をかきわけてくれるので、それを励ますのが騎手の仕事だ。
 それから半刻ほどだろうか。道なき道を進んでいると、突然見ている先が開けはじめた。イゼットは、元気いっぱいの連れを追いかける。最初こそほほ笑ましかったが、ふと違和感を覚え、少しずつ戸惑いが大きくなり、最後には唖然として立ち尽くした。
 街道付近より植物が少なく、風が冷たいその場所には――てっぺんが見えないくらいに高い岩壁がそびえていた。
 イゼットはたっぷり沈黙した後、はりきっているルーを呼びとめる。
「ねえ、ルー。……道、間違えたかな」
「いえ、ここで合ってます。ほら」
 彼女は明るく岩壁を指さす。今までよりも大きめなクルク族の文字が刻まれていた。
「『風と拒絶の修行場』――六か所目です」
 イゼットは、まばゆいばかりの笑みを浮かべる女の子に返す言葉を見つけられなかった。

 調子外れの歌が響く。なめらかに、絶え間なく。
 一小節が終わるごとに、少年は自分の心の平安が遠のいてゆくのを感じていた。褐色の拳を握りしめながらここ一刻ほどは耐えていたが、そろそろ不快感が頂点に達しそうである。
「うるさい」
 ついには乾いた土を蹴り、苦情をしぼりだした。歌が止まる。これで不快な旋律を聞かずにすむわけだが、代わりに憎たらしい言葉が降ってきた。
「退屈なんだもんよ。歌くらい歌ってねえとやってらんねーだろー?」
「こんなときだけ文化人ぶるな。このオンチ。不愉快だから、誰もいないところでやれ」
「かーっ。今日もいい感じにとがってんな。君らはみんなそうなのかね?」
 少年は答えなかった。代わりに、仔馬みたいに鼻を鳴らした。わざと足早に歩いて、腹立たしい同行者を追いこす。笑い声がした。むかむかする。
 土を騒がせながら彼の数歩先を進んでいると、後ろから陽気な声が流れてきた。聞きたくもないが聞こえてくるのは仕方がない。
「見ろよ。すんげー岩壁があるぞ。断崖絶壁ってやつか」
 ちらりと顔を上げた少年は、その風景に興味をそそられた。細い木々のむこうに、茶色い岩壁がそそり立っている。茶色といっても一色ではなく、黄色がかったところや黒っぽいところがあって、まだら模様を描いていた。それにしても、本当に高い。上まで登ったら楽しそうだ。
 くだらないことを考えた一瞬後、少年は目をみはる。
 岩の壁をよじ登る、小さな人影が見えたのだ。

「ルー、大丈夫ー?」
「はいー、今のところ絶好調です」
 返答があったことに、イゼットは安堵した。しかしその声はかなり小さい。じきに聞きとれなくなるだろう。心配と正体不明の不安とで落ちつかず、彼はしばらくその場をうろうろしていたが、何が変わるわけでもない。あきらめて馬たちの隣に座りこんだ。状況がわかっているのか否か、二頭の馬は心細そうにしている。
 イゼットは息を吸って吐きながら、無駄だと知りつつ壁を見上げた。
「本当、高いなあ……」
 かすれた呟きは、あっさり天に消えた。顔を上げると見えるのは、壁の茶色と空の青。頂上がどうなっているのかは、まったくわからない。それでもルーは「たぶん、この上に詩があるんですよ!」と張り切り、壁登りを始めてしまった。
「この上が目的地だとしたら、ルーの親や先祖のみんなが、全員ここ登ってきたってことだよな……。いや、嘘だろ……嘘だと言って……」
 アグニヤ氏族ジャーナの修行が、いつからこの形になったのかは知らない。ただ、ルーが時折「ご先祖」を持ち出すところを見るに、かなり長い伝統があることは間違いないはずだ。
 再び壁を見上げる。これが伝統か。アグニヤ氏族ジャーナの皆様は、どこかがおかしいのではなかろうか。
 めまいがしてきた。いや、錯覚かもしれない。イゼットが軽く眉間を押さえていると、ごく小さな呼び声がした。その場で壁を仰ぎ見る。はるか上方にルーの姿が確認できた。
「イゼット、ありましたー」
「え、早くない?」
「さすがに上じゃ写せないので、覚えてきました。今下ります」
「そ、そっか。気をつけて……」
 答えながらも、イゼットは立ち上がった。だいたい五歩ほど壁から離れ、その場で下りてくる少女の姿を追いかける。それでも姿は少ししか見えないが、わかるのとわからないのとでは大違いなのだ。
 イゼットはしばらく、危なげなく下りるルーを見守っていた。しかし途中、「わっ」というルーの大声を聞くと、考えるより先に駆けだした。小さな体が宙を舞う。影さす場所にすべりこむ。一瞬後、悲鳴と衝撃とが同時に押し寄せた。体が砕けるかと思ったが、そうはならない。
 まばたきするくらいの短い間、意識が飛んだ。そして戻ってきたとき、イゼットはルーを抱え込んであおむけになっていた。
「す、すみませんイゼット! 大丈夫ですか!?」
「大丈夫。頭は守ったし」
 ルーが飛びのくようにイゼットの上から下りると、彼もゆっくり体を起こした。両手をにぎったり開いたり、頭を振ったりして全身を点検する。幸い、どこもおかしくはなっていないようだ。
 改めてうなずくと、落下してきたルーは息を吐いた。
「あ、ありがとうございます。またイゼットに助けられちゃいました」
 自分を追い込む癖があるクルク族の少女は、今日もわかりやすく落ち込んでいる。少し考えてから、イゼットはおどけたふうに笑った。
「ルー。それならさ」
「はい?」
「前の修行場では、俺が無茶してルーに助けられたでしょ。だから今回、これでおあいこってことで、どう?」
 大きな目がぱちぱちと開閉する。少女は首をかしげ、釈然としない表情ながらも「わかりました」と答えた。それで一応気を取り直したのか、その場に座って小袋に手をかける。
「詩の中身は覚えてきたんだっけ」
「です。忘れてないので大丈夫です」
「それはよかった」
 イゼットは心から言った。また一からやり直し、となったら目も当てられない。
 ルーが石板に詩を刻むのをしばらく見守る。そして作業が済むと、二人はすみやかに岩壁から離れることにした。今のところ壁は沈黙しているが、これほど高いと、いつ落石などがあるかもわからないからだ。
 馬たちを連れ、来た道を戻る。道中にほんの小さな水場があるのを見つけていたので、そこで小休憩をとることにした。
 透明な水に、気持ち良さそうに口をつける馬たちをながめながら、二人もそのそばに座りこんでいた。槍を磨くイゼットの横で、ルーは丹念に石板を見直している。一度、きつく顔をしかめたが、すぐに元の表情に戻った。
「聖都までのところで、修行場ってあといくつあるの?」
 イゼットが思い立って尋ねると、ルーは虚空に目を向けた。
「確か、あと三、四か所です。シャラクのすぐ近くに一か所あるのだけは覚えてます。ヒルカニアとイェルセリアを直接つなぐ山道の途中です」
「えっ!?」
 若者は、自分自身ですら予想していなかった大声を上げた。
 ルーのいう山道は、説明のとおりイェルセリアとヒルカニアの国境をまたぐ道だ。だが、崖崩れや落石、強風により木が倒れるなどの事故が多く、数え切れないほど死者が出ている。そのため、聖教の修行者ですら使わない道だ。今回イゼットがこの道を使わず、ペルグ王国を経由しているのも、安全面を考えてのことだった。
 だというのに、目の前の少女は、わざわざ危険を冒しにいくという。
「ねえ。今言うことじゃないかもしれないけど……成人する前に死んじゃいそうじゃない? この修行」
「実際、途中で亡くなった人もいるらしいですよ」
「いるのかよ!」
 イゼットは砥石を投げ捨てそうになった。
 やはり、アグニヤ氏族ジャーナは頭がおかしいのではなかろうか。
 ルーをまじまじ見ていると、彼女はにこにこほほ笑んだまま石板のしまいはじめた。動じた様子は露ほどもない。しかし、
「それくらい強くないとやっていけない、ってことじゃないでしょうか」
 その呟きが、妙にイゼットの胸にひっかかった。
 ただ、袋の口をしめた後のルーは、いつもどおりのルーだった。弾むように立ち上がると、気合を入れるつもりなのか、胸を叩いている。
「そろそろ休憩終わりにしませんか?」
「そうだね」
 休憩になっていない気もするが、いちいち嘆いていてはやっていられない。荷物をまとめて、槍を抱え、イゼットは先んじて馬を迎えにいこうとした。
 刹那。形容しがたい悪寒が全身を駆け抜ける。
 振り向きもせず、本能のままその場に身を伏せた。
 沈黙の後、風がうなる。
 なにかが割れる音がして、大気を鋭く震わせた。
 からからに乾いた粉が降りかかる。手で触ってみると、それはただの粉にあらず、粉砕された樹皮だった。
 うなりながら身を起こしたイゼットは、慌てて連れのいる方を振り返る。
「ルー、大丈夫!?」
「は、はい。ボクは平気です。平気、ですけど……」
 ルーの声は精彩を欠いているように思われた。見やると、棒立ちになったままの少女の姿が目に入る。なぜか、ひどく動揺していた。
 彼女の視線の先をなぞり、イゼットは息をのむ。
 彼と、少女との間に、少年が一人立っていた。イゼットの方からでは顔は見えない。短い黒髪であることと、ふしぎな模様があしらわれた襟なしの胴衣シャツを着ていることはわかる。模様はなにかの動物が図案化されたもののようだ。
「なんだ。同胞に会えると期待してたのに、よりにもよっておまえか」
 少年が、ぼそぼそとした声を放つ。怒っているように聞こえるのは、気のせいだろうか。
「ボクは、君のことを存じ上げませんが……」
 間をおかず、ルーの声がする。こちらは確かな怒りの気配があった。
「君は、見たところガネーシュ氏族ジャーナですよね。どうしてこんなところにいるんです? 君たちの集落は、もっと南の方じゃないですか」
冷たい言葉。イゼットは呆然となった後、その言葉がもつ情報を呑みこんで、瞠目した。