第三章 狩人たちの誇り5

 ペルグの現在の正式名称は、ロムリカ帝国属州トラキヤという。ヒルカニアや現地の人間からすると舌を噛みそうな呼び名だが、帝国の支配者たちはこの名をペルグに押しつけた。かといって、現地の人々がすなおに従うかというとそうでもなく、支配層に反発する人々は、国も町も旧来の名前で呼んでいる。
 属国の支配と反発の気配は、呼び名だけでなく町の姿にも表れていた。伝統的な土壁の民家と、西洋風の飾りたてられた石造家屋が隣り合って建ち、細い通りの隅を埋め尽くしている。不自然さをおぼえる光景でありながら、どこか芸術的でもあった。
 奇妙な町を、別の意味で奇妙な四人が行く。彼らはしばらく歩いたのち、ペルグ王国時代の名残が強い大通りにやってきた。屋台と露店がそこかしこで開かれ、客寄せの声が交差する。マークーの屋台通りを想起させる道には、肌も髪も目の色も違う人々が行き交う。馴染みのある言語から、まったく知らない言語までもが飛び交っていた。
 ペルグ伝統の 飾り物オヤを飾っている店で、昼食になりそうなものを買うことにした。
「これ、美味いぞー」
と、デミルがやけに推すので、現地の言葉で「ギョズレメ」という料理を四人ともが買った。パンより薄い生地に、肉やチーズをたっぷり乗せたものだ。代金はデミルが出すと言って譲らないので、『そういうこと』になりそうである。
「ああ。これ、前に師匠せんせい が教えてくれたやつだ。懐かしい」
あつあつのチーズを相手に苦闘しているルーを見ながら、イゼットは呟く。陽気な傭兵が彼の言葉をすぐさま拾って、目を開いた。
「先生? なんのだ?」
「なんのって……まあ、色々ですね」
 適当に答えを濁したイゼットは、傭兵の手もとを指さして「具が落ちそうですよ」と指摘する。おっと、と呟いた彼は、勢いよくギョズレメにかぶりついた。太い紐でまとめられた黒髪が、馬の尻尾のように揺れる。
 自分の食事を減らしながら、イゼットはデミルの方をなんとなくながめた。戦争屋というだけあって、戦で鍛えられた彼の体躯はたくましい。顎の端から唇の右端にかけて走る傷が特に目立つが、それ以外にも傷跡は見つけられた。衣服は色あせてつぎはぎだらけだが、耳には銀色の小さな飾りが光っている。おしゃれ目的ではなく、魔よけのためなのだろう。
 イゼットは、ふと視線を感じ、目を瞬いた。まず、デミルの陰からこちらをにらんでいるアンダに気づく。それから、ほかならぬデミル自身が、彼をじっと見つめていたのだとわかった。視線がぶつかる。ため息をこらえて、問いかけた。
「俺の顔になにかついてますか」
「いんや」
 デミルはかぶりを振ったのち、ギョズレメの最後のひとかけを頬ばった。のみこんでから、にやりと笑う。
「こんな状況じゃなきゃ、おまえと戦ってみてーなって思っただけさ」
「……は?」
 予想だにしていなかった答えをもらったイゼットは、うわずった声を上げた。
「また始まった」
 呆けている若者と楽しげな傭兵をよそに、クルク族の少年がため息をつく。デミルはそれが聞こえなかったのか、聞こえていて無視しているのか、軽やかにイゼットの槍を指さした。
「それ、相当使いこんでるだろう。武器の扱いに慣れていて、手入れもきちんとしてる。歩くときも用心深くまわりを見てる。人とすれ違ったときの避け方も見てたが、なかなかどうして滑らかだ」
 若者は瞠目する。答えが返せないでいるうちに、デミルが口の端を持ちあげた。
「そーいう奴は大抵、強い」
 ひたすら陽気だった瞳に、雷光が走る。
 その目つきは、たとえるならば――猛獣、だろうか。
 イゼットは息をのんだ。食べるのに必死だったはずのルーまでが、デミルの方に顔を向けた。アンダは、我関せずといったふうに通行人をながめている。
「俺はなぁ、坊ちゃん。強い奴と戦うのが大好きなんだ。三度の飯よりなんとやらって言葉があるが、まさにそれだな」
 彼は恍惚と呟いて、背の大剣に手をかける。変わぬ態度のはずなのだが、目つきが別人のようだ。
 明るい色の瞳が、血に飢えた者の相貌を映す。イゼットは静かに瞼を下ろして、上げた。
「……光栄ですが、あなたと戦うことはできません。いえ、あなたに限ったことではないですが」
 右半身が鈍く痛んだ。なるべく顔に出さないようにしたが、デミルはなにかに気づいたらしい。小さく見える眼が、少しだけ右に動いた。
「わけありか?」
「そうですね」
「じゃ、その『わけ』がなくなったら受けてくれるか」
「確約はできません。気分次第です」
「あっはっは! いいねえ、楽しみにしておこう」
 冷淡な返答をどう取ったのか、デミルはすがすがしいほど高く笑い、若者の肩を叩いた。叩かれた方は顔をしかめる。二重に痛い。しかし事情を知らぬ相手に文句を言うわけにもいかず、結局黙ったままでいた。
 全員がギョズレメを食べ終えた頃、デミルがまたイゼットの方を見る。
「で、坊ちゃんたちは、これからどこに行くんだ?」
「……西の方です」
 国の名前を言うと間違いなく食いつかれるので、ぼかして答えた。追及が始まる前に、彼はため息をつくふりをする。
「それと、その坊ちゃんっていうのはやめていただけませんか? 普通に呼び捨てでいいですから」
「おーそうか。悪かったよ、イゼット」
 思いのほかあっさりと訂正したデミルはしかし、次の言葉でイゼットを凍りつかせた。
「でもさ、実際のところ『坊ちゃん』だろ? 違うのか?」
「……はあ?」
「どういうことですか?」
 戦争屋に疑問をぶつけたのは、クルク族の少年と少女だった。二人の目は流れるようにイゼットの方へ動く。彼が返答に窮していると、さらにデミルが言葉を重ねた。
「食べ方が妙にきれいだし、言葉づかいもどこぞの貴族みたいにお上品。だから上流階級の人間じゃねーかって思っただけさ。違ったらすまんけど」
「……いえ」
 若者は、降参とばかりにかぶりを振る。視界の端でルーが唖然としていることに気づきつつ、デミルから目を離さなかった。
「間違ってはいないけれど正しくもない、というところです。今の俺は、実質家との繋がりを切った状態なので」
「ふうん。勘当でもされたか?」
「実態はそうかもしれません」
 イゼットは、やわらかく整った相貌に自嘲の笑みを刻む。そこへ「表向きは?」と訊かれた。少し考えてから、日に焼けた人さし指を立てる。
「貴族の人間が、祭司になるために俗世との縁を切ることがありますよね。あれと似たようなものです」
 淡々とした説明を三人はそれぞれの表情で聞いていた。その終わり、ルーがおずおずと左手を挙げる。
「えー……と、それじゃあつまり、元々は良家の人ってことですか」
「まあ、そうだね」
「なんで言ってくれなかったんですか!」
 少女の白い頬がふくらむ。イゼットは返事に困って頭をかいた。教えなくてもいいと思ったから、などと言ったらよけいに怒られそうだ。助けを求めるように男二人へ目を向けたが、あてにならないことは明らかだった。デミルは二人のやり取りを楽しんでいるようで、アンダはうるさそうに耳をふさいでいる。
「ルーちゃんはなにも聞いてなかったのか?」
「ヒルカニアのアフワーズ出身ってところまでは聞いてました!」
 憤ったままの勢いで、ルーは男を振り返る。彼は気のない相槌を打ったが、直後に目をみひらいた。イゼットが「しまった」と思ったときには、もう遅い。
「アフワーズのいい家っつったら、領主のとこくらいじゃないか」
「領主っていったら、そりゃ偉いだろうね」
「ただ領主が偉いだけじゃないぞー。確かその家、宮廷書記官とか宰相とか将軍とかを代々輩出してたはず。ペルグ人の俺でも知ってるくらい有名だし」
 よく知っている、などと感心している余裕はない。イゼットは恐る恐る、連れの方を振り返った。彼女は目と口を開き切って固まっている。彼女を一瞥したアンダが、自分の連れにそっけなく問うた。
「つまり?」
「イゼットのお家は、ヒルカニアで一、二を争う超名門」
「それは驚き」
 少年と男は、淡々と言葉を交わす。一方、若者と少女の間には、気まずい空気が流れていた。それを打ち消したのは、少女の叫び声だ。
「な、ん、で! 言ってくれなかったんですかー!」
「ご、ごめんって! 本当にごめん!!」
 振りかざされた拳を、若者は一生懸命受けとめる。それでも攻撃はやまなかった。
 そこまで気にするとは思わなかった――と言ったら、さらに怒られそうである。なので、イゼットは、ひたすら謝ることにした。

 彼らのやり取りをひとしきり楽しんだデミルが、怒ったルーをなだめるまで、しばらくかかった。