第二章 ルシャーティの修行3

 さて、どうしたものか。高い岩を見上げて、イゼットは考え込む。
 視線の先にいる青年はこちらを見下ろしたまま一歩も動かない。二人のうちのどちらかが動くのを待っているのだろう。
 槍衾を外しつつ、イゼットはルーを振り返った。
「彼って、やっぱり強いの?」
「強いです。たぶんアンダくんより強いです。殺す気で挑まないと、かえって危ないですね」
「うわあ」
 さっそく嫌になってきた。しかし、自分も修行の「参加者」と認められた以上、引き下がるわけにもいかなくなった。もとより、そんな気は毛頭ない。どう動こうか、とイゼットが呟いたとき、ルーが一歩前に出た。
「とりあえずボクがいきます。『起点』を作りましょう」
「お願い。あと、気をつけてね」
「がってんです。あくまで修行なので殺されることはないと思いますけど……」
 言いながら、ルーは軽く足踏みをして――駆け出した。
 助走はすぐに、本気の走りと跳躍に変わる。一瞬でアンシュの眼前に躍り出たルーは、岩の端に器用に足を乗せて、そのまま前へ出る。突き出された少女の手を、青年の掌底が払いのけた。アンシュが軽やかに飛びのく。ルーはすぐさまそれを追う。繰り出された蹴りをすんでのところでかわしたルーは、隣の岩に降り立った。
 そのとき、ざわりと『歓声』が上がる。閉ざした感覚をすり抜けて聞こえた精霊たちの声にイゼットは肩をすくめたが、すぐに意識を修行に戻した。それぞれ、細い岩に立つルーとアンシュは、未だ動かない。
 十歩分の距離を置いて、同胞の二人は対峙する。次の時、先に動いたのはアンシュだった。詩文の刻まれた板をちらつかせながら岩を蹴り、下へ下へと進む。ルーもすぐさま追随した。岩の側面を蹴りながらアンシュの姿を追いかけ、気合の声とともに腕を突き出したが、それは見事に避けられた。
 目で追えない二人のやりあいを傍観しつつ、イゼットは顔をしかめる。舞うような武闘の合間を縫って、精霊たちがきゃあきゃあと騒いでいるのだ。さすがにうるさくてならない。しかし、彼らのさざめきは、二人の動向を教えてくれる貴重な声でもある。耳をふさぎたい気持ちをこらえて、イゼットは槍を逆さにして持った。
 アンシュが地上に降り立つ。風をはらんだ赤い布がふわりと舞って、すぐ体に吸いついた。それを見て取り、イゼットも動き出す。槍を脇に抱え込み、アンシュとの距離を詰めた。黒に限りなく近い茶色の瞳が、鋭く動く。彼の腕が動く前に、イゼットは手元で槍を滑らせる。円形を描くように、それを振りかざした。逆さの槍がうなりを上げる。アンシュが少し眉をひそめながら飛び下がった。
 石板を狙った石突が空を切る。イゼットは落胆を押し隠して半歩下がった。
「おっかねえお兄さんだな」
「いえ、あなたには及びませんよ」
 油断なく身構えながらもおどけたアンシュに、イゼットも肩をすくめてみせる。その言葉は皮肉でもあるが、本心でもあった。
 一定の距離を保ちながら向き合っていた二人だったが、そこにルーが飛び込んできたことで均衡が崩れる。石板を狙って果敢に距離を詰める彼女だが、なかなか手ごたえがない。最後には繰り出された蹴りを避けるのに精いっぱいだった。アンシュの脚がぶれた瞬間、空気がびりびりと震える。イゼットは、嫌な汗がにじみ出るのを感じた。それでも槍を持ち直すと、細く息を吐く。戦意を感じ取ったらしいアンシュが振り向くと同時、彼は前に飛び出した。
 長年イゼットのそばにあり、今もなお鍛えなおされている頑強な槍。それを前にしても、アンシュはまったくひるまなかった。それどころか、彼の蹴りが槍をかすめるたび、指がしびれるほどの衝撃が使い手に伝わる。
 これでもまだ、本気ではないのだ。相手の一挙手一投足からそれを読んで、イゼットは息をのむ。そして、それでも前を向く。ひるみかけた心に気づかれないように。
 槍を大きく回転させてアンシュとの距離を稼ぐ。同時にその向きを変えた。背後に回していた穂先を前面に出したのだ。鋭い穂先が青年の頬をかすめるが、本人は眉一本動かさない。イゼットが引こうとした槍をあろうことか片手でつかみ、力を込めたのだ。
 漠然とした恐怖が走る。イゼットはほとんど反射で力んでいた。そうしなければ体が浮いていたであろう、ということを悟ったのは、相手の一声が聞こえてからだ。
 鍛えられた肉体と、狩人の眼を間近に見る。
 恐ろしい。逃げ出したい。――だが、臆することはない。
 狙い通りだ。
 少女が叫んだ。アンシュが目を見開いた。彼は、みずからの懐に飛び込んできたルーをただ見ている。腰回りはがら空きで、帯に挟まった石板はルーの視線の先にある。ルーは、迷わずそれめがけて踏み込んだ。しかし、その瞬間にアンシュは体をひねり、槍をつかんでいた手をねじる。今度こそ持ち上げられそうになったイゼットは、とっさに得物を引いた。ヒトの皮膚を裂く感触がわずかに伝わったものの、それに構っている場合ではない。
 再び石板を取り損ねたルーが、悔しげに引き下がる。イゼットも、積極的に動くことはできなかった。
 ただ一人、アンシュだけは楽しそうである。
「おもしろくなってきたじゃないか。俺も少し本気を出すかな」
 血のにじんだ手を振るさまはわんぱく小僧のようでもあるが、目はまったく笑っていない。
 右半身の痛み以上に強烈な畏れをおぼえて、若者は頬をひきつらせた。
 ふっ、とアンシュの姿が消える。
「イゼット、そこから離れてください!」
 目が姿を探す前に、ルーの警告が響く。それに押されるようにして、イゼットは前方に武器と身を投げ出した。背後で風が泣き、背にすさまじい衝撃が走る。槍を引き寄せたイゼットが振り返ると、すぐ後ろにアンシュが立っていた。しかも、右足は上げたままだ。
 若者が跳ね起きるのと、アンシュが右足を突き出すのはほぼ同時だった。避けきれなかった一撃が、イゼットの左腕をかする。骨に響くほどの揺れと痛みを受け止めたはずだが、思ったよりもそれは強くない。
 ふらついて下がったイゼットに代わり、ルーが飛び出す。突き出されたアンシュの拳を払ったルーは、休む間もなく繰り出された蹴りを、身をひねってかわした。その勢いで半回転し、両手を地につけて下半身をまるで棒か何かのように振った。脚が一瞬アンシュの帯をとらえかけたが、アンシュは後退し、身を沈めて避けてしまった。
 軽やかに跳ね起きたルーはしかし、渋面で同郷の青年をにらむ。にらまれた方は、そよ風に吹かれたほどにも動じていない。彼の心に同調しているかのように、精霊も笑っている。
「いいぞ二人とも。このくらいやらなきゃ、精霊も喜ばないだろうからなあ」
 加えてアンシュがそんなことを言うものだから、イゼットは目をみはった。思わずルーの方に視線を投げかける。彼女は彼女で、ぽかんとしていた。
「どういうことですか?」
「あ、そうか。ルーは知らなかったんだっけ」
 瞬きしたアンシュは、岩の群れを指さす。
「ここはもともと、精霊が多い場所なんだ。そのおかげか、クルク族の間では聖地扱いされている場所でな。ここで供物や武闘を捧げて精霊に祈ると強い加護が得られるといわれているんだ。昔はそういう細かい儀式が数多あったらしい。今ではこの『最後の修行』だけだがな」
「それって……『十の奉納』みたいなものですか」
「ああ。昔は『十の奉納』も集落じゃなくてここでやってたそうだよ」
 ルーは息を整えながらも、感心の声を上げている。一方、イゼットは黙って話を聞きながら、ひとり納得していた。だから精霊の声がやたらと聞こえてくるのだ。
 そうとわかってしまえば、ふしぎと精霊たちの騒ぎ声も気にならなくなってくる。また楽しそうにしている彼らの声を聞いたイゼットは――瞠目した。
 思考と言葉が、火花のように頭の奥で弾ける。
 ひらめきは、眩暈がするほどの速さで形を成した。
 速まりそうな呼吸を整えながら、イゼットは口を開く。
「アンシュさんは、精霊を感じることができるんですか?」
「んん? 俺はもともと、そのあたりに鈍いようでね。存在はなんとなくわかるし、よほど強ければ声も聞こえるが、 巫覡シャマンたちほどはっきりとは感じられない」
「……そうですか」
 イゼットは目を細める。それに気づいたのか否か、アンシュは再び朗らかな笑みを消した。
「さあ、おしゃべりはこのあたりにしよう――再開だ」
 言葉が終わるより早く、アンシュの姿がぶれる。それを追おうと、ルーが走り出そうとした。しかし、イゼットは彼女の肩をつかんで制する。
「待って、ルー」
「イゼット? どうしたんですか?」
「ちょっと、思いついたことがあるんだ。聞いてくれる?」
 ルーは意外そうに目を丸くしたが、すぐに悪戯っぽく口の端を持ち上げた。
「わかりました。教えてください」