第四章 狂信者の歌7

 衣服の奥から流れ出る声は、イゼットの記憶と少しも違わなかった。幼かった自分がここへ立つまでの時間を経たとは、とても思えない。
「今度こそお知り合い?」
 カヤハンが、ことさらに軽い口調で尋ねてくる。緊張のにじむ問いに、イゼットはうなずいた。
「できれば二度と会いたくなかった相手ですが」
「うんうん。またしても安心した」
「ひどい言い草だなあ。私は、いや私たちは、ずうっとおまえを探していたんだよ」
 耳障りな声が割り込む。ルーとカヤハンが、一斉に若者の方を見た。イゼットは軽く息を吐き、槍を構える。右の肩から足先まで波のような痛みがあって、とても動かせる状況ではない。それでも、何もしないよりは良い――と思いたかった。
「残念だけど、あなたたちが求めていたものは、もうない」
 相手に向けたはずの棘はその瞬間、自分の胸をちくりと刺す。イゼットは目を伏せた。
しかし、衣の中から聞こえてきた声は、向けられた棘をあっさりと叩き落す。
「おまえがそう思っているだけさ。目に見えるものだけが、世界のすべてじゃない。 巫覡シャマン の教育を受けていたなら、よく知っているだろう?」
 イゼットのみならず、その場の全員が眉をひそめる。演技じみた口調で語られる言葉の裏に潜む、巨大な真相の片りんを見た。だが、その全貌は予想もできない。
 廃屋の一部が乾いた音を立てて剥がれ落ちる。崩壊を嘆く者はなく、その音を合図として、居候する人間が右手を掲げた。
「気づいていないのなら、好都合」
 精霊の声が高まる。イゼットは、息を詰めた。
「あの日の続きをしようじゃないか。『子犬ちゃん』」
 なにかが起きるより早く槍を掲げた。穂先の根元から刺激が伝わり、短く澄んだ音が立った。槍に弾かれた短剣は、激しく回転しながら地面に落ちる。その持ち主が高ぶった様子で次の短剣を取り出した。向き合う若者は、指が震えていることに気づき、眉をひそめる。内側から訴えてくる痛苦は、警告の早鐘を思わせた。
「イゼット!」
「待て、ルー!」
 彼の不調を見て取ったルーが、すぐさま駆け寄ってくる。その勢いで飛び出そうとする彼女を、イゼットは鋭く制した。思いがけず強い声を浴びせられ、急停止した相方に、イゼットは打って変わって静かな声で続ける。
「あの短剣、毒が塗ってある。生身で立ち向かうのは危険だよ」
「本当だ。なにか臭いますね」
「臭いって」
 ルーは小動物のように鼻をひくつかせる。その姿を一瞥して、イゼットは震える腕を叱咤した。今度は、その様子を見ていたルーが、正面の敵をにらみつける。
「あの歌といい、今といい……なんで危険なことばかりするんです!?」
 問いかけに、相手は沈黙を返した。しかし、愉悦と高揚の気配が静かに伝わる。それが荒野一帯を覆う頃、布に包まれた体が揺れる。いつの間にか歌声は静まっていた。かわりに、二人の背後からどこの言語でもないことばが聞こえる。
「智者たちの力と知識を、この地上に残すため」
「ちしゃ?」
「知らぬ者が知る必要はない。昨夜、言われなかったかな?」
 あからさまな嘲笑に、ルーは眉を寄せる。だが、渋面はすぐ驚愕の表情に取って代わった。
強く吹き付けた風が紫色を運んできた。瞬く間に広がった煙は薄く広がり、天地に色付きの紗を被せる。イゼットが、光を感じて瞬きしたとき、ひときわ大きくなった歌が再開した。
「あ、頭がぐらぐらしますー」
「これは、撤退した方がいいかも」
「ああもう……こっちはあなたたちに出てってほしいだけなんですけどね!」
 激しく頭を振ったルーは、勢いよく敵にかみつく。煙の先の顔は見えない。ただ、すきま風のような笑い声だけが聞こえた。槍をひいたイゼットは、痛みをこらえてルーの腕を引っ張る。そのまま反転して馬たちの方へ走った。粘ついた光を放つ短剣が、顔のそばを通り過ぎる。流れるように騎乗して手綱をとったイゼットは、考える間もなく背後を振り返った。
「カヤハンさんも急いで! 危険です!」
「大丈夫。そのまま走らせて」
 相変わらず落ち着きすぎた応答がある。もどかしさを感じつつも、イゼットは馬の腹を蹴った。もたもたしているひまはない。煙の先、廃屋の中から人がぞろぞろと出てきている。
 三頭の馬が駆け出した。後ろから、殺気と煙とぶきみな歌声が追ってくる。それらは、いつまでも背中にまとわりついて離れない。イゼットは、振り切ろうと馬を駆る。最初は並走していたルーの姿が後ろに流れた。彼は今、騎馬の民たるヒルカニア人の資質と経験を惜しみなく発揮しているのだ。
 先頭を走る人馬に煙が追いつく。イゼットは目を細めた。風のうなりに混じって、自然のさざめきが耳に流れ込んでくる。
 精霊たちは、いつになく激しい語調で叫んでいた。その違和感にイゼットが気づいたとき。謳われた古いことばが、彼の直感を裏付ける。
 風が渦を巻き、人々の頭上で暴れる。高く、広くなってゆく風は、砂塵を巻き上げて黄色い竜巻となった。荒れ狂う砂と風は、紫色の煙を取り込み、かき混ぜ、追いはらう。
「うわわ、なんですか!?」
 風にあおられそうになったラヴィを、ルーがとっさに引き留める。少し経って風の勢いが弱まると、馬は再び駆け出した。
 しばらくぶりにイゼットとルーが並んだところで、すぐ後ろに追いついてきたらしいカヤハンが、飛びかけた帽子をつかんで笑った。
「後ろの人たち、混乱して止まってるみたいだね。今のうちに街道まで戻ってしまおう」
「そうですね」
 イゼットは喉元まで出かかった言葉をこらえ、応える。
 話を聞くのは落ち着いてからだ。そう己に言い聞かせて、雌馬を励ました。

 風がやみ、煙も消えた。人馬の影も見えなくなった大地を見つめ、『彼女』は肩を揺すった。
「ほう。おもしろいことをしてくれるじゃないか」
「見通す者」の性質を利用し、精霊たちを集めたのだろう。彼とクルク族にくっついてきていた男を『彼女』は眼中に入れていなかったが、最後の最後にしてやられたというわけだ。だが、しょせんは悪あがきにすぎない。
「精霊たちが怒っているぞ」
「地の天の怒りだ」
「――落ち着きな。どうせ、すぐに収まる」
 笑みをおさめ、『彼女』は混乱している同胞たちをなだめにかかる。これしきのことであわてるなと怒鳴りたいところだが、我慢した。未熟者が多いゆえだ、しかたがない。心のうちで呟いて、身をひるがえす。
『こっちはあなたたちに出てってほしいだけなんですけどね!』
 クルク族の娘の言葉が、今さら耳の奥にこだました。
『彼女』は低く喉を鳴らす。
「いいだろう。出ていってあげるよ。もう、ここにいる必要もない。私たちが本当に追うべきものは、おまえの隣にあるからね」
名も知らぬ蛮族に投げかけた言葉は、同胞の呼び声に打ち消され、どこにも残らなかった。

「これで少しは懲りてくれるといいけど」
 背後を入念に確かめてから、カヤハンが嘆息した。
 三人と三頭は、すでにヤームルダマージュのほど近くまで戻ってきている。ひとけのない道の上で、彼らはようやく止まることができた。
「さっきの風……やったのはカヤハンさんですよね?」
「実行犯は俺だね。君の力を少し利用させてもらったよ」
「やっぱりそうですか」
「どう、なんですか?」
 力なくうなずくイゼットの隣で、ルーが首をかしげる。リスのようなしぐさをする少女に、精霊の研究者を名乗る男はほほ笑んだ。
「君たちが変な人とやりあってる間に、俺は古語で精霊たちに呼びかけてたのさ」
「え? でも、カヤハンさんは 巫覡シャマン じゃないですよね」
「うん。だからイゼットを利用してね――」
 いったん言葉を切ったカヤハンは、芝居がかった口調で言いだす。
「『君たちのお友達が危険だから助けにこい!』というようなことを、繰り返し言ったんだ。したら、ああなった」
「ああなった、って――」
「イゼットがそれだけ精霊に好かれてるってことさ。いや、すごいね。天性の才能ってこういうことを言うんだね」
 イゼットは、ふにゃりとした笑顔のカヤハンから目をそらす。恥ずかしいやら、気まずいやらで、やりづらい。彼の言葉がどこまで本心かもわからない。真意が見えないという意味では、カヤハンはデミルと似ているのかもしれなかった。
 イゼットはひとつ咳ばらいをすると、馬の腹を軽く叩く。彼女はゆっくりと歩きはじめた。その隣で、二人も続く。
「なんにせよ、今回は助かりました」
「気にしないで。いくらかは自分のためだしね」
「あの歌、もう聞こえなくなるといいですね」
 しみじみとした呟きに、男二人は「本当にね」と揃って同意した。
「さてさて。もう追手の気配もない。戻るのはかえって危険だろうから、町に帰ろうか」
「はい」
「がってんです!」
 カヤハンの言葉にそれぞれ応じて、イゼットたちはヤームルダマージュの方角へ足を向ける。風も大地も、その頃には静まり返っていた。
 ――この夜、歌が聞こえてくることも、煙が立ち込めることもなかった。