第三章 聖教の影2

 その夜、最後の団欒を楽しんだイゼットたちは、夜明け前に起きて身支度を整えた。まだ人どころか鳥獣も寝静まっている時。二人を見送るのは、診療所の兄妹だけ。そして――。
「あの…… 師匠 せんせい 。一緒に来るんですか」
「当然のことを当然のように訊くんじゃねーよ。見りゃわかるだろう」
 二人から少し離れた場所で、旅装の傭兵が手を振る。イゼットは思わず生返事をした。かたわらを見やると、ルーもふしぎそうに首をかしげている。
 得心がいっていない二人の様子に気づいたのだろう。メフルザードはぶっきらぼうに付け足した。
「心配しなくても、近くまでくっついてくだけだ。この後は決まった仕事がないから、それを探すついでにな」
「そ、そうですか」
 どぎまぎとうなずいた後、イゼットはバリスとベイザを振り返る。きっと思うところの多いであろう兄妹はけれど、常と変わらない様子で手を振った。
「気をつけてね」
「シャラクの土産話、待ってるよ」
 曖昧にうなずくイゼットと、拳をにぎって笑うルーと、黙って片手を挙げたメフルザード。三人はややして診療所に背を向け、うっすらと青みを帯びはじめた空の先へ歩き出した。いつも通り、まるで町内の散策に出かける傭兵を送り出すときのような、二人分の視線に背を押されて。

 恩人でもあり『先生』でもある傭兵がついてくる、となったとき、イゼットは少なからず緊張を覚えた。けれども心のこわばりは、太陽が空の頂点を通り過ぎる頃にはすっかり和らいでしまった。日光を遮る岩陰で平たいパンをかじりながら、イゼットはふしぎな心地で対面の傭兵を見やる。だいたいに陽気で時に飄々としている傭兵は、二人との旅にさっさと馴染んでしまっていた。ルーの運動能力の高さに感心してもいたし、少しだけ手際がよくなったイゼットの狩りの様子をほどほどの距離で見たりもした。その目の裏にある思いがどのようなものか、はっきりとはわからないが、悪い感情でないことだけは確かだ。
「俺の顔に何かついてるか」
「へっ?」
 傭兵の声を聞き、イゼットは目を瞬く。不思議半分、面白半分で首をかしげている男を見やり、慌てて顔の前で手を振った。
「いえ、あの、なんでも……」
「わっかりやすいよなあ、おまえ」
 ごまかしの言葉を押し殺した笑声で遮ったメフルザードは、自分のパンの端っこを口に放り込んだ。そしてそれ以上はなにも言ってこない。赤面したイゼットは黙り込むほかなく、しかたがないので食事に集中することにした。小首をかしげているルーにメフルザードが何やら言っているが、それも聞かないふりをする。わざと顔を背けて荷物の中身を検めていたイゼットは、途中でふっと振り向いた。代り映えのしない景色と見慣れた二人の姿、それしかない世界に言いえぬ違和感を抱く。目を瞬き、少し考え、彼は違和感の正体に思い当たった。けれど、そのとき、図ったようにメフルザードが「どうかしたかー?」声をかけてきた。小さく息をのんだ若者は、笑顔を作ってかぶりを振った。
「いえ、なんでも。……そろそろ出発しましょうか」
 声を大きくして言って、イゼットは荷物片手に立ち上がる。『図った』傭兵に視線をやれば、彼はあっけらかんとした表情で自分の馬の方へ歩いていくところだった。

 乾いた大地を人馬が行く。天を仰げばまっさらな青空の端にひとかけらの白雲が浮いていた。雲を目で追い、意味もなくほほ笑んだイゼットは、顔を正面に戻して、馬の歩調に身をゆだねる。ヘラールの足取りは今日も好調だ。
 今のように休みながら道を進めば、三日ほどでシャラクの手前の町に着く。メフルザードとはそのあたりで別れる予定で、そうなったらいよいよイゼットも腹をくくることになるのだ。
 もう遠いとは言えないところまで来た。その感慨と、今もなお己の足を引っ張る重苦しいものの間でイゼットは足を進める。これからどうなるだろう、もし外界へ戻ってこられたならメフルザードたちになんと言おう、繰り返し考えてきたことをまた考える。そして心のうちで揺れる残り火を消さぬように、消さぬようにと、しまいには思考を打ち切るのだ。
「このあたり、何もありませんねえ」
 後ろからついてきている少女が、感嘆混じりに呟いた。イゼットの隣にいる傭兵がちょっとだけ振り向いて笑う。
「見晴らしがよくていいだろう」
「ボクは見晴らしがいいと不安になります」
「なぜに」
「そういう所に限って、面倒くさい人が張ってたりするじゃないですか」
「……クルク族とはいえお嬢ちゃんの発言とは思えねえなあ」
 声を立てて笑うメフルザードの表情は朗らかだ。二人のやり取りに顔をほころばせたイゼットは、けれど彼が正面を向きなおすと、軽く目を細めた。
 風が首筋をなでていく。そこに、また違和感を抱く。
「気づいてるな?」
 耳朶を叩くささやきは鋭い。イゼットは黙ってうなずいた。歩調は変えない。平然とした顔の裏で、神経を研ぎ澄ます。怪しくない程度に目を動かして横を見ると、傭兵は面倒くさそうに頭をかいていた。
「おまえ、なんてものに目ぇつけられてんだ」
「俺に言われても困りますって」
 むこうが勝手に追いかけてきているのだ。文句を言いたいのは、むしろこちらの方である。メフルザードは軽く顔をゆがめて、足で馬の腹を叩いた。蹄の音が、少しだけ忙しなくなる。
「ルーは」
「とっくに気づいてますよ。クルク族の感覚はあなたの比じゃない」
「そらそーだわな。けど、意外と落ち着いてんな?」
「……相手が誰で、狙いがなんなのか、ルーもおおよそ察しているんでしょう。俺たちに合わせてくれているんです」
 なるほど、とメフルザードは肩をすくめた。
 まったくルーには頭が上がらない。そう思いながらも、イゼットの振る舞いは変わらない。彼女とラヴィを引き離さない程度に前を行き、時折振り返った。
「ルー、平気? 疲れてない?」
「大丈夫ですよ! ボクもラヴィも元気いっぱいです!」
「それはよかった」
 元気すぎる返答に、イゼットは軽く吹き出した。彼女の一声を糧にして己を励ましたイゼットは、前を向きなおし、風を追う。
 拍子を刻む馬蹄の響き。そしてそれは、よくよく聞くと少しずつ早くなっている。三人ともが無言で合わせ、歩調を上げているのだ。
「それじゃあ――」
 イゼットが口を開いたそのとき、空気が鋭く鳴り響いた。同時、彼は手綱を握る手に力をこめ、ヘラールの腹を蹴る。
「――駆けろ!!」
 ふだん穏やかな若者の声は、このときは雷鳴のごとく天を打った。彼の号令に合わせて一気に速度を上げた馬たちは、見通しのいい道を疾駆する。一瞬後に、ラヴィの脚が蹴り上げていった地面に短剣が突き刺さった。一目散に走り抜けていく彼らはそれを見ることはなかったが、ルーだけは音で短剣に気がついた。そして、遅れて響いた人の足音にも。
「数は十……いえ、十五! ヤームルダマージュのあたりにいた人たちです!」
 振り向きもせず襲撃者の正体を見抜いた少女は、前方に向かって叫ぶ。イゼットは足音に負けぬ大声で叫び返した。
「ありがとう! 毒に気をつけて!」
「がってんです!」
 ルーの感覚の鋭さに感心しつつも、驚くことはもうそうそうない。むしろ『このため』に彼女にしんがりを頼んだのだ。
 駆け抜ける彼らの背後から、かすかに怒鳴り声が聞こえてきた。遠い記憶を掻き起す、体の奥底の傷をうずかせる声。忘れるはずもない、あの日を連想させる空気が肌を刺した。
 ひしひしと追手の気配が迫ってくる。ルーがなにも言わないので、危ない状況ではないのだろうが、彼らの執念はアヤ・ルテ聖院でまみえたとき以上の強さがあった。
「厳しいな……」
 イゼットは我知らず呟いていた。彼の小さな声をメフルザードが拾う。
「イゼット。いったん東に逸れるぞ」
「東……? 何かあるんですか?」
「行けばわかる」
 短く言った傭兵は、横顔に意地の悪い笑みをひらめかせた。