第四章 狂信者の歌8

「おやまあ。もう行くんだ。もう少しゆっくりしてってもいいんだよ」
二人が出発の予定を告げたときのカヤハンは、なにか書付を取りながらそう言った。変わらぬ声色からにじむ気遣いに、しかしイゼットは首を振る。
「あまりのんびりしてもいられないので」
「かと言って、焦りすぎてもだめですけどね」
隣で続いたルーの言葉は、若者をたしなめるようでも、己を戒めるようでもあった。
ともあれ家の主に予定を告げた二人はすばやく身支度をして、その日の夕方には町を出られるようにした。その日も怪しい者の気配はなく、奇妙な声のうわさも聞かない。「親切な代書屋」の話を聞きつけ、カヤハンのところへやってきた人々も、それらしい話はしなかった。
「懲りてくれたか。あるいはここを『見放した』かなあ」
地平の先へ沈みゆく陽をながめながら、カヤハンがそんなふうに呟いたのを、イゼットは隣で聞いていた。彼はなんとも答えなかったが、心の中ですでに正答は見いだせていたのだと思う。
祈りの刻の鐘の音が、余韻も残さず消えた頃。二人の旅人は静かに町を出る。それは、昨夜の人々に動きを気取られぬよう心を配った、ひそやかな出立だった。
遠くから帽子を振る研究者に手を振り返してから、二人は手綱をにぎり、しばらく駆ける。そして日の光が薄れたところで、岩山の影に小さな野営地を築いた。

昼間とは打って変わって、夜の空気は鋭い冷たさをまとう。それゆえに夜空は澄み切り、月のゆりかごと天を彩る光の粒がはっきりと見えていた。
夜間の番をする若者は、忍び込んでくる冷気を遮ろうと、上着の袷をかき寄せた。ついでに左腕に槍を抱く。持っていたところでどれほど使えるかもわからないが、お守りくらいにはなるのだ。
闇を見上げる陽の色の瞳は、いつもと違って冷厳な光を湛えている。誰にも見せない彼自身の深淵。その一端が眠りの時に顔を出すのは、いつものことだった。
「イゼット」
背後から、潜んで弾んだ音が呼ぶ。イゼットは、軽く目をみはり、振り返った。ルーが掛布代わりの外套をかぶったまま、彼の方ににじり寄ってきていた。耳や首元を飾る銀細工は、星のような光を振りまく。
「ルー。まだ寝てていいよ」
「目が覚めちゃいました」
「……そう」
笑顔の少女に対し、イゼットは短い答えを返す。詮索をする気もないし、詮索するほど裏表のある子ではない。いや、秘め事の一つや二つはあるのだろうが。
「何を見ていたんですか?」
「いや、なにかを見てたわけじゃないよ。色々考えていたんだ」
「あ、お馬さんの名前ですか」
「……そういえば、そんな話もあった」
時々起こる、ずれたやり取りは、意識してやっているのか違うのか。いまだにイゼットにはそのあたりがわからないが、わからなくてもまあまあ楽しいので良いような気もしている。暗く華やかな空をながめながら、ルーに言われて思い出したことを考えた。
少し悩んで、ぱっと思いついたものを口にする。
「ヘラール、とか」
「名前ですか?」
「うん。……安直か」
要は、見えたものをそのまま当てはめただけだ。しかしルーは頭をかくイゼットの傍らに膝を寄せて、嬉しそうに目を細める。
「いいと思いますよ」
「本当に? 三日月見て 三日月 ヘラール だよ?」
「ラヴィも似たようなものですよ」
あっけらかんと言った後、ルーは眠っている馬たちの方を振り返る。
「いっぱい名前呼んであげないと、ですね」
新しい遊びを思いついた子どものように無邪気な横顔。それをしばしながめてから、若者は一度自然の中に目を戻した。しかし、短く呼吸して意を決すると、彼女の方へ向き直る。
「ねえ、ルー」
「なんですか?」
振り返った彼女は、透き通った瞳をいっぱいに見開いていた。すべてをなかったことにしたい衝動をこらえて、イゼットは唇を動かす。
「俺、ルーに話していないことがまだあるんだ」
いらえはない。それでも少女は聴いている。
「話すことが怖かった。だから話さなくてもいいやって思ってた。聖都までの付き合いだから、その必要もないだろう……とも」
体の奥が、心の表層が震える。
見ないで。触れないで。
悲痛な自分自身の叫びを無視して、彼はかぶりを振った。
「でも、そうじゃない。それじゃダメなんだって、昨日の一件で知らされた。現実を突き付けられた」
ルーが無言でうなずいた。無言なのが、救いのように感じられた。
「だから、ルー。聖都に着く前に、君にきちんと話したい。話さなくちゃいけないことがある。だけど、今はまだ心の準備ができないんだ。だから……あと少しだけ、時間をもらって、それから話したい」
「わかりました」
やや間をあけて、少女は応じた。
「ボク、待ってます。イゼットの準備ができるまで待ってます。なんなら、聖都に着いてからでも大丈夫です。――隠してきたことを打ち明けるのがつらいっていう気持ちは、ボクも少しわかりますから」
白い貌に、変わらぬ明るさと優しさが広がる。
「話」をしてもなお、それは変わらないものなのだろうか。イゼットは声に出さず問うた。答えは出ない。自分の中ではわかっているから、出したくないのだろう。
短い間、目を閉じて。開いたとき、彼はしばらくぶりにほほ笑んで、連れの黒髪をなでた。
「ありがとう」
「礼には及ばないですよ」
ルーは少しくすぐったそうにしてから、その場に正座した。
「じゃあ、イゼット。見張り交代してください。なんかボク、頭すっきりしちゃいました」
「わかった。明日、眠くならないように気をつけてね。修行場近いんだし」
「がってんです」
いつもどおりの、それでいて懐かしいやり取りの後、二人は位置を変える。そして、静かな夜を越した。

ファルシードは、三回目の書類の確認をしていた。まだ束ねていない紙の数々に、慎重に目を通す。数刻前から彼はそれを繰り返していた。誰かに見られていたら、確実に変な人だと思われているだろう。本棚が壁の四隅を埋め尽くすこの部屋に彼以外の人がいないのは、幸いだった。
それでもファルシードは、自分がしていることを間違いとは思っていない。何しろこの書類は聖教の最高指導者に提出するものだ。ひとつの誤りもあってはならない。彼女は誤字のひとつふたつに目くじらを立てる御方ではないが、それとこれとは別問題である。
入念すぎる確認を終えて、ファルシードは書類をばらけさせないよう束ねた。静かに椅子を引いて立ち上がり、体をのけて椅子を戻す。机上の灯を消すと、長い衣の裾を翻して部屋を出る。
聖教本部は人通りが多いものの、静かだ。そのうえ、変り者と評判のファルシードに話しかける者などほとんどない。用がなくても構ってくる愉快な友人は、今、都の外に出ているはずだった。
無言と無表情を貫き通し、ファルシードは廊下を歩む。角を曲がり、また直進して階段を上る。その先、大きな扉の前で立ち止まった。扉の先は露台。外だ。事務的な報告をしに来る場所ではないが、彼は来た。この時間、彼女が露台に出ていることを知っているからだ。彼の経験を裏付けるように、こわもての神聖騎士団員が扉の脇を固めている。本来そこにいるはずの、唯一の騎士はいない。
心のささくれを無視して、ファルシードは半歩踏み出した。
「文書管理室のファルシードです。定期報告のため参上しました」
「猊下から話は聞いている。通れ」
騎士の片方が顎をしゃくる。
ファルシードは眉をひそめた。それを気取られぬよう、恭しさを装って礼をした。
彼女の騎士なら、こんな横柄な態度はとらない。いや、そもそも彼女みずから報告を受け取りはしないのだろう。
「失礼いたします」
胸に渦巻くものを感じながらも、ファルシードは露台へ出る。足元まで覆うほどの長い衣をまとい、頭を豪奢な布で隠す女性の後ろ姿が見えた。いや、まだ少女というべき年頃のはずである。
「ファルシードですか」
その少女――聖女アイセルは、ほんの少し顔をこちらへ向けて、問う。
「はい。定期報告に参りました」
「ありがとうございます」
声が、安堵の響きを帯びる。無理のないことだ。今、この都に彼女の味方は少ない。従士がおらぬ以上、彼女は自分で自分の身を守らなければならないのだ。ファルシードはアイセルの味方でいるつもりだが、本を読むしか能のない自分では大して役に立てないとも、自認している。
ファルシードはひざまずいたまま、いつもの報告をする。文書管理室の蔵書の状況、研究の報告、その他もろもろ。淡々とした青年の報告を、アイセルは振り返らず受け取った。本当は顔を見たくてしかたがないのだろうと、わかる。しかし、騎士が扉の先にいる今、それはできないことなのだった。
「――報告は以上でございます」
「ありがとう、確かに受け取りました。書類の方は、いつもどおり、外の方々に預けておいてください」
「かしこまりました」
それでは、失礼いたします――と言って、ファルシードが立ち上がったとき。少女の一声が、彼の足を止めさせた。
「従士はやはり見つかりません。ハヤルが定期的に報告をくれますが、進展はないようで」
「左様でございますか。……なぜ、それを私に?」
「あなたも仲が良かったのでしょう。ハヤルから聞きましたよ」
ファルシードは、何と答えてよいかわからず、黙した。そのうち、アイセルがかすかに笑った後、手をあげる。
「呼び止めてごめんなさい。下がってよいですよ」
「は。では、失礼いたします」
慇懃な態度を崩さず、ファルシードは露台を去る。扉が閉まる一瞬前、思い立って振り向いた。
隙間から見えた空が、こんにちの夜明けを告げる。東方からのぼる光は、友の微笑と同じ色をしていた。

(第二幕へ続く)