第一章 まどろみの終わり2

 薄い雲のかかった青空の下に、群青の海が穏やかに広がっていた。大小の船の影が行き交う海原からやや北の方向に視線をずらせば、人の手で作り出されたかのような傾斜をもつ岩山をのぞめる。岩の刃が海を裂かんとするようにも映る景色は、ペルグ王国が独立国家だったころから人気を集めているという。
 ペルグ王国と、イェルセリア新王国の国境近くに開ける町、アルトヴィン。古くは旅人と修行者が交わる地のひとつとして栄えたが、宗教闘争のさなかには人の流れが絶えた。今またその流れはよみがえりつつあるが、昔のような賑わいとはいかない。それでも、時たま修行者や 巫覡 シャマン の白衣を見かけるのどかな海辺の町として、独特な雰囲気をまといはじめていた。
 自分や他人の感情が体の痛みとして表れるイゼットにとって、アルトヴィンの静けさは心地よい。ここひと月、活気づく都市と険しい修行場ばかりに身をさらしてきた彼は、岩山の斜面を見上げてほっと息を吐いた。ルーも、心地よさそうに両腕と体を伸ばしている。
「やっと修行も半分を過ぎました」
「そうか。今日行ったところで九か所目だったもんね。お疲れ様」
「お疲れ様です。イゼットのおかげですよ」
 大陸最強の狩猟民族と呼ばれるクルク族の少女は、通過儀礼の真っただ中である。各地に点在する修行場をめぐり、その奥の詩文を記録する。風変わりで難儀な儀式を、しかし彼女は着実に乗り越えていた。
「次はイェルセリアとヒルカニアを結ぶ山道ですね。聖都を通り過ぎてからだから、ボク一人でまた頑張らなきゃ、ですね」
「あー、うん。一応そういう約束だったね」
 アハルで約束したのが遠い日のことのようである。彼らの体も、思えばずいぶん遠くまで来た。
「次はさすがに危険だから見届けたい気がする」
「でも、イゼットに迷惑をかけるわけにはいきませんから」
「……というより、俺の方が足手まといになるかもな……」
 のんきな会話をしながら歩く二人を、鈍い日光が照らしだす。今日の空気は、珍しく水気が多いようだ。雨が降るのかもしれない。早めに宿を見つけるべく、イゼットは周囲を見渡した。
 アルトヴィンは古の名残が強い。イェルセリアに近いからか、西洋人の姿はほとんどなく、小さな礼拝堂と民家の隙間には、かつての神殿がきれいなままで佇んでいた。風神の神殿を横切り、その象徴であった曲線をかみ合わせたような文様が目に入ったとき、イゼットは目を伏せた。
 過去を思い、未来を思う。何度も繰り返してきたこと。だが、ここまで来て初めて、その繰り返しの重みを知った。戻れない場所へ行こうとしている。二人旅の終焉の先には、足元も見えない迷路が口を開けて待っているのだ。
「おや? なんでしょう」
 ルーが立ち止まったので、イゼットも立ち止まった。そして彼も、彼女が見つけたものに気づく。
 突き当りに小さな礼拝堂が立っていた。そして、その入り口の前で、白髪交じりの黒髪の男性が静かに祈っている。通常、礼拝は中で行うものだが、男性はひとり、外で大地に身を捧げている。事情を知らない者が見れば、痛ましささえ覚える光景だ。実際、ロクサーナ聖教の礼拝になじみがないルーはすっぱいものを食べたような顔をしている。
「あれは礼拝。自分をいじめてるわけじゃないから大丈夫だよ」
 後半は声をひそめた。若者の言葉を受けて、ようやくルーの顔と肩から力が抜ける。
「へえー……。そういえば、礼拝を見たのは初めてです」
 二人が話している間にも、男性は簡易の礼拝を終えていた。振り向いて、二人の姿に気づくと、にこやかに手を挙げる。
「旅の人かい? ようこそ、アルトヴィンへ」
「あ、はい、こんにちは。盗み見してすみません」
「構わないよ。地元の人間はもっと容赦がないからね」
 男性はにこやかに歩み寄ってきた。ルーの耳飾りを見て、一瞬目をみはったが、すぐにあたたかな微笑を浮かべる。
「外でばかり礼拝をする変り者だといわれている。まあ、事実さ」
「中に入らないんですか?」
 イゼットが問うと、男性は少し悩んだふうだった。ひげの生えた顎を、老樹の枝のような指が撫でる。
「自分でもふしぎなんだが、外で祈る方が好きなんだ。外の方が自然に近いから、精霊に近づける気がするのかもね」
「ああ、なるほど」
 建物の中にもあるていど精霊はいる。礼拝堂のような開かれた場所ならば、好き勝手に入ってくることもある。だが、外の方がより近づけるという感覚も、決して間違いではない。精霊たちは人工物より自然物を好むのだ。
 とはいえ、そんなことをいきなり言い出すわけにもいかない。イゼットはなんとなくルーの方を見やった。彼女は楽しげに身を乗り出してうなずいている。――共感を得られたことが嬉しかったのだろうか。男性は、顔をほころばせてから、見事な三角形を作っている岩山の方を見た。
「それに――あちらには聖女様がおわす都がある。聖女様に精霊のご加護があるようにとも、祈っているのさ」
 息をのむイゼットの横で、ルーが首をかしげた。
「おじさまは、聖女派ですか?」
「おや、宗教闘争のことをご存じか」
 容赦のない質問にも、男性は動じない。ただ、柔和な笑みは少し陰った。
「私はね、ギュルズという町によく行くんだ。イェルセリアの小さな町だがね。もう十年近く前になるが、そこで、今の聖女と、その従士を見たことがある」
「え、従士って……いないはずじゃ……」
「まだお二人が『候補』と呼ばれていた頃、襲撃事件より前の話だよ。お二人とも、当時はまだほんの子どもだった。しかし今やアイセル様は立派に聖女様だ。従士の子も、生きていれば君くらいの歳だろう」
 男性の黒い目が、イゼットをまぶしそうに見上げる。返す言葉を持たない彼は、首をかしげるふりをした。
町が無彩色へ近づく。空模様の変化に気づいた男性は、感傷を隠して笑った。
「オヤジの長話に付き合わせて悪かったね。お詫びに、宿を提供しよう。――というのも、私はこの北の通りで宿屋をやっているんだ」

 こじゃれた 行灯 ランプ の看板を持つ宿屋は、客がほとんどいなかった。というのも今はたまたま閑散期なのだという。
 宿屋の戸口をくぐったとき、ちょうど雨が降り始めた。小雨のまま強まる気配はないものの、太陽のかくれんぼは長引きそうである。濡れそぼった地上の町はあっという間に冷えて、イゼットたちが手続きを済ませる頃には火を入れないと寒いくらいになっていた。
「建物に入れてよかったよ」
「ですねえ」
 このあたりでは珍しい二人部屋で、雨音を聞きながら、二人はしみじみとうなずきあう。マグナエを外してたたんでいたルーが、顔をしかめた。
「この寒さ、慣れないです。そういえば、雨を見たのも久々な気がしますし……」
「アグニヤの集落って、どのあたりにあるの?」
「ヒルカニアの中部州です」
「ああ……そっちは雨がほとんど降らないもんね。仕方ない」
 たわいもない話に、さあさあと響く水音がかぶさった。ふしぎな心地の静寂に、二人はしばし身をゆだねる。槍の手入れをしていたイゼットは、途中、なにげなく手を止めた。石板を見つめて考え込むクルク族の少女に目をやり――いつもより顔が白いことに気が付いた。青白い、という方が的確かもしれない。
 彼の知る、ルシャーティという名の少女は、何事にも全力だった。全力すぎるがゆえに、疲れが出てしまったのかもしれない。
「雨だし、今日は早めに休もうか」
 彼がそう言うと、ルーは首をかしげつつ「はい」と応じた。いつもどおりのやり取りのように思われた。

 翌日、目覚めてほどなく、イゼットは異変に気づく。
 朝の挨拶をする相方の声に元気がなかった。不審に思って「大丈夫?」と訊いたが、彼女は「大丈夫です」と答えた。なのでとりあえずそのままにしたが、部屋を出るときに彼女が頼りなくふらついているのを見れば、もう放ってはおけない。危うく転びかけたルーを右から支えて、イゼットは顔をしかめる。クルク族の少女は昨日よりさらに顔色が悪い。そのうえ、暑さとは違う汗をかいていた。
「ルー、どこか具合が悪いんじゃ……」
「わかりません……でも、足の感覚が、にぶくて……ふらふら、します」
「そういうのを具合が悪いっていうんだよ。寝てた方がいい」
 とりあえず少女を抱きかかえるように支えて、部屋に戻した。ルーは少し嫌そうにしていたが、この場合、歩かせる方がよくない。彼は久しぶりに、心を鬼にした。
その足で昨日の男性に会いにゆく。事情を知った彼が医者を呼んでくれることになり、さらには病気に効くという飲み物なども用意してくれた。
「いろいろと、ありがとうございます」
「気にしなくていいよ。ほかに必要なものがあったら言ってくれ」
 男性の温かい言葉を背中に受けて、イゼットは部屋へと戻る。頭の中では、旅のために勉強した医療の知識とこれまでの経験とが、渦巻いて騒いでいる。
 最低限の対処は彼だけでもできる。後はルーをきちんと休ませておけばいい。
 この時は、そう思っていた。