第二章 紅の誓い2

 メフルザードが用事を済ませて診療所に顔を出したとき、出迎えたのは医師の男とその妹だった。朝に比べてがらんとしている部屋の中を、戦士の目が怠惰に見回す。
「若者二人はどうした? もう出てったのか」
「いいや。ベイザが休めって言ったら、町に繰り出してったよ」
「こんな田舎で観光かい。にしても、やけに遅くないか」
 メフルザードが頭をかきながらぼやくと、患者名簿に向き合っていたバリスが、顔を上げた。ベイザは台所に引っ込んだばかりで、二人の会話は聞こえてないだろう。ぼんやりした顔の 医師 ドクトル に現実を指摘すべく、メフルザードは窓の外に広がる絵画のような空を指さす。
「そろそろ祈りの鐘が鳴る時間だ。いくらなんでも、帰ってこなきゃおかしいだろう」
「本当だ」
 今気づいたとばかりに、バリスは首をひねる。呆れてため息も出なかった傭兵は、毒づきながら踵を返した。扉を開けたその瞬間、こちらへ上ってくる大小の人影を見つける。ひとつ、いやみな説教をしてやった方がいいか。そんなことを思い、舌打ちの後に口を開く。しかし、大人の意地悪な心は、次の瞬間に跡形もなく吹っ飛んだ。
「お、遅くなってすみません! 少し休憩が長くなっちゃって」
 背伸びして一生懸命手を振る少女のかたわらに、彼を師匠と呼ぶ少年がいる。その穏やかな表情を見た瞬間、メフルザードは戦慄した。
 微笑の仮面が、昔の記憶を掻き起す。彼がギュルズに下りてきてから初めて「聖都に行く」と言い出した日。メフルザードたちがある事実を指摘して思いとどまらせようとしたとき、彼は、それまでにないくらい鮮やかな笑顔で、言ったのだ。
『そうですね。最悪の場合、殺されると思います。それでいいんです』
 今のイゼットは、そのときと同じ顔をしている。
 メフルザードはすべてを察した。察したうえで、大股で二人に歩み寄った。
「おい、クソガキ」
 声をうんと低くする。ルーが震えたのを視界の端に見つつ、彼はイゼットの肩をつかんで引き寄せた。戸惑いと焦りに目をみはる彼に、メフルザードはささやいた。
「一回横になれ。一晩中籠れとは言わんから」
「あの、せんせ……」
「そんな面のまま出発する気か。いいから頭冷やせ」
 言葉を重ねると、イゼットは押し黙った。彼を連れて、ルーより先に中へ入ったメフルザードは、ちょうど出てきたベイザに出来の悪い『弟子』を押し付けた。二人が奥へ行くのを見届けてから、振り返る。マグナエで黒髪を隠したまま、ルーがとぼとぼと中へ入ってきた。アグニヤの民族衣装の端が床板についたのを見計らい、メフルザードは音をたてぬよう扉を閉めた。
 部屋が静まり返る。いつの間にか、バリスも二人の方を見ていた。
「おかえり」
 いつもどおりの調子で、バリスは言う。ルーはぎりぎり聞き取れるほどの声で「ただいま、戻りました」と返した。
「とりあえず座るといい。ちょうどベイザがスープを作ってくれたところだし、一休みしよう」
ね、とバリスは傭兵にも微笑を向ける。眉間にしわを寄せていた彼は、舌打ちをこらえて、長く息を吐き出した。
「わーったよ」
 西洋風の食卓で、三人は向かい合う。夕食時とは思えぬ寂しい空気の中で、しばしみんなが豆と野菜のスープを飲んでいた。だが、メフルザードは自分のぶんを平らげるなり、切り出した。
「ルー」
「……あ、はい」
 スープと格闘していたルーは、慌てて彼を見た。明らかに顔がこわばっているが、メフルザードは構わない。
「聞いたんだな、あいつのこと」
 匙を動かしていた手が、揺れて、止まった。
「ど、どうして」
 彼女の声にこたえたのは、バリスだった。
「イゼットがそういう顔してたからね。さすがの僕も気づいた」
「そういう顔ですか」
「『体質』のこともあって感情を抑えがちだけど……もともと彼は正直だから。すぐ顔に出る」
 へらっと笑い、バリスは自分の顔を指さした。ルーはあっけにとられているが、そのぶん緊張と動揺は和らいだらしい。相手の気をほぐすことを深く考えず出来てしまうのが、 医師 ドクトル バリスのふしぎなところだ。
 ともあれ、少し落ち着いたらしいルーは、静かな表情でうなずいた。
「聞きました。って言っても、多分ほんの少しだけど。それだけでも、イゼットが聖都に行く目的は何となくわかりました。……聖女様に会いにいくんですよね」
「まあ、そうだな。それが一番の目的だ」
 メフルザードは乱暴に頭をかく。含みのある物言いに気づいたのだろう、ルーが首をかしげた。
 むっつりとする男に代わり、バリスが口を開く。彼のスープも残り少なくなっていた。
「彼の今の状況だと、聖女を守るという職務は果たせないからね。会って、きちんとその話をしたいそうなんだ。僕やこいつは『従士に復帰できないなら生死不明のまま姿をくらませてもいいんじゃないか』って言ったんだけど」
 彼は、手首をひるがえし、匙の先で顔を指す。
「彼は、行くと言い張った。何があっても戻るって約束したから、って」
「そうなんですか」
 ルーの顔が少しほころぶ。
「イゼットらしいですね」
「あ、ルーちゃんもそう思う?」
 二人は和やかな笑い声を立てる。しかしメフルザードはむすっとしたままだ。それを見つけたクルク族の少女は、顔を曇らせた。
「……メフルザードさんは、イゼットが聖都に行くのが嫌なんですか」
「嫌、ってかなあ。まあ、そうなんだろうな」
 メフルザードは背もたれに体を預けて天井を仰ぐ。
 流れの傭兵として生きる彼は、誰かに忠誠を捧げる人間の気が知れない。だが、だからと言ってイゼットの決意をけなす気もなかった。快く送り出してやるつもりだったのだ。あることに思い至るまでは。
「あいつのもう一つの目的を知ったら、嬢ちゃんだって嫌になると思うぜ」
「それ、って」
 温かいはずの部屋の中で、白い頬が色を失う。聖女の従士が彼女に何を話したか、男たちは詳しいことを知らないが、おおよそは察せられた。ため息をつくバリスをよそに、メフルザードは目を細める。
「聖女に会うついでに、ほかの聖教関係者にも事情を説明するっていうんだよ。例の襲撃事件の時に聖女とあいつはほとんど二人きりで行動してたらしいから、それも含めてな」
「……でも、事情の説明をするのは、当然のことじゃないですか」
「そうだな。あいつは当然のことしかしてない。で、当然のことをし続けた結果、二度と従士に復帰できなくなる可能性がある。最悪、魂の庭園に追い出されるかもな」
 乾いた音が机上にはねた。ルーが取り落とした匙が、器の横で斜めになって転がっている。
悲痛な表情から目をそらし、からの器に目を落とし。再び少女を見つめて、メフルザードは呟いた。
「イゼットは、『ご主人様』を守るために、聖教における大罪を犯した……かもしれねえんだ」

 夕闇に沈む部屋。沈黙する壁と天井が跳ね返すのは、 行灯 ランプ の中で燃える火のさざめきと、書物をめくる音だけだ。不規則に響く紙の は、しかしあるときぴたりと止まる。一拍遅れで、扉が控え目に叩かれた。
「どうぞ」
 来訪者の顔を思い浮かべながら、イゼットは声をかける。扉がゆっくり内へ開いた。細くこぼれた明かりを遮る影は、薄くのびる独特な衣装の形を克明に映し出している。
 人影の主、クルク族のルシャーティは、いつも以上に遠慮深い声をかけてきた。
「イゼット。今、いいですか」
「大丈夫だよ、どうぞ」
 ほほ笑んで、あっさりと彼女を招き入れる。そのときイゼットは、書物を閉じた。栞もなにも挟んでいないが、それは大した問題ではなかった。
 夕闇が再び落ちる。小さな火だけが光をもたらし、人の姿を浮かばせる。四角い窓にはすでに板戸がかけられていて、黄昏時の色は一切入ってこない。壁の板に浮かんだ目玉のような模様は、昔と変わらず部屋の人間を見つめ続ける。
「あの」
 長いようで短い沈黙を、ルーが破った。
「話の続きを、聴きたいと思って」
「うん」
 イゼットはただ肯定する。待っていた人が訪れて、来るべき時が来た。それだけのことを受け入れる。
 緊張に顔をこわばらせたルーに笑いかけた彼は、それから戸惑いに目を細めた。
「あ、ごめん。この部屋、椅子がひとつしかなくて……俺、そっちの寝台に移ろうか」
「いえ。ボクが 寝台 こっち 使いますよ」
 彼の言葉が終わるより早く、ルーはかたい寝台の上に座った。その動作も、いつもより少しぎこちない。イゼットはわずかに口もとをほころばせたが、すぐに引き締める。
 小さく揺れる火の音がいつもより大きい。それすらも、夜の 静寂 しじま に沈みゆく。
 刻々と深まる夜の中、若き従士はおもむろに口を開いた。
「それじゃあ――俺が聖院に入った後からだね。と言っても、事件の日まではひたすら従士候補として訓練に参加したり、作法を学んだりしていたんだけど」
「候補、ですか?」
 訝しげなルーの声を拾い、イゼットはうなずいた。
「あの頃の聖女は先代――シディカ様だったからね。俺とアイセル様は、形式上『候補』と呼ばれていた。だけど、俺たちのほかに候補はいない。アイセル様が候補に指名されて、俺が彼女に見つけられた時点で、二人が次の聖女と従士になることは、約束されたようなものだった」
紙の音が消え、若者の声が虚空に溶ける。彼の瞳は、今の中で過去を緩慢になぞりはじめた。