第二章 大地の火7

 ルーが戦場の異変に気づいたのは、大地の火アータシェ・ザマーンのナイフ使いを二人ほど伸したときだった。彼らとの衝突が始まってから半刻も経っていないが、周囲の怒号や立ち込める鉄錆のにおいのおかげで、鼻も耳もすっかり麻痺してしまっている。それでも、ずっと気を張っているおかげで、ルーはわずかな変化を敏感に察知した。
 けばけばしい黒衣をまとう者たち。その一部が、奇妙にざわついている。あれは、イゼットがいるはずの方角だ。目を細めたルーは、体を勢いよく翻して駆け出す。彼女の動きに気づいた黒衣の者たちが、三人ほど追いすがってきた。が、彼らはまばたきほどの間に、クルク族の強靭な脚の餌食となった。
 黒衣の人々は動揺したようだった。それでもなお、ルーの前に立ちふさがる。彼らの強烈な敵対心と『反逆者』に対する献身は、何一つ報われなかった。ルーが地を蹴るその前に、風が鋭く鳴って、眼前の人々が倒れ伏す。恨みのこもった悲鳴の上を、陽気な口笛が通り過ぎた。
「シャハーブさん!」
「やあ、ルー。調子はどうかね」
「まずまずですね」
 悠々と現れた旅装の青年に、少女は険しい声を返す。シャハーブも、軽薄な笑みをすぐに消して、ルーが行こうとしている方へ視線を投げかける。その動きに気がついて、ルーは彼の方へ身を乗り出した。
「シャハーブさん。あっちで何があったかわかりますか?」
「いや、俺も今から確かめにいこうと思っていたところだ。だが……何かしら動きがあったことは間違いないな」
「イゼット、大丈夫でしょうか」
 クルク族の少女は、太い眉を心細げに下げる。シャハーブは、意味のない慰めを口にすることはしなかったが、ことさらに不安を煽るようなことも言わなかった。
「『浄化の月』の力は、動いていない。だから坊ちゃんは無事だろう。ただ、ここからでは詳しい状況がわからんな。百聞は一見に如かず、とも言うし、とにかく行ってみよう」
「――はい!」
 ルーは、安堵の表情を浮かべ、すぐにそれを引き締めた。暗黒の靄さえ払えそうな返事をし、青年と並んで駆け出す。
 靄のはざまを駆け抜け、人の包囲網を突破して、二人はイゼットの姿を探す。――果たして、目に飛びこんできた光景に、彼らは言葉を失った。

 イゼットが呆然自失の状態にあった時間は、さほど長くなかった。けれど、本人は果てのない暗闇の中を揺蕩っているような感覚に陥っていた。ぼんやりとした意識が現実に引き戻されたのは、なじみ深い声と、『天上人に似た力』を拾ったためである。
「ルー、シャハーブさん……」
 振り向いて、呼びかけようとした。けれど、喉から出た声は思った以上にかすれていた。体も、激痛のせいで思うように動かせない。イゼットがその場に崩れ落ちたところへ、ちょうどクルク族の少女が駆けよってきた。白い手が肩に触れる。その感覚が、妙に遠かった。
「イゼット! その怪我――」
「だい、じょうぶ。大した傷じゃない」
「これのどこが『大した傷じゃない』んですか」
 負傷のせいだろうか。相棒の明るい声が、なぜか耳に障る。同時に、その音が少し震えていることに気づいて、イゼットは緩慢に顔を上げた。こちらを見下ろす黒茶の瞳が潤んでいる。ルーは眉を吊り上げ、口の端にぎゅっと力をこめていた。怒っているようにも、泣き出しそうなのを堪えているようにも映る。
 彼女の表情を認めて、初めてイゼットは己の傷を直視した。脇腹のあたりは、思っていたよりも赤く染まっている。傷口は端から乾きかけているが、血はまだ止まりそうになかった。このまま放っておけば、出血多量で命を落としかねない。
 これは、ルーも怒るわけだ。口の端から、乾いた笑声がこぼれた。
「……イゼットは、『浄化の月』の宿主だ。俺ほどではないが、常人の枠からはちとはみ出ている。その力があるから、まあ、簡単には死なんだろう」
 イゼットが知っているよりやや神妙な声が、彼とルーの肩を軽く叩いた。二人は揃って顔を上げ、腕組みしている青年を見つめる。彼はにやりと笑った後、すらりとした人差し指をイゼットに向けた。
「ただ、早く止血した方がいいことに変わりはない。隠れられそうな場所を探すか」
「隠れられそうな場所って……そう都合よくありますかね? あの人たち、まだ追いかけてくる気満々みたいですよ」
 ルーが、来た道を振り返る。けばけばしい黒衣は今のところ見えないが、怒号はかすかに聞こえてきた。しかしシャハーブは、少女の不安を払いのけるかのように、ひらりと手を振る。
「あの精霊研究者と合流すればいい。隠れ場所なら、彼が一番把握しているだろう。連中の足止めは俺がやる」
「シャハーブさんが? ありがたいですけど、危なくないですか?」
「問題ない。時間稼ぎなら、いくらでもやりようがある。それに、まとめ役が死んだとわかれば、必ず動揺が広がるだろう。そうなれば、少しは連中の動きも鈍るさ」
 シャハーブは、イゼットのかたわらにある死者の躰を一瞥する。その視線にはわずかの感情もこもっていなかった。おそらく、最初から気づいていたのだろう。怒りも褒めもしないのは、気遣いゆえか。それとも、そんなものは無駄だと知っているからか。とにかく彼は、『彼女』との戦いのことには触れず、死体からもすぐに視線を外した。
 ルーは、シャハーブとは対照的に、息をのんだ。しかし、イゼットに問いただすようなことはしなかった。
「そういうことなら、まずはカヤハンさんと合流しましょう。……あ、イゼット、動いて大丈夫ですか?」
 ことさらに明るい声で切り出したルーは、再びイゼットの肩に手を添える。今度は力強く。
 少女の問いに、イゼットは小さくうなずいた。
「うん。多少なら」
「よかったです。それじゃあしゃきしゃき行きましょう」
「面倒かけるね」
「今さらですよ。それに、『おあいこ』です」
 ルーが何を指してそう言ったのか、イゼットにはよくわからない。だが、そこに確かな思いやりを感じ取って、ほほ笑んだ。
 機嫌よく武器を構えるシャハーブに後を託し、二人は暗雲渦巻く荒野を進む。何度か意識が飛びかけたイゼットだったが、相棒の声掛けを支えに、足を前に進めた。
『私も、おまえも、おなじだ。いうなれば、最も穢れた聖職者だからな』
 女の声が、何度も頭の中で嗤う。
 それが幻聴か呪いかは、判然としなかった。

 幸い、カヤハンとはすぐに合流できた。彼の方からイゼットたちを見つけて声をかけてきたのだ。彼なりに動き回って戦場の動きを把握していたらしい。
 ひとまず、一番近くの岩陰で傷の応急処置をしてもらった。カヤハンは「よくこれで生きてるねえ」と、いつもののんびりした声で感嘆していた。
 よどみのただ中とはいえ、一息ついたからだろうか。こびりつくような睡魔に襲われたイゼットは、落ちかかった瞼を強引に持ち上げる。それに気づいたらしいカヤハンが、力の抜けた笑みを向けてきた。
「疲れたなら少し寝ていればいいよ。周囲の様子は、俺と彼女で見ているから」
 カヤハンに手で示されたルーは、両目を爛々と輝かせてうなずいた。でも、と、イゼットは視線をさまよわせる。
「浄化、しないといけないし……」
「詳しいことは知らないけど、それは君がやるんでしょう? なら、君が満身創痍じゃだめじゃないか」
「それは……」
「すぐに動ける状況でもないし、今のうちに休んでおくのがいいと思うよ」
 やんわりと正論を向けられては、どうしようもない。イゼットは、意識があるかないか、という状態でうなずくと、ちょうどやってきた眠気の波に身をゆだねた。
 ――そこから先、時間の感覚がなかった。目が覚めたのは、シャハーブの声とその変わった気配を拾ったからだ。目を開けた拍子に、当のシャハーブと視線がかち合う。彼もこちらに気づいたらしく、悪戯っぽい笑みを向けてきた。
「やあ。お目覚めか、坊ちゃん」
「……はい。すみません」
「そんなに長い間のことでもなかったし、構わんさ」
 軽い調子で言って、青年は伸びをする。目立った外傷がないところを見ると、上手く立ち回ったらしい。
 イゼットは、ルーとカヤハンにも改めて声をかけた。カヤハンはいつもどおりのんびりと、ルーは嬉しそうに返してくれる。そのやり取りが途切れたところで、傍観していたシャハーブが口を開いた。
「さて。それじゃあ、仕事をしに行くとしようか」
「あの黒服たちは、もう抑えたのかい?」
「完全に、とはいえないがな。勢いはかなり削がれたようだった。俺たちが上手く立ち回れば、『浄化』はできそうだ」
 男たちのやり取りを聞きながら、イゼットは慎重に立ち上がる。驚いたことに、脇腹の傷はほとんどふさがっていた。ひとまず、動くのに支障はなさそうだ。失った血が急に増えるわけではないので、油断は禁物だが。
「動けるか?」
 彼の思考を読んだかのような声がかかる。腕組みしたシャハーブは、まっすぐイゼットの方を見ていた。イゼットも、その視線を受け止めて、静かにうなずく。青年は、「ようし」と笑うと、得意げな顔で手を叩いた。それが、出発の合図だった。