第三章 狩人たちの誇り3

 少年は、相変わらずイゼットに背を向けて立っている。クルク族であるという彼は、年齢不相応の冷たさをまとってルーと対峙していた。ルーはルーで刺々しく応戦している。イゼットの知らない彼女がそこにいた。
「おれがどこにいようとおれの勝手だ」
「それはそうですね。では、追及しないでおきましょう。ですが、いきなりこんなことをした理由くらいは説明してください。関係のない他人を危険にさらしたんです。勝手だとは言わせませんよ」
 怒っている。かなり怒っている。アハルの食堂で荒くれ者を言い負かしたとき以上だ。少年はすぐには答えなかった。代わりに小さく舌打ちをしたようだった。イゼットが驚く間もなく、彼はうなる。
「おまえがどうするか、見ようと思ったからだ」
 少年の背中があるのでルーの表情は見えない。しかし、眉をひそめているであろうことはわかる。
「どういう意味です」
「説明しなきゃだめか」
 ルーは、言葉に詰まったようだった。その間に、少年がはじめて少し身じろぎをする。
「まあ、アグニヤのできそこないの割には動けるんだな、って思った」
「――知ってるんですか? 他の氏族のことなのに」
「ヒルカニアやペルグの同族には知られた話だ。ジャワーフの子どもの『白い娘』。『 とお の奉納』に失敗した落ちこぼれ。それがよくも、こんなところをうろついてられるな」
 またしても答えはない。ただ、イゼットにはわかった。なにかに耐えるように呼吸する彼女の気配が。とはいえ口を挟むどころでもない。それを許さぬ空気が、小道に充満している。なんの意味もなく馬たちの方を見ると、いななくこともなく、おびえていた。
「そのとおりです」
 ようやっと、泣くようにルーが答えた。
「『十の奉納』は確かに失敗しました。両親や兄弟にたくさん迷惑をかけてしまいました。でも、昔のことを引きずっててもしょうがないですから。そのためにここにいるんです。ここにいるのは通過儀礼の一環で、意味もなく放浪してるわけじゃないですよ」
 無理に笑っているのだろう。空気が伝わってきた。
 イゼットは間に入る隙をうかがっていた。だが、その目に突然、見慣れぬ顔が映りこむ。少年が振り向いて、イゼットの方を見たのだ。
「おれは、そういうの、大っきらいなんだ」
イゼットは一瞬反応して、槍をにぎりしめてしまった。
「あの儀式がどういう意味を持つものか、知らないわけじゃないだろ? それなのに、前向きなふりして自分がしでかしたことから目をそらす。にこにこして表面ばっかり良い格好をする――」
 そこまで聞いて初めて、彼はルーに言ったのだと気がつく。
 だが、気がついたとき、少年の姿はそこになかった。
 かすかな気配を拾った若者は、転がるように後退した。身を守るために槍を構えようとしたが、その前に、胸のあたりに重いものが叩きつけられた。息が詰まった。苦痛をおぼえたときには、体は後方に吹っ飛んでいる。
 とっさに受け身を取った。空気とかすれた音が吐き出された。喉はひりひり痛んで、心臓が脈打つたびに胸が痛みを訴える。それでもイゼットは、自分が自分の身を守ったのだとわかっていた。あと少し動くのが遅かったら、あと数歩距離が足りなかったら、頭をかち割られていたはずだ。
 動こうとしたイゼットは、しかしそれができなかった。
「――その上、生ぬるい町の人間に尻尾を振るのか。反吐が出る」
 少年の声がすぐそばで響いた。
 少女の悲鳴が聞こえると同時、喉を強く圧迫されて、イゼットはあえいだ。少年の一見細い腕が首に押し当てられているのだ。
 腕が痛い。息ができない。――このままだと、死ぬ。
 直感したイゼットはもがこうとするが、上手くいかない。少年が上にいるからだ。華奢な外見からは想像もつかない力で、彼はイゼットをおさえつけていた。
「やめろ! その人は関係ないだろ!!」
「悔しいなら来てみればいい。おまえが来るより、おれがこいつの首折る方が早いと思うけど」
 少年は恐ろしいことを淡々と言う。少し力が強くなった。
 体じゅうが悲鳴を上げて、頭の中がかすんでくる。いくら口を開けても空気が入ってこない。
 まともな言葉にならない思考を、頭の中で何度も弾けさせる。
 そのとき、イゼットの中に浮かんだのは、燃える柱と、涙にぬれた夜色の瞳と、忘れもしない声。

『約束、忘れたら許しませんから』
まだ、果たしていない約束。
『力を貸してください』
果たさなくてはいけない。

「……ざけるな」
少年が、連れによく似た目を見開くのを、彼は見た。そこになんの感慨も抱かず、イゼットは腕を持ちあげる。褐色の腕をつかむ。動揺したのだろうか、今までびくともしなかったそれが、わずかにずれた。
「ふざけるな。誰が、おまえなんかに、殺されてやるかよ」
少年が厚い唇を震わせる。なにか言おうとして、結局言えずに、ただうめいた。
「おまえ……」
「だいたい、さっきから黙って聞いていれば、勝手なことばかり……。そりゃ俺だって、ルーのことをそんなにたくさん、知ってるわけじゃないよ。それでも一緒に旅をして、いろんな面を見てきてる。でも、君はそうじゃないだろ」
力が、せめぎ合う。幼くも端正な顔が、初めて歪んだ。
イゼットは頑固な少年をにらみつけ、歯を食いしばる。
「同族だからって、なんでも知ってると思うな。知る努力もしないで、言葉を振りかざすな!」
せめぎ合いが終わる。若者の手が少年の腕を払いのけた。
頭に血が昇ったのだろうか。少年は、太い眉を吊り上げ、顔をまっ赤にして、彼らの言語でなにかを叫んだ。
イゼットに飛びつこうとした彼を、しかし流暢なペルグ語が止めた。
「いー加減にしろ、アンダ」
緊迫の現場にそぐわないのほほんとした制止の言葉に、少年の動きが止まる。その隙にイゼットは体を引きずってその場を離れた。追いすがろうとする少年を、後ろから伸びてきた手がとどめる。肉刺と傷とで岩のようになっている手は、少年の襟首をむんずとつかんで持ち上げた。
「今のおまえは、菓子が欲しくて駄々こねる七歳児以下だ。すっこみやがれ」
「うるさい! 離せデミル!」
「嫌でーす。俺、殺人犯と一緒に行動したくねえもん」
少年はばたばた暴れるが、彼をつかんだ手――もとい男は、まったく動じない。口笛でも吹きはじめそうな表情だったが、ルーとイゼットを順繰りにみると、少しだけ目もとをひきしめた。
「うちの連れが騒がせたな。代わってお詫び申しあげる」
男は真剣に謝罪し――ているのだが、誠実さに欠けているように思えるのは、なぜなのか。
ともかくイゼットは、そしてルーも、突然の闖入者に対してすぐに返事ができなかった。
それでも男は気にした様子がない。子猫の襟首をつまんでいるかのような態度で、少年――アンダが落ちつくのを待っているようだった。
その様子を見ているうちに、イゼットは少しずつ落ちつきを取り戻した。とりあえず、立ちあがろうとするが、景色が歪んでふらついた。
「おいおい。大丈夫か?」
「す、すみませ……」
「声もまともに出てねえじゃんよ。無理すんな。も少し寝てろ」
結局、イゼットは中途半端にしゃがみこんで息を整える。そこへルーが駆けつけた。彼女はイゼットに少し声をかけてから、剣呑な目で男と少年を見上げた。
男は、もともと細めの眼をさらに細くしてから、ぶら下げている少年をにらみつける。
「ったく。やりすぎだぜー、アンダくん」
「おまえにだけは言われたくない」
「俺は仕事以外で人殺さねえもーん。ましてや、こんな善良そうな坊ちゃんを手にかけるなんてとんでもない」
少年はむっつりと黙りこんでしまった。そうしていると、よくしゃべる男とは対照的だ。
ルーも彼らの間の抜けたやり取りで怒りを削がれたのか、不満げな表情ながら初めて男に話しかける。
「あの……あなたは何者で、彼とはどういう関係なんですか?」
「ん? ああ、そうさな。素性明かさねえのは不公平さな」
男はなおも、少年を持ちあげたまま、どこか不敵に口の端を持ちあげた。
「俺はデミル。戦争屋やったり用心棒やったりしてる。で、こっちはアンダってんだ。俺も詳しくは知らねえが、ヒルカニアとペルグの南部国境あたりで拾って以降、旅の連れさ。――氏族うんぬんは、嬢ちゃんの方が詳しいだろ?」
「ええ、まあ。そうかもしれません」ルーはぶすっとした様子で、それでも丁寧に答える。その頃になってようやくアンダは暴れるのをやめたが、デミルは彼から手を離さなかった。