第三章 聖教の影6

 これまでのことをかいつまんで話すと、ハヤルは強く顔をしかめた。深く息を吐き出すとやおら立ち上がり、机の横の棚を開いた。振り向いて「酒は飲める?」と尋ねてくる。イゼットはゆっくり首を振り、ルーは「飲んだことないです」と手を挙げる。答えを受けて、ハヤルが取り出してきたのは冷えた果実水の瓶だった。
「新鮮なやつだ。ま、飲めよ」
「……ありがとう」
 ほほ笑んだイゼットは、果実水を注がれたグラスを受け取る。ルーも軽く頭を下げて、グラスを手に取った。
 イゼットが水をちびりと飲む間、穏やかな沈黙が広がる。グラスを置いたとき、ハヤルがようやく口を開いた。
「イゼット、おまえ――はっきり言ってまずいぞ」
 低められた声がイゼットの耳を突く。予想していた中で最悪に近い反応に、彼はとっさな答えを返せなかった。ルーも緊張したふうに肩をすくめている。
「俺はおまえがそういう嘘をつくとは思わない。だからこそ受け止められる。けど……今の聖都の連中は違うだろう」
「やっぱり、派閥争いが起きてるのか」
「ぱっと見わからないけどな」
 重々しくうなずいたハヤルは、そこで現在の聖都の状況を教えてくれた。
 シディカの死後、アイセルの即位によって聖教は落ち着いたかに見えた。しかし実際、聖教上層部で彼女は孤立してしまっている。宗教闘争の時代に弱まった地盤、従士がいないという事実、後ろ盾がないこと、そして彼女自身の強く出られない気性――これに関しては美点でもあるが、弱点でもある――。要素がさまざま重なって、『会議』の者たちの中には新しい聖女を侮り、反発している人も少なくない。ただでさえ闘争以後、聖女の発言力が弱まっている上、アイセルは老人たちの圧力に押されているらしい。
 そこまで聞いたときに、ルーが首をかしげた。
「『会議』……って、なんですか?」
「聖教のいろんなことについて話し合って決める組織だな。誰々を破門にするかしないか、決まり事の内容が時代に合っているかどうか、そういうことをな。あとは、教派同士の争いの仲裁なんかもする」
「へええ。そういうのって、聖女様が決めるものだと思ってました」
「闘争以前はそうだったみたいだ」
 明るく、しかし辛辣さをものぞかせて笑ったハヤルは、グラスを傾けて水を呷った。からのグラスを置くと、改めてイゼットに目を向ける。
「で、だ。正直、猊下のお立場はかなり厳しい。神聖騎士団は大半が猊下の味方だが、恥ずかしながら一枚岩じゃない。だからお前に戻ってきてほしいってのが本音。ただ……月輪の石の件は、どうとも言えん。反発してる連中――闘争の頃の言葉を借りて言えば、『祭司長派』だな――奴らは、そこを徹底的に攻めてくるだろう。猊下の足を引っ張ろうともする。俺たちだけじゃ、とてもじゃないがかばいきれない」
 そこまで一口に言いきって、ハヤルは顔をくしゃっと歪めた。口調からもそこはかとなくやけになっているような気配が感じられる。
「もちろん、努力はするよ」
「わかってる。それだけで、十分以上に助かるよ。ありがとう」
 イゼットはほほ笑んで、それからまた果実水をちびりと飲んだ。それから思わず、ルーの方を見やる。純朴なクルク族の少女は今にも泣きだしそうな顔をしていた。見ている方の表情も自然と曇る。
 色々なことを考えた。考え出した可能性の中で、最悪に近い現実が口を開いて待っている。何も思わないわけがない。己の選択を顧みて、本当に正しかったのだろうかと、自問しさえする。だが、立ち止まるにはまだ早い。希望が潰えたわけではないのだ。
「ハヤル、ひとつ確認したいんだけど……」
「ん、どうした?」
「ファルシードは今どうしてる?」
 思いがけない名前だったのだろう。騎士の青年は、軽く目を見開いた。
「ファル? どうしたんだ、急に」
「いや――」
 苦笑してかぶりを振ったイゼットは、次の瞬間には笑みを消した。場の空気がずっ、と沈む。息を吸い込む音が、かすかに響いた。
「俺の『体質』の手がかりになる資料が、文書管理室にあるかもしれないんだ。月輪の石が関わっているのなら、なおさら」
「……なるほどな」
 ハヤルはうなるような声を上げる。彼は少し悩むそぶりを見せたが、イゼットとルーが辛抱強く待っていると重い口を開いた。
「ファルは元気だよ。それに今でも現役の文書管理人だ。俺たちが聖院にいた頃よりも一級上の資料の閲覧資格を持ってる……らしい。そのへんは、俺にはよくわからないんだが。イゼットはわかるか?」
「ああ。一級上なら、月輪の石や聖教の伝承資料も含まれているはずだ」
「それなら望みはあるかな。あと、文書管理室は基本的に中立の立場を取ってるから、そのへんは心配しなくても大丈夫。ただ、まあ、良くも悪くも中立だからな。あまり従士様に肩入れするような態度はとれないと思っておいた方がいいな」
「ううー……なんだか、ややこしいですねえ」
 ルーがうなって頭を抱える。その様子を見て、男二人は表情をほころばせる。
「そっちはなんとかなりそうだ。ありがとう」
 笑いあいながらイゼットが礼を言うと、騎士の青年はきょとんとした顔で頭をかたむけた。
 イゼット自身は、ハヤルの小さな懸念に対してそれほど心配をしていない。それは、ファルシードという人間を信頼してのことだ。それに、実際どこまで調べられるかはそのときになってから気を揉めばよい。今はなんとかなりそうだと思えるだけでも嬉しかった。
 イゼットは軽く息を吸う。そして果実水の残りを飲み干すと、丁寧にグラスを置いた。ルーもそれにならってか、ぐいぐいと水を飲んでいった。その間に若者は、旧友の顔をまっすぐに見据える。
「色々教えてくれてありがとう、ハヤル」
「こんなもんでいいのか?」
「ああ。あんまり長くここで話し込んでいたら、ハヤルが怪しまれるだろ?」
「まあ……そうだな」
 ハヤルは気まずげに赤毛をかく。イゼットは声を立てて笑った。
 宿の外まで騎士たちに見送ってもらって、イゼットたちは町へ出る。昼食時を少し過ぎたばかりの町は、人の声と熱のこもった空気に満ちていた。食べ物のにおいと、きつめの花の香りと人の汗の臭いとが混ざり合って、独特の芳香が漂ってくる。杯のぶつかる乾いた音と人の笑声がぶつかり合う。視界の端で、色鮮やかな布が揺れた。羽を思わせるそれは帯であった。若者の体を彩る帯は、いたずらっ子のように揺れて人垣の中へ消えてゆく。
 行きすぎる人の流れに逆らうようにして、イゼットとルーは歩く。ご飯はどうしようかとか、補給しなければいけないものは何かとか、たわいもない話を交わす。ただ、その途中にルーがふっと目を曇らせる。
「ルー……? 大丈夫?」
「あっ」
 イゼットが顔をのぞきこんで問うと、ルーは目が覚めたような顔で固まった。
「な、なんでもないです! 大丈夫です!」
 あわあわと顔の前で手を振る少女は、なんでもないという様子ではない。だが、イゼットはあえて深く追求しようとは思わなかった。言いたくないことがあるのはお互い様だ。この旅の中でよくわかったことである。
「そ、そう? ならいいけど、なにかあったら言ってね。この前みたいなことがあったら大変だから」
 この前、とはむろん、ルーがアルトヴィンで体調を崩したときのことだ。本人的にも気まずい話題を持ち出されて、ルーは気まずげに顔をそむけたが、ややして唇を尖らせた。
「それは、イゼットにも言えることですよ」
「うっ。そうだね、反省します」
 図星を突き返されたイゼットは、少し頬をひきつらせた後に、おどけて礼をする。そこでようやくルーの雰囲気が明るくなった。そのことに安堵して、若者は黒い頭を軽くなでたあと、前を向きなおす。
「さて。じゃあ、そのへんの屋台でご飯食べようか」
「あ、はい」
 明るく仕切りなおすイゼットに、ルーが走り寄って応じた。だが、彼女の視線はイゼットの傷ついたような横顔から離れないままであった。