第三章 聖教の影1

 重いとも軽いとも、柔らかいとも固いともつかない。けれども激しい音がした。ルーが寝台から立ち上がったための音だと、イゼットは冷静に把握した。瞼を持ち上げ、優しい闇をこじ開ける。血の気の失せた顔を彼に向ける少女は、開いた眼を彼の方に固定したまま、少しも動かなかった。全身が小さく震えていることにも、このぶんだと気づいていないのだろう。
「大罪、って……そんなの……」
 少しして、ルーがうめくように呟いた。メフルザードかバリスか。大人たちから、すでに何かしら聞いていたのかもしれないと、イゼットは他人事のように考える。
「そんなの……罪でもなんでもないじゃないですか。どうして」
「さっきの話、信じるの?」
 意地悪かな、と思いながらも問えば、ルーは震えていたのが嘘のように半歩前へ踏み込んできた。
「当たり前です! イゼットが嘘をつくわけがないです!」
「そうきたか」
 イゼットは思わず吹き出した。しかし、すぐに表情を引き締める。
「ルーがそう言ってくれるのは嬉しいけど……その論法は、聖教本部の人たちには通用しないよ」
 火が点いたときの表情のまま、ルーはその場で凍り付いた。言われて初めて気がついた、という風情だ。イゼットは嘆息をのみこんで、目を閉じる。
 その論法が通用する人も、いるにはいる。アイセル、ファルシード、もし生きていれば、ハヤルも。ルーと同じことを言ってくれるだろう。だが、聖教本部の人々が敵に回ればそれだけでは対抗しきれない。
「……でも、聖女様は味方してくれるはずです」
 しょぼくれたルーの声を聞き、イゼットは目を開ける。うなずいてから、けれど彼女と自分自身の希望を否定した。
「それで安心できればいいけど、今の本部の状況を見る限り、そこまで楽観視はできないと思う。猊下の足を引っ張りたい人たちがたくさんいるからね」
「むう……」
「それに、俺が石を壊していないことを証明できるものがない。盗んだわけではなく預かったのだということは、猊下が証言してくださるとは思うけど」
「石そのものがない上に、割れた瞬間を見た他人が、メフルザードさんと犯人たちしかいない……」
 イゼットの言葉の続きを自分で引き取り、自分でそれに落ち込んだルーは、いつかのように頭を抱えてうめいた。その姿を見て安堵している自分がいることに気づき、イゼットは眉を寄せる。
 自分と彼女の遠くない距離を目視して、けれどそれを詰めることはしない。いや、躊躇しているだけだ。距離を詰めて、自分が必死に守ってきた一線を超えることを恐れている。それだけのこと。
 ため息がこぼれる。それにかぶせるようにして、ルーが二人のはざまに言葉を落とした。
「やっと、メフルザードさんの気持ちがわかりました」
「え?」
「今の話を聞いたら、ボクもイゼットに聖都へ行ってほしくなくなりました」
 息をのむ。その後の沈黙の中で、若者は傭兵が初めて激怒したときのことを再び思い出していた。傷つけていることは、思いやりを踏みにじっていることは承知の上だ。それでもなお、痛みがおさまらないのは、後ろめたさがあるからか。それとも――
「だからと言ってイゼットの決めたことにケチをつけたくもありません。聖女様にも、イゼットが生きていることを知ってほしいとも思います。だけど、でも……」
 たどたどしく紡がれる少女の思いは、核心に近づくごとに不安定になっていく。喉を震わせ、とうとう続きをのみこんだルーは、うるんだ瞳をきつくイゼットに向けた。
「ごめん」
 口をついて出てきた謝罪に、若者自身が驚き、困惑した。ルーもぽかんと口を開いたが、彼女はすぐにそれを引き結んだ。
「本当です。ひどいです」
「う……」
「こんなのあんまりです」
 憤然として言いながら、ルーはその場から足を踏み出した。イゼットは目をみはる。その間にも、クルク族の少女は一歩、二歩と距離を詰めてきた。
「イゼットはいっぱい頑張ってるのに、まだひどい目に遭うかもしれないなんて、おかしいです。なんなんですか聖教って。なんのための聖教ですか」
「いや、ルー、落ち着いて。そもそもこれは推測で、本当にそうかはまだ――」
「落ち着きません」
「えええっ?」
 イゼットが素っ頓狂な声を上げた頃には、ルーはすぐそばにいた。彼女は一分のためらいもなく、イゼットに向かって腕を伸ばす。白い両手が彼の頬をはさんだ。
「もし、聖都で君が罪に問われても、ボクにはそんなの関係ありません」
 朝日の色の瞳を、黒い瞳が射貫いた。
「ボクはイゼットの味方です」
 透明な言葉は、強くイゼットの胸を突いた。
 灯が、揺れる。突き上げるものをこらえてほほ笑んだイゼットは、そっとルーの両手に自分の手を重ねた。その手が震えてしまうのは、もうどうしようもない。
 思えば、ルーはいつもこうだった。足踏みしない。ごまかさない。事情を伏せることはあっても、自分の気持ちは偽らない。いつだって、彼の躊躇を踏み越えて、ぶち破って、手を伸ばしてくる。
 それがたまらなく嬉しいのだ。そして、たまらなく苦しいのだ。
「ありがとう、ルー」
 一点の曇りもない思いに、きっと応えることができないと、わかっているから。

 結局、イゼットが部屋を出たのは、翌朝になってからだった。メフルザードは一瞬気まずそうな顔をしたものの、すぐにいつもの調子に戻って肩を叩いてきた。イゼットはそれに肩をすくめて応じつつ、過去の診療録を凝視しているバリスに声をかける。
「バリス先生、あの、話しておきたいことが」
「ん? なんだい?」
「……ここへ来る前の夜、俺が『見た』ものについて」
 いつも通り気の抜けた表情をしていたバリスが、一気に目を覚ましたふうだった。改めて若者を見た彼は、完全に医者の顔である。
 バリスだけではない。メフルザードも、ベイザも、わずかながら顔に緊張を走らせている。ルーだけは怪訝そうに首をかしげていた。
 バリスの手が、診療録を机の端に押しやる。
「あのとき答えるのを保留したということは、聖教がらみの何かだったんでしょう」
 茫洋とした色の瞳が、クルク族の少女の姿をつかの間とらえた。
 穏やかにそう言った彼に、イゼットは首肯した。息を吸って、自身をなだめて、記憶をたどる。
 熱を出していたルーを連れ、強行軍をしていた夜。激痛と光の中で見た影は、あれは、確かに――
「月輪の石。その、影でした」
 診療所から一切の音が消えた。静寂の合間を縫って外から聞こえてきたのは、細長い鳥の声。空隙を埋めたのは、鉄筆が机を叩く音だった。
「『僕らの常識じゃ説明できないこと』のようだね」
 そしてのぞいたバリスの笑顔は、いつもと何ら変わらない。彼の内心がどうであるかは測りきれないが、それでも 医師 ドクトル の飄々とした反応は人々を安心させた。
「もしかして、聖教の偉い人は何かご存じなんですかね?」
 頭を傾けたルーをメフルザードが一瞥する。一瞬、鋭く目を細めた彼はだが、すぐに態度をやわらげた。組んだ両手を後頭部に回して、天井を仰ぐ。
「どうだかな。その石の実態は聖女様すら知らないんだろう」
「仮に知ってたとしても、そう簡単には教えてくれないだろうね。いくらイゼットが相手とは言え――いや、だからこそ、かも」
 乾いたばかりの衣服が詰まった籠を運びながら、ベイザが口をはさむ。妹の鋭い言葉に、バリスが「みんなもうちょっと素直になればいいのにね」と微妙な相槌を打った。緊張感があるのかないのかわからぬやり取りを横目に、イゼットは考え込む。無意識のうちに、指を唇に当てていた。
 当てはある。文書管理室のファルシードだ。聖教の機密に触れることが多い彼ならば、手がかりとなる情報を持っている可能性がある。勢力争いに巻き込まれていなければ、イゼットの味方をしてもくれるだろう。聖教本部に着いた後、襲撃事件と月輪の石に関わる追及が始まる前に彼と接触した方がいい。
「どのみち、謎を解き明かしたければシャラクに行け、ってか」
「行っても解けるかわからない謎だけどね」
 苦々しく吐き捨てたメフルザードに、バリスが神経を逆なでするようなことを言う。眉間の谷をいっそう深くえぐられた傭兵が舌打ちするのを、他の人々は苦笑してながめた。火を点けた張本人は他人事のようにそれを見守っている。が、ややあって表情を改めた。
「まあ、何がどうであれイゼットには関係ない」
 茫洋とした光が沈み、鋭い輝きが両目を彩る。彼はその目を若者たちに向けた。
 医師 ドクトル に真っ向から見据えられたイゼットは、軽く息を詰めた。
「君たちが聖都シャラクに行くのは、もう確定でしょう?」
 ひらり、と手を振って、バリスが投げかけた言葉に、イゼットたちは瞠目した。だが、それもつかの間のこと。一瞬の驚愕をのみこんで、彼らはうなずいた。
「はい。――行って、自分の務めを果たしてきます」
 緊張感をみなぎらせるイゼットの横で、ルーがとん、と胸を叩いた。
「大丈夫です! 最悪の事態になっても、ボクが力ずくでなんとかします!」
 清々しく、にこやかに彼女が言い放ったものだから、イゼットは思わず脱力してしまう。同時、まわりからどっと笑いが起こった。
「ち、力ずくは勘弁して……」
「嫌です! そうでもしないとイゼットは言うなりになりそうだから嫌です!」
「何それ!? だいたいルーは修行場が優先じゃないの?」
「今だけは予定変更です。君の用事が終わるまでボクは目を離しませんからね!」
「なんか、急に子ども扱いされてる気が……!」
 大人たちそっちのけで言い合いを始める二人を見、とうとうバリスが腹を抱えて笑い出した。彼は気の済むまで笑うと、かたわらで髪をかきむしっているメフルザードの肩を叩く。
「これで安心だね、メフルザード」
「そーかもな。……まったく、とんでもねえ嬢ちゃんだ……」
 そうぼやいた傭兵がどんな表情だったのか――知っているのは、バリスだけだ。