第一章 まどろみの終わり8

「なんだか、キールスバードを思い出しますねえ」
 みっちり膨らんだ袋を積んだ荷車が、二人の横を通り過ぎていく。そのむこうでは、ルーより少し年上の子どもが井戸から水を汲んでいた。移り行く風景をながめ、ルーが久々に穏やかな笑顔を見せている。前を行くイゼットも、それに釣られてほほ笑んだ。
今日、診療所は通常営業だ。メフルザードもなにか用事があるようで、朝からどこかへ行っている。イゼットは雑用をする気でいたが、「休め」とベイザに怒られたので、ルーとともに町へ繰り出していた。
 とはいえ、ギュルズは田舎町だ。目をひくようなものもあまりなく、観光のしがいはない。もっともそれは、ペルグ人やヒルカニア人から見ての話で、ルーにとってはすべてが新鮮のようだった。
「ギュルズは緑が多いですね」
「この辺は今まで見てきたところよりも雨が多くて、寒暖差がないから。地面が干上がることもほとんどないし、水がたくさんいる植物もよく育つんだよ。聖都方面へ行くと、またちょっと気候が変わるけどね」
 イゼットの講義を、ルーは相変わらず楽しそうに聞く。その右隣を明るい声が通り過ぎた。
 東の小路から飛び出した子どもたちが、道端の草をつついている。そのうちの一本を引き抜いた子が、別の子の額を葉っぱの先でくすぐった。その子はくすぐったそうにはしゃいだ後、仕返しとばかりに草を持っている子に飛びつく。
 彼らはじゃれあいながら、丘の方へ駆けてゆく。目でそれを追っていたルーが、あっ、と言って丘を指さした。
「イゼット、あそこには何かあるんですか。ずっと気になっていたんですけど」
「ああ。あそこは」
 振り仰ぎ、イゼットは寂寥に顔を陰らせる。
「ロクサーナ聖教の、聖女と騎士が育つ場所……だったところだよ」
 含みのある一言に、首をかしげた少女は、すぐ後に凍りついた。

 緑広がる丘の上。かつては壮麗な建物があった場所に、今は焼け焦げた瓦礫が積みあがっている。ところどころに見える装飾と、かろうじて残った青い屋根の一部だけが、往時の面影を保っていた。育みの地から祈りの歌声は消え失せ、鍛錬に励む若者たちの姿もなくなった。折れた柱には冷たい静寂が横たわり、二度と時が動くことはない。移ろうのは天の色と丘の下の風景だけだ。
「『アヤ・ルテ聖院』。それがこの建物の名前」
 瓦礫の前で、旅人たちは足を止める。唖然とする少女の横で、若者は淡々と語り続けた。
「聖女となる女の子と、神聖騎士団に入ったばかりの少年たちが、修行をするための施設だったんだ。だから育みの聖地なんて呼ばれていたこともある。けど、以前賊に襲撃されて、そのとき ほとんどが焼け落ちた」
「襲撃……ひょっとして、前にサミーラが話してた……」
「よく覚えてたね」
 ヒルカニアの町キールスバードでのことだ。イゼットは、少女にほほ笑みかけながら、あの姉弟は元気だろうかと思いをはせた。カマルはまた無茶なことをしていないだろうか。姉のサミーラがいればきっと止めているはずだから、心配はいらないのだろうが。
 語る娘の声が耳の奥によみがえる。それをつなぎ合わせるように、彼は言葉を紡ぐ。
「たくさんの人が亡くなったそうだ。その中には、未来の騎士も、若い 巫覡 シャマン も含まれていただろうね。彼らがなぜアヤ・ルテ聖院を狙ったのかはわかっていないけど」
「きっと、祭司長派のしわざさね」
 鋭い声が割り込んできた。突然のことだった。イゼットすらも不意を突かれて黙り込む。その間に、そばで膝を折って祈っていた老婆が、とげとげしく吐き捨てた。
「奴らがアイセル様を亡き者にしようとしたに違いない。結果的に従士様がお隠れになってしまったが、アイセル様の御身が危うくなったのは同じ。奴らめ、手を叩いて喜んでいることだろうよ」
 その老婆は、時折診療所にも来る人だ。かつてイゼットも何度か会ったことがある。ふだんは穏やかに笑っている彼女の、思いがけず烈しい一面を見て、イゼットはあっけにとられていた。ルーも驚いていたが、見ず知らずの人間であるぶん、いくらか落ち着いていた。
「ああ、美しかった聖院も、こんな姿になってしまった」
 嘆く老婆に、明るい声をかける。空気にのまれず、かつ彼女を刺激しない、絶妙な声色だ。
「おばあさんは、元の聖院を知ってるんですね」
「もちろんだとも。お嬢ちゃんにも見せてやりたかった。ことに、朝日を浴びて輝く姿は素晴らしかった。精霊様のご加護をじかに感じられるほどの神々しさだった……」
 老婆の目じりに涙がにじむ。しわだらけの指が、雫をぬぐった。
「アイセル様も従士様も、私らとは違う空気をまとっていたようだったよ。私の孫くらいだったがね。とてもそうとは思えんかった。ああ、アイセル様、おいたわしや。せめて、従士様が戻ってきてくだされば……」
 焼け跡の前で静かに嘆いた老婆は、最後にもう一度、深く祈って去ってゆく。
 イゼットとルーは、言葉もなくその背を見送った。丘の下で、家族だろうか、別の女性が彼女を迎えにきたようだ。手をひかれて去ってゆく老婆の影が消えると、ルーは神妙に焼け跡を見上げた。澄み切った瞳は、そこに何を見ているのか。答えは彼女の中にしかない。しかし、心の一端を察することは、傍らの若者にもできた。
 だからこそ、彼もまた、機を見定められたのかもしれない。たとえ、口をついて出た言葉が、遠回しなものであったとしても、彼は確かに沈黙を破ったのである。
「ごめん、ルー。俺、さっき、ひとつ嘘をついたんだ」
「……え?」
「『アヤ・ルテ聖院』がなぜ狙われたのかはわかっていない。『世間的には』。だけど、知ってるんだ、俺。少なくとも、目的の一端くらいは」
 ルーが息をのんだ。イゼットは、笑みを深めた。感情を、その下に覆い隠すように。
「まだ、君に話していないことがあるって言ったよね。今、その話をしてもいい?」
 ルーはかなり戸惑ったようで、視線を泳がせていたが、小さな声でどうぞと言った。お礼を述べてから、イゼットは瓦礫に向き合う。
「実家のことは言ったよね」
「はい。……イゼットは……よく思われてなかったんですよね」
「うん。そのよく思われてなかった俺は、力のこともあって、聖院に入る方向で話が進んでいた。修行して、 巫覡 シャマン なり騎士なり地位を得れば蛮族の子でもましになるだろう、って言われてた。
そんな折、実家に、護衛をたくさん連れた女の子がやってきた。彼女は各国の貴族や王族の家を回っている最中だったから、ヒルカニアの貴族である父上にも会いにきたんだ。そして彼女には別の目的もあった。彼女は家で、俺の姿を見つけると、とても驚いた顔をした。その後、父上の制止を振り切って俺の前に来て『あなたです』と言った」
 息を吸う。心を整える。そして、忘れようとしていた言葉を瓦礫に落とす。
「『わたしの従士はあなたです』って言ったんだ」
 体が重い。胸が痛い。涙はとうの昔に枯れた。目をみはって、青ざめる少女を見ても、波風はもう立たない。だが、彼は、相方から視線をそらした。
「その日、俺の聖院入りが決まった。騎士たちと混じって修行して、そのまま聖教の一部になるのだと誰もが信じた。――あの日までは」
 かつての聖地の頭上に広がる空は、青い。けれど、彼には空が燃えているように映った。
「じゃあ、イゼット、君が……」
 あえぐような 白い娘 ルシャーティ の言葉に、彼はこたえる。
「そう。聖院が焼けた夜に姿を消して、未だ戻らない聖女の片割れ――」
 もう、戻れない。暗闇の中に踏み出した。
「俺が、アイセル様の従士だよ」

 そそり立つ岩壁の先。細い空は、蒼と金の二色が絶妙に混じりあっている。陽は遥か西へと去り、岩の隙間にはわずかな光しか届かない。薄い闇の中には、熱を帯びた空気と血の臭いが立ち込める。二度と動かぬ人の体が、細い道の上、無数に横たわっていた。土に染み込む血はまだ赤く、かすかなぬくもりを持っている。
 血しぶきと人体の中身が無残に飛び散る道の上を、傭兵デミルは悠々と歩いていた。屍となった人々の血を吸った大剣が、傍らでまがまがしく沈黙している。
「やっと終わったか」
 彼の口調に、鬱屈した様子はない。遊びを楽しむ子どもと、さして変わらぬように見えた。
 彼の後ろを顔色一つ変えずに歩いている少年が、わずかに前へ出る。
「やりすぎじゃないのか。何人か生かして情報を吐かせる予定だったんだろ」
「淡々と人の骨折ってた子どもにやりすぎとか言われたくねえなあ」
 からかうように細ったデミルの目に、ふいに静かな光が灯る。
「あれじゃあ何も吐きゃしねえよ。狂信者連中、とはよく言ったもんだ。情報が得られねえなら、いっそ殺しちまった方がいい」
「……だから、小屋で見つけたあいつの首も刎ねたのか?」
「ありゃ楽にしてやった、っていうんだよ。物言いに気をつけろよ、アンダくん」
 デミルは足を止めて振り返る。自分を見上げる少年は、彼を非難しているようにも、なにも感じていないようにも見えた。いびつに笑った傭兵は、すぐに歩みを再開する。
 日没へと向かう世界は、刻一刻と暗夜の中に沈みゆく。それでも、二人が足を止めることはない。
「あいつは、逆によくしゃべったよなあ」
「気になることを言っていた」
「ああ――『聖院で取り逃がした子どもを探している』だったか」
「アヤ・ルテ聖院が賊に襲われたっていうアレだろう。見つかってない生き残りなんているんだな」
 デミルは足を止めぬまま、顔の傷を軽くなでた。もはや痛みも疼きもせぬ傷は、鼻や目とさして変わらない。そこにあって当たり前のものである。言葉を探すとき、気づけばこの傷を触っている彼は、このときもまた悩んでから口を開いた。
「いるも何も、俺たちすでに会ってるぜ」
「は? どこで」
「ペルグの国境」
 デミルがそこまで言ってもなお、アンダは低くうめいている。思い当たらないのか、わかったが認めたくないのか。どちらでも、デミルには関係のないことだ。
 喉を鳴らして笑った傭兵は、少年が一番思い出したくないであろう話をあえて舌に乗せた。
「わかんねえか? おまえがうっかり殺しかけたお坊ちゃんだよ」