第三章 聖教の影7

「隊長?」
 横からかかった声には、一抹の幼さが含まれている。呼び声に肩を叩かれたハヤルは、無意識のうちに手先が震えるのを感じた。頭の中を横切った稲妻に意識を引っ張り戻された青年は、慌てて振り返る。彼と目を合わせたユタは、怪訝そうに首をかしげた。
「お、おう。どうしたユタ」
「一通り巡回が終わりました。……というご報告を」
「そか。ありがとう。それじゃ、明後日の朝に出発しよう。じゃないと次の演習に間に合わないしな」
「承知しました」
 流れるように一礼したユタは、それから改めて上官にいぶかるような目を向けた。
「ご気分が優れないのでしたら、お休みになられては?」
「へ? いや、大丈夫だけど。どうした」
「どうした、は私の台詞です。隊長が心ここにあらずな様子なので、皆不審がっていますし」
「あー……」
 痛いところを突かれたハヤルは、頬をかく。その反応で彼が何を考えていたのかおおよそ察したのだろう。ユタは、両目に理解の色を浮かべてうなずいた。
「なるほど。ご友人のことを気にしていらっしゃったのですね」
「言うなよ……」
 あっさりと答えを口にした副官に、ハヤルは肩を落とす。それを見てますますユタが頭を傾けた。
「何も無理に隠すことはありませんよ。そんなことをするから上の空になるわけで」
「ぐっ。反論できない」
「私も正直、気になります」
 ユタの面から、表情が剥がれ落ちる。重苦しく呟いた副官をハヤルは驚きをこめて眺めやる。男たちの呼び声と笑声が弾ける横で、二人の間だけが静かだった。
「あの方を見ていると不安になります。すべてを一人で背負って、そして自ら消えていこうとしているのではないかと――柄にもない予感に襲われる」
「ユタ……」
「私ですらそうなのですから、付き合いの長いあなたはなおさらでしょう。あなたも、柄にもない溜め込みはほどほどになさってください」
 吸い込まれるように副官を見ていたハヤルは、最後の言葉に叩き起こされて脱力する。背を丸めたままの格好で、彼をにらみつけた。
「なんだよ、柄にもない溜め込みって」
「なんでしょうね」
 肩をすくめるユタは、珍しくおどけたふうであった。ハヤルは思わず吹き出す。色々とばかばかしくなった。ついでに心が軽くなった気もするが、どうなのだろう。天井を仰いで息を吸ったハヤルは、今も盛んに隊士が出入りしている扉の方に顔を向けた。
「ちっと外の空気吸ってくるわ。すぐ戻る」
「わかりました。お気をつけて」
「大げさだよ」
 生真面目な副官に手を振って、ハヤルはゆったりと歩き出した。
 笑いながらつかみあいをする騎士たちを横目に見ながら、ハヤルは音を立てないように扉を開ける。つかみあいは戯れの範疇だろう。庶民の少年に近い荒々しさを持つ騎士たちだが、在野の傭兵やよその軍人に比べれば行儀のいい方かもしれない。そんなことを取り留めもなく考えた。
 とげとげしい風が吹き抜ける町へ出て、扉を後ろ手で閉めると、にぎやかな音は遥か後ろへ遠ざかる。代わりに遠く、細い笛の が響いてきた。間を埋めるように小鼓が拍子を取っている。聴く者の心を弾ませる旋律に、ハヤルも口もとをほころばせた。
「ハヤルさん!」
 心地よくも夢幻のようであった空間が、唐突に現実味を帯びる。ハヤルの意識を引っ張った少女の声は、彼の斜め前から聞こえた。そちらへ視線をやって、青年は瞠目する。目の覚めるような赤色の衣を薄汚れた外套で隠している、黒髪茶目の娘が息を弾ませ、手を振りながら駆けてきた。
「ルーじゃないか!」
「お時間大丈夫ですか? 仕事中だったら、別のときにするんですけど……」
「気ぃ遣わなくても大丈夫だよ。ちょうど、ほとんどの仕事は終わったところだ。どうした?」
「あの――」
 ルーは口を開きかけて、それからあたりをきょろきょろ見回したかと思えば、口もとに人差し指を当てた。
「本人がいるところではできない話というのもありまして」
 クルク族だという少女は、ささやきの声に茶目っ気を乗せる。その言葉の意味を察したハヤルは、思わず腕を組んで笑ってしまった。要は、イゼットについて話がしたいということだろう。
 笑みをひっこめたハヤルは、ふいに不思議な気分になった。
 今日会ったばかりで、お互いのことなどまるで知らない二人が町の片隅で向かい合っている。二人を繋いでいるのは、たった一人の友人だけ。
 そして互いに互いしか知らない彼の姿を見てきているはずなのだ。
「……あいつ、いいやつだろ」
 するりとこぼれたのは、工夫も飾り気もない言葉。不器用な切り出しを受け止めて、ルーは真摯にうなずいた。
「とてもいい人です。ここに来るまでに、たくさんお世話になりました」
 白い手が、頭を覆うマグナエを愛おしげになでる。それだけでハヤルはおおよその背景に気づき、微笑する。聖院時代の友人は、『天然たらし』に磨きがかかってしまったようだった。
「そうか」
「です。だから、できる限り助けてあげたいと、力になりたいと思うんです。でも……」
 ルーはふいにうつむいて、ゆっくりと首を振った。
「でも、イゼットは、肝心なところを隠している気がするんです」
「肝心なところ?」
「――本当は、すごく怖いと思うんです」
 ひゅうと空気が鳴る。自分自身が息をのんだ音であることを、ハヤルはまるで他人事のように自覚していた。
「自分のやってきたことを全部否定されちゃうのって、すごく怖いです。そんなの聞きたくないし、全部捨てて逃げてしまいたくなるし、イゼットも本当はそういう気持ちを抱えてるんじゃないかって、最近、思うんです。無理やり押し殺しているような、そんな感じがするんです」
 滔々と紡がれる言葉には、おそらくルー自身のことも含まれているのだろう。彼女のことをほとんど知らないハヤルだが、そう感じた。彼女が彼に己を重ねているからこそ、ハヤルでは踏み込めない気持ちの深い部分が見えるのだろう、とも。
 黒に限りなく近い茶色の瞳。その端に、橙色の光の粒が散る。夕日を弾いた眼はしかし、先ほどよりも深く陰った。
「でも、イゼットはそういうことをまったく口に出さないんです。イゼットなりに心配かけないようにしてくれてるんだと思うんですけど、それでも、何もできないのがもどかしくて……」
 言葉を探すように唇を震わせた彼女は、けれど結局そこで言葉を切る。激しくかぶりを振った後、ハヤルに向けてぎこちなくほほ笑んだ。
「す、すみません。なんか、愚痴みたいになっちゃいました」
「いや――君の気持ちは俺もちょっとわかるからな」
「そう、なんですか?」
 頭を傾ける少女に、青年はうなずいてみせる。
「一人で溜め込む節があるのは昔からなんだよ、あいつ。もしかしたら聞いたかもしれないけど、聖院に来る前からあまり自由に物が言える環境じゃなかったみたいだから、それも影響してるのかもな」
 ルーを見返すと、納得したふうにうなずいていた。この様子を見るに、彼の実家のことなどはおおよそ聞いたのだろう。それを少し意外に思いながら、ハヤルは言葉を続けた。
「最初に会ったときから、どっか気負ってる感じのある奴だった。最初は根っこがまじめだからかなーって思ってたんだが、それだけじゃないんじゃないかと思う。本音で話せる相手がいなかったんだ。実際、不安や悲しみを表に出してはいけない、ってな感じで振る舞ってきたみたいだったし、聖院でもそれは求められてた」
 ただでさえ大きなルーの目が、いっぱいに見開かれてハヤルの方に向いている。その目をひたと見すえた。
「だから、今日会ってびっくりしたよ。昔の気負った感じがだいぶん和らいでたから」
「そうなんですか?」
 ひっくり返った声を上げたルーは、その後「昔のイゼットってどれだけだったんだろう……」と呟いているのを聞いてハヤルは肩をすくめる。なんとも言えなかった。
「たぶん、旅の中でいろんな人に会ったおかげなんじゃないかと思うんだ。当然、ルーも含めてな」
 外の世界は広い。きっとアヤ・ルテ聖院しか知らないハヤルたちには見えないもの、触れられない価値観がたくさんあったはずだ。
「だから、お礼を言わせてくれ、ルー。あいつに寄り添ってくれて、味方してくれてありがとう」
 乾いた風が吹き抜ける。粉っぽいそよ風は、人の声を天の高みへさらっていった。
「――どういたしまして」
 やや間を置いて、ルーが照れ臭そうに呟く。しかしその後で、彼女は小さく拳を握って、自分の胸を軽く叩いた。
「でも、戦いはまだ終わってませんからね。最後の最後までボクはイゼットの味方です」
「はは……頼もしいな。もし俺たちじゃどうにもならないことになったら、そのときは頼むよ」
「はいっ! 任せてください!」
 今日一番の笑顔を咲かせたルーを見て、ハヤルはほっと息を吐く。それから、外套に覆われた肩を軽く叩いた。
「さ、今日は宿に戻るといい。イゼットの奴、待ってるだろ」
「はい。ありがとうございました!」
「こちらこそ」
 お互いに礼を取った後、ルーが先に踵を返した。走り去る少女の背に、ハヤルはほほ笑みながら手を振る。そうしていると、脳裏に先ほどの彼女の声がこだました。
 揺るぎない言葉の裏には、まぶしいほどの自信がのぞいていた。彼女の気性もあるのだろうが、それ以上に、最強の狩猟民族の力がその裏打ちとなっているのだろう。安堵と恐怖を同時に抱きながらも、それらから目をそらして、彼は少女を見送った。