第一章 まどろみの終わり7

 アリ青年は、数日ぶりに穏やかな気分で買い出しに出ていた。門前で保護した知り合いがようやく回復したと聞いて、安心しないわけがない。今日か明日のところで、診療所をのぞきにいこうと思っている。むこうはこちらを忘れているだろうが、それは青年にとって些末なことだった。
両手を占領する袋が、一歩進むごとに不安定に揺れる。袋の中身は野菜とチーズだ。肉も買う予定だったが、塩漬けがまだ余っているといわれたので保留にした。今日は少し豪華な食卓になりそうである。
 小さな市場から家へと向かう途中、青年はギュルズを見下ろす丘のすぐそばを通る。かつては育みの聖地と呼ばれ、今でも聖教では神聖視されているところだ。かつてのように一目でそれがわかるわけではない。むしろ、何も知らなければ悲劇の地にしか見えないであろう。
日中まばらに人の行き来がある丘だが、この日は一人しか人がいなかった。大きな背中の客人を青年はなんの気なしに見上げていたが、見覚えがあることに気づくと、思わず叫び声をあげる。
「ああっ、誰かと思ったら」
 その声が届いたらしい。彼は振り返り、丘の下に青年の姿を認めると、手を振ってきた。
「よお、アリじゃねえか。しばらく見ねえうちに所帯じみちまってまあ」
「放っとけってんだい。それより、先生んとこ行くんなら今のうちだぞ」
「あ? どういう意味だ」
「あんたの優秀な弟子がいる」
 それまで軽やかに続いていた応酬が止まった。丘の上の人物は、頭をかいているようだ。
「弟子なんざ取った覚えはねえ。が、勝手に『せんせー』と呼んでひっついてきたガキなら知ってる」
 瞬間、人影が消え失せた。と思ったら、丘を軽快に滑り降りて、青年の前に着地していた。巨躯に似合わず身軽な傭兵は、脅かすなと苦情を述べた青年に意地悪く笑ってから、診療所の方角を仰ぎ、目を細めた。
「そうか。あいつ、ここまで来やがったか」

 診療所が臨時休診となったこの日、雑用の人手がまた増えた。いうまでもなく、クルク族の少女ルシャーティのことである。野営の支度をしたことはあっても、庶民の家事をした経験のない彼女は、ベイザに習いながら色々覚えている。意欲満点の少女を相手にしているうち、ベイザの方も楽しくなってきたらしい。妹が一人できたようなくすぐったさがあるのだった。肉の処理は異様に上手い妹だが。
 民族は違えど姉妹のようになった二人は、家の横手で洗濯物の続きをしている。イゼットはその様子を横目に、せっせと草をむしっていた。燃料になるので、いくらかはもらっていこうと思っていた。槍を小脇に抱えての草むしり、という異様な風景だが、本人もまわりも気にしていない。
「なんかすごい手慣れてますね」
 横から声をかけられて、イゼットは顔を上げた。知らぬ間についていた土汚れをぬぐってから、相方にほほ笑む。
「昔も草むしりや薪割りばかりしていたからね」
「そうだったんですか」
「体を鍛えるには肉体労働が一番だったから。後は、槍の鍛錬」
 洗濯物は一段落したのだろう。ルーは洗剤の匂いを振りまきながら、彼の方に駆け寄ってきた。
「お相手がいたんですか」
「うん。その頃このあたりを放浪してた傭兵なんだけど」
 言いながら、むしった草を籠に放ったイゼットは、ふと目を上げた。町の方から診療所へ向かって、人が歩いてくる。病人やけが人ではなさそうだ。大柄な、男。腰のあたりで何かが揺れている。おそらくは剣だ。
「迫力あるお客さんが来ましたね」
 イゼットより遥かに五感が鋭いルーは、見た目以外にもなにかを感じたらしく、顔を険しくする。
「デミルさんをより荒っぽくしたらあんな感じでしょうか」
「何それ怖い」
 律儀にツッコミを入れているイゼットはしかし、草むしりの手を完全に止めていた。彼もその時点で、来訪者の正体に気づいていた。
「おっ……と。いきなり会えると思わなかったぜ」
 二人の五歩ほど手前で、その人物は足を止める。
 珍しくもない旅装の男。腰には使い込まれた剣を提げ、傷跡だらけの腕を組んでいた。少し赤みのある髪は雑に切られているが、得物と靴と、分厚い皮手袋だけはきちんと手入れしているようだ。
 男は、そこから動かないまま鷹揚に右手を挙げる。
「こっちはしばらく会わないうちに、背が伸びたな」
「お久しぶりです、 師匠 せんせい 。誰かに会ってきたんですか」
「せんせいはやめれと何度言ったらわかるんだ、お坊ちゃまめ」
 彼はごつごつしている顔にさらなるしわを刻んで吐き捨てる。とげとげしい物言いには、隠しきれぬ愛情がこもっていた。イゼットは肩をすくめ、ルーはきょとんとしている。彼女が相方を見上げ、口を開きかけたとき、診療所の扉があいた。
「あれ。メフルザードじゃないか。噂をすればなんとやら、かな」
「よう 先生 ドクトル 。誰の噂をしてたって?」
 男、傭兵メフルザードは、年上の医師に味のある挨拶をした。

「それで、この方はどなたですか」
 診療所に戻るなり、袖をひいて尋ねてきたルーに、イゼットはこの上なくさわやかな笑顔を返す。
「俺の命の恩人」
 机のそばにいたメフルザードがよろめいた。その拍子に、膝を机の脚にぶつけたようだ。ごんっ、という音がした。
「よかったね。あんたのことそんな風に評価してくれるの、イゼットだけだよ」
 一部始終を見ていたベイザが、膝をさすっている男をからかう。彼は、食いしばった歯の隙間から舌打ちの音をこぼした。
「クサいからやめろと何べんも言ったんだがな」
「若者の純心を否定するのはよくないね」
「兄妹そろって楽しそうにしやがって」
 患者名簿をめくりながらごく自然に口をはさんだバリスに、男はきつい視線を送る。しかし、医師としてはやり手のバリスは、どこ吹く風だ。
 彼らの漫才、もとい会話が途切れたところで、ルーはマグナエをしたまま、メフルザードに礼をとった。
「そういうことだったら、ボクもきちんとご挨拶しなきゃ、ですね」
「あー嬢ちゃん、そういうのはいい」
 手を振ったメフルザードは、けれど言葉を止めた。ヒルカニア女性の装いとクルク族の装いが同居する子どもをまじまじと見やる。そうして彼が絶句している間に、ルーは最低限の礼を済ませた。
「アグニヤ 氏族 ジャーナ はジャワーフの娘、ルーと申します。イゼットにはお世話になっています」
「……メフルザードだ。ヒルカニアのティーラン出身。しがない傭兵だ」
 毒気を抜かれた傭兵が挨拶すると、ルーは表情をほころばせた。初挑戦が成功した子どものように、喜色満面でイゼットを見上げる。イゼットの方はというと、どう返していいかわからなかったので、曖昧にうなずいた。
 診療所内を見回した 医師 ドクトル が、笑声を立てる。
「君までここに来るとは思わなかった。すごい偶然だよね」
「俺はイゼットがクルク族の娘を連れていることに驚いた」
 傭兵は、ようやくふてくされるのをやめたらしい。自分の顔を指さして怪訝そうにしている少女をながめはじめた。
――イゼットが最初に「出会った」のはメフルザードだった。とある場所で重傷を負った子どもを拾い、バリスのもとに運んだのは彼だ。一命をとりとめた子どもは、お上品に見えて戦闘向きに洗練された武術を学んでいた。この子どもの奇妙な部分に気づいた彼は、しばらくその治療と訓練に付き合った。
そして、聖都から遠ざけるために子どもを連れ出した彼は、ペルグ王国やヒルカニア王国の各地を巡り、やがて少し大きくなった子どもを送り出した。
「君も派手にやってるねえ。この間噂を聞いたよ。タリクの武装組織に乗り込んだって?」
「俺より派手にやってるやつなんて、世の中にごまんといるさ。あんなのはおふざけの範囲内さ」
「相変わらずだね。で、色事の方は?」
「今月は今のところ、三勝五敗といったところだ」
 メフルザードとバリスが、何やら俗っぽい会話をしている横で、イゼットはルーに数年間のことをかいつまんで話した。そこまで聞いてようやく、ルーは腑に落ちたようだ。机にもたれ、粗野な男の横顔を楽しげにながめる。
「イゼットとメフルザードさんは、いろんなところを旅したんですねえ」
「そうだね。ルーともずいぶんいろんなところを回った気がするけど」
「でも、その何倍も広い世界を知っているんでしょう」
 赤い衣装の下からのぞく白い両脚がふらふらと揺れた。呟きは水面に映る太陽のような色をしていて、その輪郭は若者にはつかめない。
「いいなあ」
 風に飛ばされた綿毛のようにこぼれた言葉は、二人の間に舞い落ちる。ごく小さな独白を、けれど彼の耳は確かに拾った。ゆらゆらしていた太陽がつかのま形を持つ。少女の唇の上にある憧憬とささやかな望みを悟りつつ、イゼットはそれに応えるすべを持たなかった。二人の中に確かに光る願望はかなわぬのだと、誰よりも知っているから。
「イゼット」
 久々に名を呼ばれ、イゼットは振り向いた。メフルザードが彼を見る目は真剣で、逆もまた同じである。ルーに昔語りをしている横で、メフルザードが医師に彼の体調を確認していたのを耳に入れていた。だからイゼットは、師匠のような男の用事に見当がついていた。
 案の定、メフルザードは剣環を鳴らして告げる。
「やるぞ。外出ろ」
「はい」
 イゼットは軽く頭を下げてから、槍を壁に立てかけて、横から放られた剣を受け取った。拒む理由はどこにもない。

 診療所の敷地は意外にも広く、小さな建物から町の人々の領域までは距離がある。休診のため人も来ない。ゆえに静まり返っている緑地に、二人は静かに立っている。
 開始を告げる言葉はない。どちらからともなく、音もたてずに足を踏み出した。何気なくうろつくような足運び。しかし互いの一歩ごと、空気は研ぎ澄まされてゆく。かすかなきっかけをつかんで、風のように動いたのは、メフルザードの方だった。
 兄妹と異民族の少女一人が見守る前で、唐突にそれは始まった。空に光の筋を描いた剣が、容赦なく叩きこまれる。それに対面するイゼットは、動じた様子をおくびにも出さず、一撃を流した。勢いをそのままに振りぬいた剣は、寸前で避けられて空を切る。メフルザードが隙をつくより早くイゼットは体をひねり、剣を盾として第二の斬撃を防いだ。数歩後退し、力を溜めて飛び出して、力強く剣を振った。鮮やかな攻撃に、それを防いだ幅広の剣も身を震わせる。
「イゼットって、剣も使えるんですね」
「一通り武器の扱い方は学んだって言ってたね。その後もメフルザードにだいぶしごかれたんじゃないかな」
 医師と少女のやり取りは、二人の耳にも入っていたが、戦場に関わりのない音は捨てられる。二人の体はそういうことができるようになっていた。
 刃がこすれて火花を散らす。メフルザードの瞳を間近に見たイゼットは、己の半身をむしばむ痛みに顔をしかめた。目の前の傭兵は、その隙を見逃すほど甘くない。殺意は油を注がれた炎のように広がった。気と力とで圧倒してきた傭兵の剣がイゼットの首を狙う。彼はぎりぎり刃をかわし、転がるように距離を取った。すぐ後ろの木の根を軽く蹴る。歯を食いしばり悲鳴を殺して、再び相手に斬りこんだ。
 同じとき、振り上げられていた相手の剣とそれがぶつかる。飛ばされたのはイゼットの剣の方だった。しかし、彼は眉一つ動かさない。澄んだ音を背負って、前へ飛び込んだ。さすがのメフルザードも意表を突かれて動きが鈍る。その隙に蹴りを浴びせかけたイゼットは、同時に落ちてきた剣を左手で受け止めて、突き出した。ほぼ同時、メフルザードの剣も彼の顔をとらえて止まる。相手の急所への距離は、イゼットの剣の方が、やや近い。
 熱を帯びた静寂の中。二人はまたも同時に剣を引いた。一気に脱力するイゼットとは対照的に、メフルザードは清々しい顔だ。
「やるようになったじゃねえか。剣使うの久々だろ」
「ええ、まあ……動作の確認だけは続けてましたけど……」
 息を整える余裕もないイゼットは、なんとかそれだけ答えると、木にもたれて座った。ようやく一息つけたところで、剣を鞘に納める。
「実戦してないところで、あなたの相手は難易度が高いです」
「いいことだろ。おまえが戦う必要がないってことだ。頼もしいのがいるしな」
 遠くでぼうっとしている少女をメフルザードが一瞥する。イゼットは、乾いた笑い声をこぼした。
「ルーに頼り切りというのも、情けない話でしょう」
「否定はしねえが、おまえの場合そのくらいがちょうどいい。変に前出て死ぬよりましだ」
「……それを言われると耳が痛い……」
「なんだ、また何かしでかしたのか」
 目をすがめた傭兵は、すかさずイゼットの頬をひっぱる。
「痛い痛い!」
「一から百まで白状しろ。するまで離さんぞ」
「勘弁してください!」
 イゼットが叫んだところで、メフルザードはぱっと手を放す。頬をさする若者に、意地の悪い笑みを向けた。
「ま、それは冗談として。一番の進歩は、『堪えた』ことかね」
 例の、痛みの話だ。イゼットは頬を抑えたまま、巨躯を見上げた。
「気づかれましたか」
「当たり前だ」
 メフルザードは、人差し指で鞘を叩く。金属音が飛び跳ねた。
「あそこまで動けりゃ上出来だ。昔のことを思えば、な。……が、実戦には出られないと思え。あの隙は致命傷を招く」
「もっと容赦のない相手だったら、すかさず殺しにきたでしょうね」
 容赦のない相手。たとえば、旅の途中で出会った奇妙な戦争屋と少年のような。彼らが本当に敵になったら、今のイゼットは瞬殺される。彼自身、それを確信していた。
 真剣というにも鋭すぎる目つきの『子ども』を見下ろし、メフルザードは頭をかいた。彼はやにわにしゃがみ込み、座ったままのイゼットに目線を合わせてくる。
 懐かしい威圧感。若者はあの頃と違い、真正面からそれに向き合う。
「わかってるな、イゼット。職場に戻るかどうかってだけの話じゃねえぞ」
「はい」
「それでも聖都に行くのか」
「……はい。覚悟はしている、つもりです」
 傭兵を見据える。そのときイゼットは、赤みがかった彼の髪を目にとめた。出会いの時の風景をおぼろげに思い出す。そのときと今とでメフルザードの相貌が違うものに見えるのは、空が青いから、だけではないだろう。
「今でもそこまで言うのなら、俺はもう止めねえよ」
 大きく嘆息した彼は、イゼットの肩を強く叩いて、最後に素早く口を動かす。音のない言葉を聞いたイゼットは、首を縦には振らなかった。