第四章 崩壊の先へ14

 闇が薄らいだ。遠く、明かりが、水底から見る火のように揺れている。木の葉がそよぐのによく似た、ざわめきの 。その間を縫って、何やら剣呑な声が響く。ぼやけてよく聞き取れない、そう思っているうちに、音は少しずつ近づいて――否、鮮明になってきた。
「……あれほど乱暴なことはしないでと言ったのに!」
「おれに言うな。デミルに言え」
「体裁を繕ったっつったろ? 騎士様たちもうまい具合に勘違いしてくれたし」
「とかなんとか言って、ほとんど本気だっただろ」
「デミルさん!!」
 悲鳴じみた声に引っ張られて、イゼットは瞼を持ち上げる。妙に体がだるいが、どうしてこうもだるいのかが思い出せなかった。目を閉じる直前、臓腑を揺らすほどの痛みを感じたのは覚えている。そこまで考えて――腹の底になおもわだかまる鈍痛にうめいた。
「あ、起きた」
 淡白な声が空気を揺さぶる。イゼットが声にいざなわれて顔を動かすと、黒茶の瞳が映りこんだ。彼が心の深層で求めていた相手のものより、ぶしつけで不愛想ではあったが、これはこれで記憶にある。
「……アンダくん?」
 彼の名前が、ひび割れて響く。アンダはにこりともせず、かといって嫌な顔もせず、こちらを見返してきた。
「何」
「えっと、状況の、整理を」
「デミルが不意打ちでおまえをぶんなぐって気絶させた。それをこれまたデミルがかついでここまで来た。ここは聖都のすぐそば、たぶん東部山岳方面」
 これで十分だろう、といわんばかりの投げやりな説明をされた。そして実際、イゼットにはその説明で事足りた。強烈な衝撃による気絶と、寝起きよりもひどい覚醒によって止まっていた思考が、ゆっくりと回り出す。
 よく見れば、視界が妙だ。少し高いところに目線があると気がついた。数年前のことを思い出す。おそらく自分は、いまだ「担がれた」状態なのだろう、とイゼットは見当を付けた。
「……デミルさん、後でいくつか苦情を申し立てても?」
「おお、起きて早々怖い怖い。苦情は後にしてくれ。五件までなら聞くぞ」
 存外近くから返答があった。戦争屋の軽い言葉に、イゼットは思わず顔をしかめた。彼の言動をどこまで信じてよいものかわからないが、一応、自分が不実な真似をした自覚はあるらしい。
「とりあえず下ろしていただけると助かるのですが」
「もう少しこのままでいてくれや。まだ追手が来るかもしれないし」
 最初の要望をいきなり突っぱねられた。しかし、今度は相手の言うことにも一理ある。イゼットは、少し黙って考えた後、「わかりました」とうなるように応じた。さすがに、アンダが憐みの目を向けてきた……気がする。
「イゼット!」
 息をのむ音とともに、下から少女の声がした。イゼットは、ぎくりとしたが、それを表情に出さぬよう努めてその方を見る。『会議』当日以降、会っていなかった少女がそこにいた。心配そうな、けれどそれだけではない表情で彼女はイゼットを見上げてきていた。
「……ルー」
「大丈夫ですか?」
「まあ、なんとか。アンダくんに襲われたときよりはまし」
 意地が悪いかとも思いながら、少し前のことを引き合いに出して答える。すると、ルーはこわばっていた顔をほころばせ、アンダはむっつりと顔をしかめた。
 それきり誰も、なにも言わない。お互いに言いたいことがあるのは確実だが、イゼットもルーも黙ったままでいた。話をするにしても、それは、今ではない。
 少し歩くと、見通しの悪い小道に入った。一本の木の下で、ようやくデミルがイゼットを下ろす気になったらしい。体を確かめつつ両足で地面を踏みしめて立つ。デミルから今度こそ槍を受け取ったイゼットは、そこでやっとルーに向き直った。
「あの、ルー」
 大きな瞳が彼を見る。呼びかけてはみたものの、続ける言葉が出てこない。しばし黙して悩んでから、イゼットはようやっと重い口を開いた。
「――ありがとう」
 大きな両目が、見開かれる。意外そうな彼女の顔から、若者は目を離さない。そのまま、ばらばらになって飛んでいってしまいそうな言葉たちを一生懸命かき集めた。
「『会議』がやっぱり悪い方に転がって……正直ちょっと、捨て鉢になってたんだ。あのまま本部にい続けたら、俺は自分を、俺自身が何をしたいか、どうしたいかっていうのを見失ったままだった気がする。だから、ありがとう」
 たどたどしく続けた後、イゼットはかたわらで黙っている少年に目をやって「アンダくんも、ありがとう」とつないだ。ガネーシュの少年は無言だったが、むっつりしたまま小さくうなずいた。
 ルーは、少し戸惑っているようだ。
「でも、イゼット……もうたぶん、アイセル様のところには……」
「戻れないね。けど、どのみち結果は同じだったよ。拘留場にいても、脱出しても」
 むしろ逃げ出してしまった今ならば、これ以上勢力争いに巻き込まれず、ルーの修行を見届けられる、とも考えられる。褒められたやり方でないことは承知の上で、けれどそれも悪くないとイゼットは思いはじめていた。それに。
「ルーに謝っておかなきゃいけないことも、あるし」
 その呟きを聞いて、きょとんとしたルーに、イゼットはあることを打ち明けた。『会議』前日、ハヤルにこっそり「ルーが無茶をしそうになったら止めてくれ」と頼んだことだ。あるていど想像はしていたかもしれないが、実情を知ったルーは、唇を尖らせて彼をにらんできた。
「つまり、ボクがハヤルさんともめたのは、だいたいイゼットのせいってことですか」
「ぐっ……まあ、そうなる……申し訳ない」
「でも実際、ルーちゃんは無茶しちまったわけだしなあ」
 うなだれたイゼットを見てなにかを思ったのか、それまで黙っていたデミルが、笑いながら割って入った。今度はルーが苦々しい表情で沈黙する。直後、彼女の目がさらに細った。
「……それは、そうですね。それにボクも――デミルさんに依頼をするために、ちょっと、勝手なことを言いました」
「ん? どういうこと?」
 妙なひっかかりをおぼえて、イゼットは首をかしげる。そのとき、視界の端で戦争屋の男がにやりと笑うのを見た。嫌な予感がする。
 間もなく予感は的中した。
「今回の依頼の報酬――『イゼットと手合わせできること』って」
 イゼットは文字通り言葉を失った。覚悟もむなしく吹き飛んで頭がまっ白になる。やや遅れて、低い笑声が耳に届いた。それを聞いてか、アンダが嘆息する。
「いくらデミルとは言え、こんな条件で引き受けるとは思わなかったぞ」
「あながち嘘じゃねえだろ。坊ちゃんがイェルセリアの国法で裁かれて牢屋にぶち込まれたら、戦えなくなっちまうからな」
「だからって……」
 さらに文句を言いたそうにしているアンダを無視して、デミルはイゼットを見る。いまだに目を点にして固まっている彼に、傭兵は気安い笑みを向けてきた。
「安心しろよ。なんでおまえが戦えないかは、ざっくりとだがルーちゃんに聞いた。報酬の支払いは、原因がわかって体が治ってからでいい。お互い万全に近い状態でやりあった方が、楽しいしな!」
 はいともいいえとも言えなかった。イゼットはぎこちない動作でルーに顔を向ける。冗談だと言ってほしかったが、ルーは親に叱られた幼子のごとくうなだれていた。冗談ではないらしい。
「すみません……」
「いや、ほんとに……信じられない、けど……」
 驚いて。呆然として。混乱して。けれど混乱が過ぎ去ると、その後に沸き起こったのは、奇妙なおかしさだ。イゼットは気づけば、小さく吹き出していた。目を丸めているルーに気づきながらもしばらく笑っていた。
 ようやく笑いを収めると、彼はルーの黒い頭をそっとなでた。暴れる前提だったからか、今夜はマグナエをしていない。きょとんとしている彼女に微笑を向ける。取り繕う必要はなかった。
「おあいこ、だね。俺も勝手なことをしちゃったけど、ルーも勝手なことを言っちゃった」
 それまで当惑に染まっていた白い相貌が、やわらかな笑顔に染まってゆくのを、イゼットは確かに見る。
「はい。おあいこ、ですね」
 ルーはそう繰り返すと、目を細め、頬を染めた。
 ぎくしゃくしていた空気が、ようやくほぐれた感じだった。凍てつくような夜であるが、あまり寒さを感じない。イゼットは気を取り直すと、槍を握りなおした。
「そろそろ、もう少し遠くへ行った方がいいかも」
「ですね」
「もうちょっと行ったら無人の小屋がある。そこまで行こうぜ、計画どおりに」
 デミルの言葉にルーがうなずいた。聞けば、その小屋でヘラールとラヴィを待たせてあるらしい。たった一日で、聖教本部の人間に知られることなくそこまでやるとは、恐ろしい人々だ。イゼットは驚嘆を込めて、二人のクルク族と一人のペルグ人をながめた。
 立ち上がりかけた三人を、しかし鋭い息遣いが制した。暗闇をにらんでいるアンダレーダが、ひそめた声を投げかける。
「誰か来る。しかも一人じゃない」
 彼の言葉に、残る人々は顔を見合わせた。追手の可能性が高いものの、断定はできない。しかし、間もなく、ルーが険しい表情で耳をそばだてた。「この足音……」と呟いた後に、イゼットたちをまっすぐに見て、断言する。
「追手ですね。たぶん、騎士が二人と――そうじゃない人が五、六人」
 イゼットは瞠目した。なぜだか、胸がざわつく。
 胸騒ぎの正体を言い当てるかのごとく。闇の中、戦争屋が嘲笑した。
「ごろつきでも雇ったか。聖職者が、ずいぶんと俗っぽいことするじゃねえの」