第一章 まどろみの終わり1

みすぼらしくも頑丈な靴が、真昼に伸びる影を踏む。蜘蛛の巣と埃の巣窟となったかつての民家。あちらこちらが削れた床板は、人の重みを受けるたびにうめき声をあげて、しなった。容赦を知らない来訪者たちは、いつ割れるとも知れぬ足元にも恐れをなさず、淡々と進んでゆく。そのうちの一人、傭兵デミルは家の半ばまで進み、愛用の剣を担ぎなおす。
「さーてまあ。これは聞いてた以上にひどい有様だな」
彼が口笛をひとつ吹いたとき、小さな足音が彼の背後で止まった。
「どこかに蜘蛛が数匹とネズミが二匹いる」
「アンダ。そういうのは気づいていても言わないことだ」
「言った方がおまえは嫌かと思ってな」
「嫌がりそうなことをわざとやるってか。相変わらずいい感じにひねくれてんなあ」
呆れたようなことを言うデミルの表情に険しさはない。むしろ、愉快な見世物でも見ているかのようである。家の中を物色するかのように歩き回る男は、壊れた調度品や壁を何度か蹴った。時折激しい音がしたものの、楽しいことやふしぎなことが起きるわけではない。
家の中を壁沿いに一周し、元の場所へ戻ってくる。そのとき、アンダが奥の一角を指さした。
「さっき気づいたけど、あのへんにもう一匹ネズミがいる」
「おまえ、象の服着てるけど中身は猫だな? そうなんだな?」
「今度のネズミは、けっこう大きい」
「へー嫌だねえ。見たくもない」
いやだいやだと繰り返しながら、デミルは少年が指さした方へ歩を進める。大股でがれきを乗り越え、壁の前に立った彼は、無言で目をすがめた。一瞬ののち、のろのろとついてきたクルク族を振り返る。口を閉ざしたままで壁を指さした。
無言の指図にアンダは眉をひそめたが、すぐに小さなペルグ語で「下がれ」という。デミルが言うとおりにしたところで、彼は助走をつけた。左足を軸にその身を振り回す。突風が生まれ、小さな足が壁に大きな穴を穿つ。轟音とともに崩れた壁のむこうには、青ざめてしりもちをついている男が一人。
「大当たり」
デミルが軽く口笛を吹く。アンダは変わらぬ仏頂面で半歩下がった。入れ替わりで穴の先へ踏み込んだ傭兵の男は、けばけばしい装飾の入った衣を着た男に愉快な視線を注ぐ。
「なっ……お、おおまえたち、何者だ!」
「それ俺らのせりふ。こーんな辺鄙な場所で何やってんだい? おっさんよ」
「おまえたちには関係のないことだ!」
「関係ない? ほう、そうかそうか。この辺一帯の空気が悪くて、俺たちが迷惑していても、関係ないっつーわけか」
男は絶句した。アンダの不愛想な呟きが、動かぬ彼に追い打ちをかける。
「ここは特に空気が悪い。たぶん発生源」
男は体を引きずって後退し、一番奥の壁に背中をぶつけた。一方傭兵と少年はおっさんなど眼中にないとばかりにのんきなやり取りを繰り広げている。
「さすが。俺、そこまで細かい違いわかんね」
「鈍感」
「違うわい。クルク族が敏感すぎるんだ」
アンダが鼻を鳴らす。そのとき、男の目に薄暗い炎がともった。体を震わせながらも手をついて、膝を立たせる。そして、口を開いた――瞬間、鼻先に尖ったものが突き付けられた。傭兵の大剣が、暗がりの中でぶきみに光る。デミルはアンダの方を見たまま、ふざけた表情のまま、剣を持った右手を男に向けていた。
「妙なまねをするなよ、おっさん。俺たちは、あんたが何をしたのか調べなきゃいけないんだ」
男はもはや声も出ない。薄い唇と、たるんだ頬を小刻みに震わすだけだ。
デミルは口の端を持ち上げたまま、瞳の笑みを消す。悪い狐の皮の下に隠れていた獅子が顔を出し、牙をむく。
「さて。自白か斬首か四肢切断か内臓破裂か……好きなのを選んでくれや」
愉悦に瞳を光らす獣の後ろで、もう一匹の獣が背を丸める。それを目にした瞬間、男の安泰な生活は終わった。いや、彼らに隠れ場所を暴かれた時点で、すでにそんなものは消え失せていたのである。

ところ変わってペルグの北部。やはり人の気のない野の一角に、遺跡と思しき古い建物があった。石と土で作られた建物は、ところどころ風化しているものの、箱のような形をしっかり保っている。
建物の中には現代の人間二人。その中の一人――イゼットは、いかにも歴史がありそうな祭壇のそばで、壁に刻まれた文字を追っている。その分野の専門家でなければ目にすることさえない文字。壁に細かく書かれたそれを読み解く若者は、真剣を通り越して苦痛の表情を浮かべていた。その隣では、クルク族の少女が頭を抱えている。
冗談でなく頭痛がしてきそうな時間は、かれこれ三刻ほど続いていた。その終わり、顔じゅうのしわというしわを眉間に集めていたイゼットが、力を抜く。
「ルー。右から二番目の出っ張りを押してみて」
「がってんです」
ルーが向き合うのは、均等な格子模様が彫られている壁。格子の一部は、イゼットの片手ぶんほど出っ張っている。子どもの玩具のようなそれに、彼らは長いこと苦しめられていたのだった。 白い手が、指示どおりの場所をぐっと押す。ゴリゴリと不安をあおる音をさせながら、出っ張っていた壁が引っ込んだ。二拍ほどの間をおいて、建物全体が低い音を立てて揺れだした。最初こそ驚いた二人は、次には安堵の息を吐く。
「今度こそ当たりだったみたいですね。よかったです」
「うん……これでダメだったら、もう打つ手がないところだった。俺が同行してる意義もなくなるところだった」
「それは言いすぎじゃないでしょうか」
力の抜けた会話をしている間に、壁の出っ張りがすべて引っ込み、やがて格子模様が上下左右にずれた。きれいな正方形の入口が二人の前に現れる。ルーは身を乗り出して、その先に目的のものがあることを確かめると、「ありましたー」と叫んだ。
目的のもの――記録して帰らなければならない、クルク語の詩文だ。
「じゃあボク、写してきますね」
「うん。頑張って」
駆け出した少女に、イゼットは手を振った。入口の向こうで足音が止まったとき、彼はその手で眉間をほぐす。長い時間開きつづけた両目は、さすがに鈍い疲労を訴えていた。
遺跡と思しき建物に入り、奇妙な壁を目にしたとき、何をすればよいのかまったくわからなかった。やみくもに押してみたり上ろうとしてみたりする少女の横で、イゼットはすぐに前期ペルグ語の文章を見つけた。さっそく解読にかかったのだが、これがなかなかに手ごわかった。知らない言い回しが多すぎるうえ、時折見たこともない記号のようなものが混じっていたのだ。知らない部分を飛ばしつつ正解にたどり着くまで三刻もかかったことはもう、笑うしかない。
ともあれ、目的にはたどり着いた。これで十五か所中九か所の修行場を突破したことになる。心底ほっとしていたイゼットだが、無言で戻ってきたルーを見るなり、顔をこわばらせた。
元気いっぱいなはずの少女が、目を伏せて何やら考えこんでいる。
「ルー? どうしたの?」
「あ――いえ、大したことじゃないと思うんですけど」
左手で軽く髪を触りながら、彼女は詩文が刻まれていた部屋を振り返った。
「今まで見てきた詩について、ちょっと気になることがあったんです」
「気になること?」
「はい。説明が難しいんですけど。……すべてをつなげたら、一つのお話になるみたい、とでもいいますか」
思いがけない切り出しに、若者は陽の色の目を見開いた。表情の変化を理解できていないがためのものと思ったらしい。ルーはうめきながら、両手で頭を抱えた。
「なんというか、ある一人の人、あるいはひとつの民族の行動を追っているように見えるんです。実際の詩は族長のお許しなしに外の人間に見せてはいけないので、ちゃんと説明できなくて、申し訳ないです」
「いや、それは大丈夫。それより」
言いながら、イゼットはルーの肩を叩いてうながした。連れだって遺跡を出ながらも、思考は続く。ルーは正直で、鋭い子だ。彼女がそう言うのだから、クルク族の詩文はそう見えるのだろう。イゼットは、彼女が見つけた違和感に大きな意味が隠されている気がしてならなかった。
「主語……誰が、こうした、っていう言葉はあるの?」
「いえ。もっとこう、ふわっとした書き方で。『石と月光の修行場』の文章がさらに曖昧になった感じです」
「うわあ」
嫌なものを思い出した。そしてよいたとえでもある。『石と月光の修行場』のケリス文を読み解いたのはイゼットだ。その雰囲気はよくわかる。
「やっぱり、詩じたいに何かしらの意味があるんでしょうか」
眉をひそめる少女を見やる。その後イゼットは、なんとなく彼女の頭に手を置いた。
きょとんとしている相方に、向けたのはいつもの微笑だった。
「そうかもしれない。帰ったら、先輩たちに訊いてみたらいいんじゃないかな」
「……ですね。そのためにも、頑張ります」
汚れた外套と、鮮やかな衣装の前で、白い拳が二つ作られた。