第二章 紅の誓い1

 白く透き通った床に、靴音が響く。高音はたちまち天井の先へと吸い込まれて消えた。聖院の建物はどんな音でもかき消してしまう。だから、人が多いわりにいつも静かなのかもしれない。
 小さな窓の先に広がる空は、神秘的でありながらどこか恐ろしい色をしている。日没前のこの時間に、たまに見られる色彩だ。空の中にこの色を見つけると、なぜだか胸の奥が熱くなる。ふしぎな心の高まりが、彼は好きだった。
 可憐な声が名を呼んだ。控え目ではあるが、喜びを隠しきれていない。イゼットは口元を引き締め、声のした方を振り返る。小さな主が制服の長い裾と格闘しながら駆けてきた。彼は目を丸くする。彼女はまだ、講堂前で待っているとばかり思っていたのだ。彼の驚きと焦りをよそに、少女は輝く笑顔を見せた。
「イゼット。よかった、ここにいたのね」
「何かございましたか、アイセル様」
 少年は軽く頭を下げてから尋ねる。年齢不相応な彼の態度は、しかし今の立場にあるうえで求められるものだ。だから少女もなにも言わないが、最初の頃は苦々しそうにしていた。今は、くすりと笑って彼に顔を上げるよう言った。
「事件が起きたわけではないの。ただ、早くあなたに会いたかっただけ」
「それは……恐縮です」
 言いながらも、イゼットは顔をそらす。こそばゆく感じていることを悟られたくなかった。小さくかぶりを振ってから、アイセルに向き直る。そのときにはすっかり『いつもの』従士の顔になっていた。
「しかしアイセル様、私がお迎えに上がるまでは講堂でお待ちください。一人でいらっしゃる間に、御身になにかあっては事です」
「もう。イゼットまで先生みたいなことを言うの? そんなに心配しなくても……ここは聖院よ」
「だからこそ、油断なさってはいけません。それに――アイセル様にもしものことがあったら、私が聖院の皆に刺し殺されてしまいますよ」
 ほほ笑んで、悪戯っぽくイゼットは言う。聖女の従士にしては品のない冗談だが、彼とアイセルの間では、こういう物言いはちょっとした遊びなのだった。アイセルも、むっとふくれっ面になった後、その顔を崩した。
「みんなも、イゼットばかりに押し付けすぎよ」
「それが従士というものです」
「わかったわ。今度からは気をつけます」
 澄まして言う聖女候補に、イゼットはわざと神妙な態度でひざまずいた。頭を小突かれたので、すぐに立ち上がったが。
 アイセルはいつも通り、元気だ。それを確かめたイゼットは、自室へ向けて歩き出した主の半歩後ろについた。
「聖句の暗記はいかがでしたか?」
「もう大丈夫。だけど、儀式の順番がなかなか覚えられないの」
「細かい決まり事が多いですから、慣れないうちは皆苦労します。あまり気になさりませぬよう」
 一定の距離を保ち、それでいて友人のような雰囲気を漂わせる。幼い主従を見やる人々の視線は、おおむね温かい。たまに殺気のようなものを感じることもあるが、さしたる問題ではない。その手の輩を黙らせるのはイゼットの仕事だ。
 ややして、ひとけのない通路に差しかかった。それでも周囲を探っているイゼットに、アイセルはまぶしい視線を向けてくる。
巫覡 シャマン の祈祷がもとになっているそうだから、イゼットの方が詳しいんじゃないかしら」
 被きの下からこぼれた黒髪を入れなおしたアイセルは、いじける子どものように顔をしかめた。
「聖教式のやり方は私も習ったばかりですよ。共通している部分もありますが。――また練習しましょうか」
「いいの? 従士の訓練も大変なのでしょう。私の修行に協力してくれるのは嬉しいけれど、無理をすることはないのよ」
「ご心配には及びません。むしろ、よい息抜きになります」
「……なら、お願いします。いつもありがとう」
 嬉しそうに頬を染める未来の聖女に、未来の従士は恭しくこうべを垂れた。
 行き先をまっすぐに指す道には、一点の曇りもない。目に見えぬ道もそれは同じだと、このときの二人は信じ切っていた。多少の障害はあっても、二人一緒なら乗り越えられるだろうと、いつも確かめ合っていた。
 引き離された時のことなど、想像さえしていなかったのだ。その道が炎の壁に遮られるまでは。

 以前、ルーに言った通り、自分が聖女の従士だと打ち明けるつもりはなかった。ロクサーナ聖教の深部に関わる話だ。それをクルク族の娘に押し付けたくないと思った。だが、本当はそれは建前で、知られるのが怖かっただけなのかもしれない。
 秘めていたことを吐き出してから、イゼットはしばし黙した。どう言葉を続けてよいのか、何を言うべきなのかが、頭の中でまとまらなかったからだ。
 少女の貌をうかがう。彼女は、驚きをごまかすように、瓦礫の山に目を向けていた。二人のほかに、周囲に人影はない。だからこそイゼットも口を開いたのだが。
「どうして」
 前を見たまま、ルーが唇を震わせた。すくんだイゼットを、少しうるんだ黒い瞳が見上げる。
「どうして、話してくれるんですか」
 投げかけられた問いは、彼の予想の斜め上を行くものだった。虚を突かれ、それでもイゼットは影を相貌に落としたまま言葉を紡ぐ。
「話さなきゃいけない、と思ったから」
 槍を握りしめる指が、小刻みに震える。
「ヤームルダマージュで、紫色の煙を見たこと、覚えてるよね」
「はい……」
「あれを引き起こしていた人たちが――アヤ・ルテ聖院を襲ったんだ」
 ルーが、瞠目する。今日一番の驚きに、彼女は返す言葉を失っていた。
 イゼットにとっては、思い出よりも静かな記憶だ。そして何よりも暴力的な記憶でもある。忘れもしない、炎にのまれる月の紋章。そして次々に消えてゆく人の命。『彼ら』の怒号と嘲笑。六年経った今でも、多くの風景をはっきり思い起こすことができる。
 イゼットはかぶりを振った。感傷を追い払う。それでも、痛みは消えない。
「ほら、彼らは俺のことを知っていたでしょう。彼らの最初の狙いは聖女だったんだ。だから、必然的に俺と彼らは対峙することになった」
「確かに……ボクたちが出会った二人とも、イゼットのことを知っていましたね」
「うん。それに、あのときの反応を見るに、まだ俺のことを追いかけまわしたいらしい。そうなると一緒にいるルーも危険だ。そう思ったから、彼らと俺の関係くらいは話しておこうと決めたんだ。事情を知っているのと知らないのとでは、対処の仕方も変わるでしょう?」
 一緒にいたのはカヤハンもそうだが、町の研究者である彼は、イゼットの同行者であるルーほど目をつけられはしないだろう。彼の場合は、下手に事情を知ってしまう方が危険だ。一切を知らないままならば、万一『彼ら』に出くわしても「たまたま一緒になっただけ」で通せる。
 そうイゼットが説明すると、ルーはしかつめらしくうなずいた。驚愕が通り過ぎて、いつもの調子を取り戻しつつあるらしい。
「だから」
 安堵して、イゼットはさらに続けようとする。
 そのとき、急に頭の右側が強く痛んだ。思わずそこを押さえたイゼットは、かろうじて息を吸う。だが、クルク族の少女をごまかすことはできなかった。
「イゼット!」
 空気の揺れに気づいたルーは、振り向いて、声を震わせ名を呼んだ。見開かれた目の上で、長いまつ毛が震える。
 ゆっくりと頽れる体に少女が飛びつき、支えた。なんとか顔を持ち上げたイゼットは謝ったが、それはほとんどうなり声だった。
「大丈夫……大丈夫だから、このまま……」
「どう見ても大丈夫じゃないです! 苦しいなら、無理して話さなくてもいいんですよ! だって、イゼットにとっては――」
「だめ、なんだ」
 イゼットはかぶりを振る。自分の体が震えていることにも、尋常でないほど汗をかいていることにも気づいていたが、それでも立ったままでいようとした。
「それじゃ、だめだ。今、言っておかないと」
 熱が波打つ。見えないなにかが怒っているようにも思えた。いったい、何が、何に怒っているのか。それを彼は知っているはずで、けれどほんの少しの手がかりもつかむことはできない。
 自分がきつく目を閉じていたことに気づき、顔から少し力を抜く。いつも以上に頑固な若者を、少女が涙目でにらみつけていた。
「なんで、そこまで」
 ほとんど怒鳴るような声で問う少女に、汗ばんだ顔を向けたイゼットは、微笑を作った。
「聖都に行ったら、俺はきっと罰を受けるから」
「……え?」
 彼女に話さなくてはいけないと思った。
 けれどそれも、こじつけた理由の一つなのだろう。
 理由をそぎ落とせば、残るのはちっぽけな子どもの悲鳴だけ。
「そうなったら、俺は、君に、会えなくなるから」
 本当はそうじゃない。
 ただ、彼女に――