第四章 崩壊の先へ13

 侵入者あり。その一報は、夜の聖教本部を揺るがした。神聖騎士団の者たちはこぞって出動し、たちまち各所に緊張が走る。多くの者が六年前のアヤ・ルテ聖院襲撃事件を思い出し、同じ悲劇を繰り返すまいと気を引き締めていた。
一方、奇妙に冷静な人々もいる。文書管理室の青年ファルシードは、その一人であった。部屋の扉を強く叩いた先輩の警告を、彼はいつもの表情で聞いている。
「君も急いで移動してくれ。今のところ死者は出ていないが、賊は相当に強いらしい」
「わかりました。今行きます」
 焦ったような声を出しつつも、眉一つ動かさない。彼は机上に散らばしていた紙を手早くまとめ、十枚ごとに紐でくくった。動き回りながらざっと中身に目を通し、最後にひとつうなずく。
「これだけあれば、十分か」
 呟いて、小さくまとめた荷物の奥に紙束を滑りこませた彼は、部屋を飛び出す。早足で同僚に追いついた。その間にも青年の頭脳は冷静な思考を続けている。
 侵入者はペルグ人らしい。予想より遥かに早い動きだしと、その情報を、ファルシードは意外に思っていた。『彼女』が聖都の中で協力者を得るという展開は想定外だ。もちろん、いい意味で。
「さて、どう転がるかな」
 ひとりごちたファルシードは、避難する人の集団の中で一人だけ、違う場所を見ていた。

 イゼットは、もともと鍛えていただけに体格がいい。身長ひとつとっても、アンダより頭一、二個ほどは高い。であるから――狭い通風孔を通り抜けるのは至難の業であった。それでも器用に体をひねりながらついていけたのは、メフルザードと旅をしていた頃に、似た経験をしていたからだ。そのとき通ったのは、かつて西から流れてきた人々が弾圧から逃れるために掘った地下通路だった。身体的にも精神的にも、息がつまりそうだったのを覚えている。そして今も、それに近い感覚があった。
 風に乗って、音が聞こえる。怒声、ときどき金属音。前方を行くアンダが、小さく舌打ちした。
「やりすぎてないだろうな、あいつ」
 デミルのことだろう。なんとも言えず、イゼットは黙したまま匍匐前進を続けた。
 少しして、光が見える。橙色の光。どこかの篝火か、松明か、 行灯 ランプ だ。少なくとも太陽の光ではなかった。ようやっと、時を知ったイゼットは、軽く目を細めて手足を進める。やがて、アンダが止まった。彼の顔に光と影が同時に落ちて、格子模様が浮かび上がる。上を向いたアンダは右手を開くと、それを勢いよく頭上へ突いた。派手な音を立てて、石でできたふたが飛んだ。
 アンダはしばし上をにらんだ後に「よし」と呟いた。蛇のように体をくねらせ、孔の外へ出ていく。イゼットがそこへ追いつくと、彼は無言で手を出してきた。イゼットは目礼してその手を取り、なんとか体を外へひねり出した。
 暗い空が頭上に広がる。月の姿はない。雲間に小さく星が見える。騒々しい、夜だった。
 夜気を胸いっぱいに取り込んでから、イゼットはあたりを見回す。
「ここは……」
 遠くにシャラクの町並みが広がる。そして眼下いっぱいに映って世界を圧迫する、大礼拝堂の屋根。ここはどうやら、聖教本部の屋上にあたる部分らしかった。
「ええ……どうやって下るんだ、これ」
「聖教本部の構造は知らないのか」
「本部にはほとんど来たことがないんだ。あくまでも聖院で過ごしてたから」
 一瞥とともにアンダに問われ、イゼットは頭をかく。役に立てなくてごめん、と言うと、少年は顔をそらして「別に」と答えた。
「脱出に使えるところは、昼間だいたい調べた。問題ない」
「そ、そう」
 どうやって、とは訊けない。それに、先ほど拘留場に現れたときと、やったことはそう変わるまい。イゼットは口をつぐんで、視線だけであたりをうかがった。人の姿も気配もない。騒がしいのは、下の方だ。
「こっち」
 少年が唐突に歩き出した。イゼットも静かに後を追う。彼が見下ろしたのは幅の狭い階段だった。だいぶ古いが、崩れ落ちる気配はない。アンダが足を踏み出しかけたとき、下の方から人影が突き出てきた。
 二人して身構える。しかし、一拍おいてアンダが構えを解いた。
「よう、アンダ。首尾はどうだ」
「驚かすな」
 反対側から階段を上ってきたのは、デミルだった。かつて見たときと同じ格好の彼は、不機嫌な顔のアンダに笑いかけ、額を小突く。そして、彼の背後――つまりイゼットの方に目をやると、その笑みを意地悪なものに変えた。
「よう、こんばんは。従士殿」
「……どうも。もしかして、ルーに聞きましたか?」
「いいや」
 デミルは階段を上りきると、アンダのしかめっ面をさらりと流し、イゼットの前に立った。思いがけぬ返答に首をかしげる彼へ、彼は細めた目を向けた。
「覚えておくといい。ペルグ人は、巫女姫セリンのことに詳しいんだ」
 母の名を出され、イゼットの中でなにかが動く。しかし彼はそれを無視して、苦い笑みを作った。
「なるほど、そういうことですか。ウリグバヤットで話したときから、俺が従士だと気づいていたんですね」
「その通り。さすがに話が早くて助かるな」
 からりと笑ったデミルは、左腕を動かす。よく見ると、左手に槍が握られていた。イゼットの槍だ。拘留場に行く前に取り上げられたはずだが、混乱に乗じて回収してくれたらしい。
 礼を取るべく手を上げかけたイゼットは、しかし、デミルの次の言葉で動きを止めた。
「さーてと、イゼット……抵抗するなよ?」
「えっ?」
 声が重なった。イゼットと、アンダだ。デミルはその声に答えることなく、笑みを深めて、右腕を突き出した。
 呆気にとられていたイゼットはその動きに反応できなかった。みぞおちに衝撃が走る。痛みより先に、鉛玉がぶつかったような重みがやってきた。目の前が一瞬暗くなり、世界が回転する。何が起きたかわからない。
 傾いた体を、太い腕が受け止める。昔似たようなことがあったな、とぼんやり思った。
「おい、何してるんだ馬鹿」
「体裁を繕ってんだよ。この方が、従士殿に瑕がつかないだろ? その代わり、俺らが大悪党になるけどな!」
「おまえな……」
 二人の声が遠ざかる。イゼット自身、何してるんだ、と問いたかった。しかし、瞼が落ちかかってくるのに抗えない。抗し切れぬまま、彼の意識は暗転した。

 掲げられた火が闇を破って輝く。遠くで響き、少しずつ近づいてくる足音と怒号。それに真っ先に気がついたのは、アンダだった。彼は、何もないように見える闇を振り仰いで舌打ちすると、傭兵の長身を肘で小突く。
「さっさと逃げるぞ。しょうがないから」
「おっと、そーだな」
 気安く応じたデミルは、ぐったりしたままのイゼットをなんと肩から担ぎあげて走り出した。陽気な歌を口ずさんでいる。ため息をつきたそうな表情で、アンダが横に続いた。先ほど下りようとしていた階段を二、三段飛ばしで駆け下りて、その先の細い通路を行く。本来は事務方の人間や清掃中の祭司見習いが使うのであろう、本部の壁際を走る裏道だった。
「ルーは?」
「下で逃げてもらってる」
 周囲をうかがいながら、アンダが問うて、デミルがそれに短く返す。暴れるだけ暴れたので別の方法で騎士をかく乱する、という彼の戦法らしい。面が割れている奴に陽動をやらせるとは、薄情なのか大胆なのか。そんなことをアンダは思ったが、口には出さなかった。通路を下へ下へと進む途中、狩人の鋭敏な耳が、かすかな音を拾う。
「前から来る」
「おおっと、騎士様も大胆に来るねえ」
「おまえに言われたくはないと思うけど」
 言いながら、アンダは軽快に前へ踏み出した。
 神聖騎士と愉快な悪党が鉢合わせたのは、それから四半刻も経たぬ頃。ちょうど通路を抜けた先での邂逅だった。
「いました、侵入者です!」
 若手の騎士が上官に向かい、声を張り上げる。幸か不幸か、侵入者を見つけたのは第三小隊の面子であった。もちろん、デミルとアンダの知るところではないが。
 ハヤルもたまたまそこにいた。副官と数名の部下を別の場所へ走らせたばかりである。明らかに見慣れぬ風情の二人を見つけた彼は、間の悪さに舌打ちしつつも、即座に剣を抜く。しかし、明かりの下に二人の姿が浮かび上がると、目をみはった。
「どういう――」
「こんばんは、神聖騎士団の諸君。こちら、悪党ご一行だ」
 この戦争屋は『悪党』という響きがお気に召したらしい。清々しいほどの笑顔を見せる男を横目で見やったアンダは、すぐに視線をそらし、騎士たちの前で仁王立ちする。
「クルク族? けど、ルーじゃねえな、どうも」
 ハヤルが苦み半分安堵半分で呟くのを、アンダだけが拾っていた。こいつは 白い娘 ルシャーティ を知っているのか、と意外に思ったが、もちろんそれは言わなかった。代わりに、いつもの仏頂面を貼り付けたまま騎士たちをにらみつける。
「死にたくなければそこをどけ」
 覚えたてのイェルセリア語で放った、静かな威嚇。騎士たちはそれに色めき立った。隊長だけが、奇妙に落ち着いていた。しかし、剣は下ろされない。
「悪いがそれはできない。後ろの『彼』を返してもらうまでは」
 鳶色の瞳がデミルを――彼が担いでいるイゼットをとらえる。一応隠したつもりだったが、デミルの背が高いから、ばっちり見えていたらしい。苦々しさはあったが、アンダは表情を一切変えなかった。
「そうか」
 うなずいて、一言もらした次の時、彼は石畳を蹴って飛び出していた。助走をつけ、体を反転させて鋭い蹴りを放つ。ハヤルは寸前で上半身をひねって避けたが、唐突な一撃は彼の頬をかすめた。証拠に、ほどなくして左の頬が腫れはじめる。ハヤルの方はそれに気づいて戦慄する。しかし、彼が警告の声を上げる前に、背後にいた部下たちが踏み出した。アンダは無感情に彼らを観察すると、つま先だけで地面を叩き、軽やかに立ち位置を変えた。そうかと思えば飛びかかってきた騎士たちを、一発の回し蹴りと薙いだ左腕だけで吹き飛ばした。あるいは、なぎ倒した。彼のまわりを突風が包む。それが終わった頃には、ほとんどの騎士が動けなくなっていた。
「手加減はしてやった。けど、いつまでもそれが続くと思うなよ」
 冷たい一言を放った彼はしかし、直後に左手を横合いへ突き出す。暗がりから飛び出した若い騎士が、したたかに胸をどつかれて吹き飛ばされた。そのまま体をひねって、今度は左足を闇に向けて突いた。銀色の光が、アンダに到達する前に止まる。
「やるな。この状況で『おれたち』に剣を向けてきたのは、あんたが初めてだ」
 惨状と夜の中でもなお強い騎士の目を見て、戦士は笑う。
 一方、剣を突き出したハヤルは、武器も盾も持たぬ人間にそれを止められたことに唖然とした。今しがた、腕に走った痺れと衝撃を思い出してぞっとする。昨日ルーともめたとき、実は相当に手加減されていたのでは、と今さらながらに考えた。
 緊迫した戦場に、場違いな拍手が響く。ため息をこらえたアンダと、もはやどうしていいかわからないハヤルは、揃ってそちらを見やった。戦争屋のデミルがぶきみなほどに陽気な笑みを振りまく。
「いやあ、おまえは相変わらず容赦がないな」
「……よく言う」
 アンダはぼそっと吐き捨てた。彼が本気を出したときの惨状を知ったうえで、こんなことを言うのだから、あきれたものである。そう思っていたアンダだったが、ふと表情を変えた。思いがけず、デミルがまじめな顔をしていることに気づいたからだ。
「だがねえ、俺の推測だが、そいつは殺さない方がいい。下手をすれば、今度こそ坊ちゃんの心をぶっ壊しちまうぜ」
「は?」
 アンダは思わずとげとげしい声を上げた。そしてその声は、そばの騎士とまったく同じ質のものだった。混乱して目を点にしているハヤルは、剣をだらりと下げて二人を見ている。
「別におれは、そいつがどうなろうと知ったことじゃないけどな。どちらかというと困るのはおまえだろ」
「そんなこと言って、アンダくんも嫌なんだろ? じゃなきゃ俺についてこないもんな」
 飄々と切り返されて、アンダは押し黙る。そのまま、呆然自失しているハヤルをにらんだ。彼はそこで我に返ったらしく、ふいに神妙な表情になって、そして姿勢を正した。
「ちょっと待て。……おまえらそもそも、何が目的だ」
「さあねえ?」
 デミルは片手をあげてひらひらと振る。その手をそのまま、青年騎士に突き付けた。
「俺が言えるのはただ一つ。お友達が大切なら、ここは引いた方がお互いのためだ、ってことだけさ」
 ハヤルは剣を収めぬまま、黙して二人をにらみつけた。対峙する二人も動かなかった。ただ直後、空気の動く音を聞き、アンダが臨戦態勢に入った。
「侵入者がいたぞ!」
 よくとおる青年の声が夜を打つ。それが完全に消えるより早く、アンダは飛び出していた。頭上から叩きつけられた刃をかわし、続けて払われた足を後ろに跳んで避けると、そのまま空中で半回転し、石畳に左手をついて着地する。体勢を立て直したところで、再び声が響いた。
「南東の方に逃げた!」
 そう、口早に続けた青年を一瞥し、それからアンダは横から襲ってきた剣を軽々とかわす。ついでに拳ほどの大きさの石を見つけて、手に取った。ハヤルのささやきを彼が聞いたのは、そのときである。
「このままあっちに走れ。一番近い『東口』に着く」
 あっち、と言って彼が指さしたのは、アンダの背後――ちょうどデミルのいる方である。彼の意図を確信したアンダは、しかしにこりともせず、彼に背を向けて走り出した。去り際に、手にした石を一発投げつけて。
「そっちに行くと出口らしい」
「おう、そりゃちょうどいいや。ルーちゃんもそのへんにいるはずだ」
「急げよ」
「はいはい、っと」
 ふざけているのか本気なのか、判然としない会話をしながら、二人は東へ駆けてゆく。
置き土産にアンダが投げつけた石を慌てて避けたハヤルが、「そういうところはルーそっくりだな!」と毒づいたのを、二人は知る由もなかった。