第四章 狂信者の歌1

 分厚い雲が空を覆い、月の見えない夜だった。
鳥すらも寄り付かない荒野に、異様な人の列がしずしずとやってくる。彼らは厚手の外套をまとい、顔も別の布で覆っている。北よりいくらかましとは言え、ペルグの夜は冷える。このくらいの厚着でなければたちまち凍えてしまうのだ。彼らの異様さを示しているのは、服装ではなくむしろ、彼ら自身から醸し出される空気である。雰囲気、といってもよいだろう。彼らにまといつく空気は重く、暗く、それでいて熱かった。近寄った者を圧し、ひるませる狂ったような熱がある。
彼らはある場所で立ち止まった。なにもない道。しかし遠くには、連なる山々の影をのぞめる。山の方角に体を向け、曇天を仰ぐ。そして彼らは口々に祈りの歌をうたいはじめた。聖女と精霊を賛美する歌に似たそれはしかし、まったく別のものを讃えている。
「天より来たりし智者たちよ」
一人が歌えば、全員が唱和した。
「我らは今日ここにその志を継ぐことを誓う」
どす黒い熱が、雲の下に渦を巻く。
「汝らに遠く及ばぬ愚者たちが、その叡智を地上に残し、広めるときなり」
阻むもののない夜を、人々の低い声が走り抜けてゆく。
「ああ、叡智を持ちし者よ。我らを見守り給え」
叫ぶような歌声の後、歓喜の声が天地を揺さぶった。

 イゼットとルーは、ひとけのない山道を進んでいた。岩ばかりの地面はかたく、凹凸が激しい。それでも馬が進めぬほどではないが、いっそうこまめに休憩をしなければいけなかった。先の休憩から半刻ほど歩いたところで、二人はまた地に足をつける。ごつごつとした足元をものともせず、軽やかに飛び跳ねたルーが、道の端で背伸びした。
「わあ、遠くがよく見えますね」
黒に限りなく近い茶色の瞳が、無邪気に光る。あと半歩も進めば崖下に転げ落ちるところだが、それを怖がるそぶりもない。イゼットは笑顔でその背を見守りつつ「落ちないようにね」と釘を刺した。物見遊山気分であちこちをながめる少女をよそに、馬のそばに腰を下ろす。水筒から一口だけ水を飲み、馬にも水をやった。鼻を鳴らす彼女の毛並みをなでながら、無味乾燥な風景に目を向ける。
茶色いばかりの景色も、遠くに映る険しい山の影も、イゼットにとっては懐かしいものだ。傭兵の男にどつかれながら山越えをしたときのことを思い出すと、自然に笑みがひきつる。
「もう少し楽しいことを考えようか」
イゼットはそう思いなおし、しかし直後に考えることじたいを放棄した。
何気なく見た風景。その中に、確かな違和感を抱く。目を見開いて青い空をにらみ、彼はそれを探した。ややして、違和感の正体を見つけたのは、彼ではなく連れの少女だった。
「イゼット、イゼット!」
崖っぷちから景色を楽しんでいたはずのルーが、あせった様子で駆け戻ってくる。
「どうしたの、ルー」
「あれ、見てください。空が変なんです」
白い指が示した方を目で追って、イゼットは絶句した。
青い空。その中の、ある一帯だけが黒いのだ。いや、よく見たら赤紫のようでもある。ともかく毒々しい色だった。しかも、不自然に色が変わっている。そこにだけ異なる絵の具を落としたかのようだ。
「なんだあれ……」
「雲です。あそこの雲だけ色が違うんです」
さすがに狩猟を生業としているだけある。ルーは、イゼットではとらえきれないものを見ていた。感心してうなずいた若者は、しかしすぐさま厳しい顔つきになる。色の違う雲。なにか、妙な感じがする。顔をしかめたそのとき、感覚が開かれた。鮮やかな色と、明瞭な音が急に押し寄せて、イゼットはよろめく。だが、すぐに我を取り戻した。
自然の音にまぎれこむさざめきに気づく。精霊たちが警告の声を上げているのだ。危ない、行くな、そういうようなことを、精霊たちはしきりに繰り返していた。勝手に感覚が開いたのはおそらく、精霊たちがイゼット一人に呼びかけてきたからだろう。めったにないことだ。妙な感じは、嫌な予感に変わりつつあった。
「あっちには近づかない方がいいかも」
イゼットは言った。無意識のことだった。真剣な、というより深刻そうな若者の言葉に、ルーはうなずく。
「ボクもそう思います。でも……」
太い眉を寄せた少女は、雲をにらみ、再び指さす。そして、同行者に現実を突きつけた。
「あっち、たぶん、通り道ですよ」
イゼットは唖然とする。少しして、彼女の指摘をのみこむと、黙って頭を抱えた。

 予定していた方角へ進むほど、怪しい色の雲へ近づいていく。ルーの指摘は正しく、先へ進むには「危険」な一帯を突っ切らなければいけないらしい。
馬たちの動きが怪しくなっている。たいてい、人間よりその他の動物の方が、目に見えぬものには敏感だ。無理に彼らを連れていけば、錯乱して逃げ出すかもしれない。とはいえ、まさか置き去りにしていくわけにもいかない。どうしようかとイゼットが悩んでいる横で、ルーが小さく身震いした。
「なんだか、ざわざわしています」
「ざわざわ?」
「胸のあたりがもぞもぞして、落ち着かないっていうか……」
「ああ」
イゼットは、深い同意をこめてうなずいた。その感覚は、なんとなくわかる。危ないものや空気の悪いところへ近づくと、彼はいつもそうなるのだ。もちろん、今も。
暗紫色の雲は、渦を巻いたりゆったり流れたりしている。しかし、大きくは動かない。透明な檻に閉じ込められているかのように、決まった場所でうごめいているだけだ。ぶきみな光景を改めて目にとめ、イゼットは眉をひそめた。自分もなにか感じているのだろうか。喉のあたりに不快なものがこびりついている気がする。
「通りたくないですね……。別の道はないんでしょうか」
「わからない。誰かに訊ければいいんだけど――誰がいるってわけでもないしね」
下手に道をそれて、迷ってもいけない。しかし、あの場所に近づくのはもっとだめな気がする。ぐるぐると悩んでいる間に、視界が開けて、あたりが暗くなってきた。 馬たちがいよいよ怯えはじめた。
「これは、まずいな」
彼らがこれ以上怖がる前に、二人は一度その背を下りた。近くの細い木に馬をつなぎ、一度歩いて進んでみることにした。
一歩進むごとに不快感が広がってゆく。本能の警告を理性で黙らせ、イゼットは足を前に出した。
草の一本すら生えていない荒野が広がる。さえぎるものなど何もない。なのに、あたりは夜と勘違いするほどに暗かった。それもこれも、ぶきみな雲のせいだ。雲のすきまでなにかが光って、雷鳴のような音が響く。
イゼットは深く呼吸する。五十歩も進むころには、息苦しさをおぼえていた。黙っていても、立ち止まっていても、危険な感覚は強まった。懸命に息をして、自分を確かめなければ、どうにかなってしまいそうだ。自分のことで手いっぱいだったイゼットはしかし、腕をつかまれた感触で我に返る。
ルーがイゼットの右腕にしがみついていた。かすかに震える肩を見て、イゼットは表情を曇らせる。
「大丈夫?」
「へ、へいきです」
気丈に振る舞っているが、顔面は蒼白だ。
「平気だけど……怖いです」
「……だね」
イゼットは同調した。それ以外になにも思いつかず、考える余裕もなかった。
二人はそこで立ち止まる。そろそろ進退を決めた方がいいと思ったのだ。示し合わせたわけでもないのに、同じ時に。
だが――相談が始まるより早く、ルーが瞠目した。
「あれって」
「ルー、何かあったの」
「人がいます」
「――え?」
飛び出た言葉をにわかに信じられず、若者は素っ頓狂な声を上げる。だが、少女は強い口調で繰り返した。
「あっち、人がいます!」