第二章 ルシャーティの修行4

 ルーは目を細め、空をあおぐ。――いや、空を斬るようにそびえる岩の群れを。
 大きく息を吸う。砂まじりの乾いた空気は決して心地よいものではない。けれども、体の隅々をひっかく空気は、身心を覚醒させてくれるようだった。  姿のない相棒の気配を感じながら、ルーは足もとに転がっている小石をいくつか拾って、袋にねじこんだ。そしてまた、前を向く。
 助走をつけ、跳躍。凸凹の岩を蹴りながら、さらに上へ。頬を打つ風を感じながら、対峙すべき影を求めて駆ける。そして、とらえた。
 アンシュはやはり待っていた。自分から仕掛けないのは修行の決まりか、彼の主義か。どちらであれルーたちの対応は変わらないわけだが、後者であれば強く警戒していた方がいい。
 何度目かの対峙、その瞬間を噛みしめることもなく、ルーは戦士に食らいついた。渾身の一撃を青年は難なく受け止める。すかさず彼の左の拳が動いた。それが、体を穿つ前に、ルーは自分の腕をひねって、彼の右手から逃げ出した。岩を蹴って、背後の岩に飛び移る。猫のように背を丸め、再び前へ跳ぶ。
 二人の取っ組み合いは、決して決着しない。ルーが前へ出ればアンシュはそれをかわすか流すかしてしまい、アンシュが攻勢に転じれば、ルーは必死で守勢に転じる。体格のいい男の攻撃は、致命的な一撃になりかねない。それでも拳が頬をかすり、蹴りが腹を打ったときには、歯を食いしばって耐えるしかなかった。
 やがて武闘の舞台は地上に移る。間断なく繰り出される攻撃に応じつつ、ルーは彼の速さに舌を巻いた。『十の奉納』で戦ったときはここまで速い人だとは感じなかったというのに。やはり儀式ゆえ手加減していたのか。それともルー自身の感度が上がったのか。真相はよくわからないが、実力差があることだけは確かだ。
 ルーは飛びのいて蹴りを避けようとする。だが一瞬遅く、足を払われて転んだ。追撃を食らう前に跳ね起きたものの、足はずきずきと痛んだ。興奮に押し流されて痛覚はすぐに鈍ったが、今度は別の痛みが突き上げる。
 落ちこぼれはしょせん、どこまで行っても落ちこぼれだ。二、三年外界を旅した程度で埋められる溝ではない。

 男の怒号。女の悲鳴。不安そうに顔を見合わせる同年代の少年たち。六年も前の光景は、まるで昨日のことのように思い出せる。最悪の儀式の翌日から、大人たちは怖い顔しかしなかった。子どもたちはルーをあからさまに避けるようになった。そのどちらでもなかったのは家族だけだ。ルーは、そのはざまでなにもできずに立ち尽くすだけの少女であった。
 思い出すだけで、はらわたが煮えくり返る。

 歯を食いしばる。苦情を訴える体を心の喝で黙らせる。
 それだけならば簡単だ。大事なのは、そこからどう動くか。
 策は今ある策だけだ。それも自分の ものではない。
 どうすればいいかなんて、わからない。知るものか。動けばいいだけだ。本能が鳴らす警鐘だけを聞いて、体をひねって、足を動かす。

『いいか、ルー。おまえは未熟かもしれねえ。けど、落ちこぼれやできそこないじゃねえんだよ』
 父の言葉がよみがえる。温かさに感謝をしつつも、ルーは心のうちでやんわりと首を振った。自分はやっぱり、アグニヤ 氏族ジャーナの落ちこぼれだ。
『儀式だってねえ。今のやり方がどこまで正しいのかなんて、わからないのだし』
『それならおれなんてどうなるんだよ。姉ちゃんとの狩りの勝負で一回も勝ったことねえのに』
『やあね。戦と狩猟は別物よ。ついでに言えば、あんた喧嘩でも勝ったことないでしょうに』
『あーっ! それを言うなよな!』
 家族の優しさだけが、あの頃のルーの支えだった。それが決してうわべだけの優しさでなかったことも、今ならわかる。
 けれどもやはり、事実は覆らないのだ。『十の奉納』は失敗した。その年、小さな戦が起きた。出来事の積み重なりは、忘れることはできても消えはしない。
 ルーは氏族の中では、死ぬまで落ちこぼれで、できそこないの役立たずだろう。

 がむしゃらに声を上げて疾駆する。
 食らいつく。攻撃に耐える。そしてまた、飛びつく。
 アンシュが軽く目をみはったことには、気づかなかった。

 それでも、ここで負けるわけにはいかないのだ。
 癒えない傷を負いながら、ルーを救ってくれた人のために。
『君が頼ってくれて、一緒に修行できて――アハルで出会って、良かったと思う』
 だから、勝つ。
 世界は集落だけではないと、気づかせてくれた相棒とともに。

 アンシュと距離をとったルーは、袋に手を伸ばす。小さな石を一息でつかんだ。
 そこから一気に距離を詰めると、にぎりこんだ小石を力いっぱいばらまいた。アンシュは「うおっ」と素っ頓狂な声を上げながらも、顔を腕でかばう。その間も動きに隙はなく、ルーがのばした手は空を切った。
 そして、その瞬間、耳慣れない歌が響く。
 歌に応じるようにして、精霊たちが軽やかな歓声を上げた。

 イゼットは巫覡シャマンとしての修練を積んだことがない。
 しかし、聖女の従士となるにあたり、力の扱い方の基礎は習った。それ以前には、母から精霊との付き合い方を実践まじりで学んだこともある。
 精霊たちに働きかける文言をいくつか教えてくれたのは、母だった。多くの精霊は、歌が好きなのよ――そう言って歌ってくれた歌を幼子はいたく気に入って、必要もないのに口ずさんでしまい、叱られたこともある。
 無意識のうちに積み重ねた行動と知識は、精霊の世界を離れた後も、自分の中に根を張っていた。背の高い岩の陰で、おそらく巫覡シャマンにしかわからぬであろう言葉を歌いながら、イゼットはそのことに安堵した。

 輝く蒼穹の下 果てしない大地の上
 眠りと試練の冬を越え 恵みと歓喜の春が来る
 沈黙の大地を破り 生命は花開く
 死を越えたものたちは 新たな始まりを祝う

 明るい調子の歌を聞きつけた修行場の精霊たちが、赤や橙の光を振りまきながらイゼットのまわりに集まってきた。いつもと違い、感覚を全開にしているので、自分のまわりをくるくると回る彼らの姿をはっきりと見ることができた。
 精霊たちの姿を視界に入れ、イゼットは目線をそのむこう――ルーと取っ組み合いをしている青年へ向ける。語調をわずかに強め、声量をぐんと上げた。

 存分に祝おう 新生の春を
 祈り踊ろう 豊穣の朝に
 清き流れが戻ってきたら
 力の水を蒼き杯とともに捧げよう

 歌に押されるようにして、イゼットのまわりを回っていた精霊たちが群れをつくりはじめる。群れがひとつになると、彼らは一直線に飛んでいった――クルク族の戦士の方へ。

 異質な気配を感じたルーは、とっさにアンシュから距離を取った。聞いていた通りの展開、ほぼ狙った通りの時機ではあるが、精霊を感じることに慣れていないルーは戦慄する。アンシュから離れたのも、半ばは意識してだが、もう半分は反射だった。
 精霊たちは人間の少女の反応など歯牙にもかけず、まっすぐアンシュの方へ飛んでいったようだ。実際に声を聞いたわけではないが、きゃっきゃと笑っているような気がする。
 見れば、アンシュも戸惑いの目を周囲に向けていた。鈍い方だと言っていたが、さすがにここまで強い気配になると感じ取れるらしい。
 歌は続く。精霊の笑い声が大きくなった。今度は声として、ルーの耳にもはっきりと聞こえた。
 アンシュの目が、初めてルーから逸れる。その瞬間、ルーは大きく踏み込んだ。
 飛びつく。しかし、今度は真正面からではない。腰を落とし、下から、少し上へ。
 ルーの突進を足もとに受けたアンシュは、大きくよろけた。その瞬間にルーは起き上がり、胴を相手にぶつける。
 アンシュは後ろへ、ルーは前へ勢いよく倒れた。ルーがすぐさま離れると、アンシュもすぐさま飛び起きた。一拍も置かないうちに体勢を立て直し、拳を構えた青年はしかし、すぐに唖然としてルーを見た。次に、自分の腰まわりに視線を落とし、笑顔をひきつらせる。
 帯と衣の間にあった石板は、ない。
 その石板を左手に収めたルーは、満面の笑みを浮かべた。
りましたよ、アンシュ」
 朗らかな宣言を聞いた青年は、頭をかく。そして、故郷の言葉で呟いた。
「してやられたなあ」