第二章 大地の火6

 風が吹く。呪いのような、悲鳴のような旋律が、若者の耳朶を打つ。槍の穂先を相手に向けているイゼットは、その音をほとんど聞いていなかった。陽の色の瞳に映る黒衣をただ狙う。
 女が大きく前へ飛び出した。長剣は空を滑り、斬る。イゼットは、半歩下がるとほぼ同時に槍を大きく回転させた。半円を描いた槍の柄が、剣先を強く弾く。女は苦々しげに後退すると、すばやく体勢を立て直した。一連の軽やかな動作の直前に放たれた舌打ちは、高らかな金属音にかき消され、イゼットの耳には届かなかった。
 鋭く息を吐いて、イゼットは槍を突く。手ごたえは、なかった。『彼女』の姿はイゼットの視界から消えていた。その事実を認識するより先に、彼は直感した。――下から来る、と。
 身をかがめて間合いを詰めてきた『彼女』の剣が、下から突き出される。それより一瞬早く飛びのいたイゼットは、槍を手の中で滑らせ、反転させて振り抜いた。刃ではなく石突が、よどんだ空気を切り裂いていく。かすかな手ごたえを感じたイゼットは、槍を再び反転させて身構えた。
 黒衣がゆらりと立ち上がる。その姿は、暗く沈んだ空気と相まって、幽鬼のようであった。布の下、白い肌の上を血の雫が滑り落ちる。赤い線が描かれる様を、イゼットはただ見つめていた。自分でも奇妙に思うほど、冷静な心持ちで。
 女が、低く喉を鳴らす。
「やるようになったものだ。もう『子犬ちゃん』とは呼べないな」
「……それはどうも」
「これだから、ガキは――」
 言葉の続きは、形を持たない。血を滴らせたまま、女は得物の切っ先をイゼットに向けてくる。
 一触即発、だが衝突には至らない。危うい均衡を肌で感じ取る。だから、イゼットもすぐには動かなかった。代わりに、緊張の中で口を開く。
「アイセル様を……月輪の石を狙ったのは、あなた方が崇める存在のためですか」
「その通りだ。月輪の石の完全なる宿主が生まれるのを阻止するため、我々はあの聖女を殺そうとした。当時は同化が始まっていなかったからな。宿主を殺すか、石を奪うか――いずれかが達成できればよかった」
「けれど、今はそうもいかない、と」
 得物の感触を意識しつつも、イゼットは女を見据えている。『彼女』は黒衣の下で口の端を持ち上げた。明確な言葉はない。だがその態度は、確かにイゼットの言葉を肯定していた。
 月輪の石は『浄化の月』の器に過ぎない。その事実を、彼らは知っているのだろうか。――おそらく、答えは否だろう。イゼットたちですら、シャハーブやフーリに出会わなければ知れなかったことだ。『反逆者』と呼ばれる天上人アセマーニーたちが人間に情報を渡すとも思えない。
 仮にその事実を知ったとして、彼らの行動は変わっただろうか。そんな「もしも」も、イゼットには想像しがたい。黒衣の集団の行動の根っこにあるのは、あくまでも反逆者への信仰心だ。ロクサーナ聖教を嫌っていることに変わりはないし、月輪の石が呪物と関係するものであるという事実は揺るがない。どうあっても最後には、アイセルやイゼットたちに刃を向けてくることとなっただろう。――今、このときのように。
 だからイゼットは、語らないことを選んだ。今さら月輪の石の真実を知ったところで、彼らの心は翻らない。イゼットやルーにとっても、彼らはすっかり敵となってしまった。現在に残された、できることはひとつだけ。『彼女』の殺意、敵意を、誠意をもって受け止めること。
 相手がどう考えていたかはわからない。ただ、黒衣に包まれたその空気が再び鋭いものに変わったことは確かだ。イゼットもまた、心を静寂の中に沈めて槍を構える。
 また、風が吹く。よどみが揺らぎ、互いの姿を数秒だけ覆い隠した。暗紫色に隠された互いの姿が再び見えた、その瞬間――彼らは武器を手に、勢いよく前へ出た。獣のごとき咆哮が互いの口からほとばしり、靄を突き破って響く。
 剣と槍は、幾度もぶつかり合い、そのたびに激しい金属音を散らした。
 何度目かの打ち合いの後、またイゼットは黒衣を見失う。彼はすぐさま全方位に感覚を飛ばした。――斜め右方向に、わずかな風の流れ。その方に槍を振り抜くと、刃が柄にぶつかった。舌打ちする女の方へ胴体を向けると、イゼットは得物を短く持って刺突する。女はとっさに一撃を受け止めたが受け止めきれず、槍の穂先は黒衣を裂いた。細かい血のしぶきが勢いよく飛び散って、無彩色の大気をわずかに赤く染め上げる。決して浅くない傷を負ってなお、彼女は止まらなかった。眉ひとつ動かさず、軽やかに後退すると、再び刃を若者に向ける。イゼットも、静かに槍を構えなおした。
 終わりの見えない武力の応酬。それが不思議と、イゼットには心地よかった。わずかに速まる呼吸と動悸を感じた彼は、我知らずひとかけらの笑みをこぼす。
 こんなふうに武器を振り回したのはいつぶりだろうか。こんなふうに戦ったのは――
 自分はどこかおかしくなってしまったのだろうか。そんな思いが、イゼットの脳裏をかすめる。聖院から離れて、野の世界に触れていくうち、とんでもない野蛮人になってしまったかのような感覚を覚える。実際、父に知られたら罵倒されそうだ。母は――今頃、魂の庭園で卒倒しているかもしれない。
 罪悪感がこみあげる。しかしそれは、わずかなものだ。どちらかというと、これでいい、という安堵が、イゼットの中にはあった。この時間が心地よいのは真実で、それが今の彼なのだから。
 どちらのものともつかぬ声が、戦場に響き渡る。かたい地面が悲鳴と砂粒を舞い上げる。不明瞭な視界の中、一度大きく距離を取った二人が、向かい合った。まわりで積み重ねられる地獄など、存在しないかのような静寂の中、互いの呼吸を感じ取った二人は、ほぼ同時に地面を蹴る。
 それはおそらく、最後の衝突。策略も、詭計もない。純粋な力のぶつかり合いだ。
 イゼットの耳にはなにも聞こえなかった。穂先が『彼女』に向かうさまが、妙にゆっくり見えていた。
 脇腹が熱くなる。剣がかすったらしい、と認識した瞬間、イゼットは槍を振り上げ、弾むように足を運び、身をひねり――槍を、振り下ろしていた。
 すさまじい衝撃が手指に走る。生ぬるいものが、顔にかかったところで、イゼットは我に返った。
 手に赤黒いものがこびりついている。それが自分の血でないことは、すぐにわかった。イゼットは、足もとに視線を落とす。
 黒衣の女が、倒れていた。彼女は獣のようにうめきながら、うつぶせの状態だった体をわずかに回転させる。だが、まともに動けたのは、そこまでのようだった。ゆっくりと、命の気配が失われていく。精霊たちが遠くで悲しげな声を上げた。
 イゼットは、己の得物を持ち上げた。穂先は虚空を向いている。だが、柄に点々と血がこびりついていた。それを見て、彼は、今しがた起きたことを理解した。
「なんて顔をしているのか」
 かすれた笑い声と言葉が、下から聞こえる。イゼットは、息をのんだ。女の黒い被きが外れて、初めて顔があらわになっていた。長い黒髪と、きれいな孤を描く眉、そして今やうつろな、大きい瞳。恩人の妹を彷彿とさせる鮮烈な相貌の『彼女』は、その表面に嘲笑を浮かべていた。
「腕を上げても、性根は変わらんなあ。そんなざまでは、聖女の従士などやっていられない」
 明らかな挑発は、かすれて、弱々しく響く。イゼットはなにも答えなかった。答えられなかった。
『彼女』は、イゼットに向かって手を伸ばす。それは、彼の頬に触れる前に、震えて力を失った。
「私も、おまえも、おなじだ。いうなれば、最も穢れた聖職者だからな。――はは、ざまあみろ」
 言葉の刃を向けた先は、聖女の従士だったのか、彼女自身だったのか。
 イゼットにはわからなかった。わかったのは、それが『彼女』の最期の言葉である、ということだけだ。
 手が、落ちる。黒衣の下の肉体に、もう魂はなかった。
 精霊たちの声が聞こえる。生き物の体から抜けた魂を迎える、彼らの声が。
 イゼットは耳をふさぎたくなった。けれど、できなかった。
 脇腹の痛みが強くなる。頭がくらくらして、一瞬、目の前が真っ暗になる。なすすべなく膝をついた彼は、目の前にある『彼女』の躰を、ただ見ていた。
 そこには何の感情もない。七年前に全身を焼いた使命感と怒りが、幻だったかのようだ。
 うずくまる若者を、ごうごうと鳴る風と、暗い靄が包みこむ。地上世界での役目を終えた精霊たちの気配は、とうにその場から消えていた。天にあるのは、大気と静寂だけだ。
 ――こうして、またひとつ、荒野に地獄が生まれた。