第三章 異端者たちの聖戦・3

 大国との国境へ続くなだらかな道は、荒々しく削られた岩がむき出しになっている。武骨な大地を乾いた風がなでて、時折砂礫を巻き上げた。岩の隙間や道の隅に生える細い草は、彩りを添えると同時に、草食動物たちの貴重な食べ物にもなっている。それを求める小さな動物たちが時々集まってくるはずなのだが、この日に限っては何も姿を見せなかった。彼らの安全を脅かすものが近づいていることを察知していたからである。
 道を行く、人馬が二騎。それ自体は、さして珍しい光景ではない。いつもと少し違うのは、人も馬も切羽詰まっていることだった。
 人馬の背後から頭上へ、びゅう、と風が駆け抜ける。それに乗って、大人の男の両手分はありそうな刃が飛んだ。一方の人が、片手で手綱を保ったまま、もう片方で槍を振り、刃を叩き落とす。
 激しい金属音が散る。音が横から後ろへ流れていくのを聞きながら、その者、イゼットは大きく息を吐いた。しかし、すぐに表情を引き締めると、槍を構え直す。安心するにはまだ早い。さらに後方から人の気配が追いかけてきている。それも、数えるのも嫌になるほどたくさん。
「大所帯だな」
「まったくです」
 イゼットが思わず毒づくと、隣から反応がある。牡馬ラヴィと共に駆けているルーは、視線を前にやったまま背後の様子を拾っているようだった。
「覚えのある気配も、そうじゃない気配も混ざっています。十中八九、大地の火アータシェ・ザマーンの人たちですね」
「うーん、あれから増援を呼んだのかな?」
 イゼットは首をひねる。しかし、推測に対する答えを持ち合わせている者は、この場にいない。ルーもうなりながら手綱を操るだけだった。蛇行した道を馬たちは全速力で駆けてゆく。
 ヤームルダマージュを発って数日。イゼットとルーはヒルカニア方面へ向けて馬を走らせていた。追手に気づいたのが昨日の早朝のことである。今のところ顔が見えるほど接近されたことはないが、こうしてしつこく付きまとわれているのが現状だ。
 遠くで弓音が響く。二人は同時に身をかがめた。
 風切り音と共に、大量の弓矢が飛来する。そのうちのいくらかは、二人の元に到達する前に勢いを失い、いくらかは彼ら自身がかわし、残りはイゼットが槍で落とした。幸い、イゼットの槍さばきと手綱さばきは、従士候補時代からさほど衰えていない。だが、本人は抑えきれない疲労を自覚していた。合間合間で乱れた呼吸を整えて、得物を持ち直す。ヘラールを安心させるため、その首を軽く叩いた。ルーが横目でうかがっていることには気づいていたが、あえて何も言わずにおく。
 一度歩調を緩めて、また加速。つきまとう敵意をなんとか振り払おうとする。だが、むこうもなかなかに執念深い。両者の距離は縮まりもしないが、広がりもしなかった。
 もう半刻近く走り続けている。人馬ともに、疲労が見えはじめていた。長旅で鍛えられていると言っても、生き物である以上体力の消耗からは逃れられない。短剣を槍で弾き飛ばしたイゼットは、思わず小声で悪態をついた。
 そのときだった――奇妙な声が聞こえたのは。
『この先、右折』
 高く、それでいて淡々とした声。それはイゼットの耳の奥に響いた。イゼットは不快感に顔をしかめる。しかし、声はお構いなしに続いた。
『そうしたら、減速して』
 一瞬、なんなのかわからなかった。けれど、声の主に思い当たると、イゼットは決断した。手綱をしかとつかむ。
「ルー! この先を右に曲がったら、減速!」
「ええっ!? どういうことですか!」
「説明してる時間がない、今はとにかく言う通りに!」
「……わ、わかりました!」
 答えてから、ルーは一瞬背後をうかがう。大きな瞳に警戒と苦渋の色をにじませた彼女は、牡馬を力強く励ます。
 間もなく、「右折」の地点に差し掛かった。イゼットは体を反らす勢いを使って手綱を軽く引くと、そのまま旋回の指示を出す。疲れているだろうに、ヘラールはしっかりと言うことを聞いてくれた。曲がると同時、さらに速度を落としていく。背後と、愛馬と少女の存在に気を配りつつ、イゼットはゆっくりと『浄化の月』の力を広げた。
『止まって』
 耳の奥に声が響く。それをそのまま口に出したイゼットは、ヘラールにも同じ指示を出した。馬たちは徐々に速度を落とし、やがて止まる。
 その直後――視界がぶれて、暗転した。

 意識が飛んでいたのは、さほど長い時間ではなかった気がする。ふっと目を覚ましたとき、イゼットたちは先ほどの道を下った先の平野にいた。馬たちがきょろきょろしているが、大きな動揺は見られない。呪物の力を注いだことがよい方向に働いてくれたのだろうか。イゼットは、安堵の息を吐いた。
 そんな彼の隣では、ルーが目を瞬いている。
「え、あれ、ここは……」
 相当混乱しているようだ。しきりにあたりを見回した彼女は、それからぎゃっと叫んで飛びのいた。すぐ隣に白い子どもが佇んでいたせいだろう。正直、イゼットも心臓が止まるかと思った。
 髪から素足まで奇妙に白い彼は、色のない瞳を二人に向ける。
「少し離れたところに転移した。認知を阻害するフィールドを作っておいたから、あの人間たちは気づかないはずだ」
「ふ、フーリさん」
「なんともない?」
 ルーは目を白黒させたが、フーリに問われると自分の体をぺたぺたと触る。その後、イゼットの方を振り返った。彼が苦笑してうなずくと、少女は天上人アセマーニーに向き直る。
「全員無事ですよ。ありがとうございます」
 フーリは無言でうなずいた。ルーの無邪気な笑顔を見せられても、彼の表情は揺るがない。それが怖くないと言えば嘘になるが、少なくとも二人を襲った『反逆者』よりは何倍もましだった。
 イゼットは、大きく息を吐く。顔を上げた拍子に、透明な瞳と視線がぶつかった。彼は眉一つ動かさなかったが、代わりに口を開く。
「この先に水場がある。そこで休憩しよう。二人とも、疲労が蓄積しているのが確認できる」
「あっ……えーと、そうですね」
 フーリの奇妙な言い回しに戸惑いつつも、ルーが肯定した。イゼットも、小さくうなずく。
「そうしよう。俺たちも馬たちも、ちょっと無茶しすぎた」

 イゼットたちは、まず自分たちの愛馬に水と食料を与えた。酷使してしまった彼らに休んでもらっている間、二人も静かに体を休める。野獣や追手に気を配る必要がないというのはありがたかった。フーリの力はかなり便利だ――どういう仕組かはまったくわからないのだが。
 それはそれとして、一応出発できそうな態勢が整う頃には、空が赤く染まりはじめていた。今から出発しても大した距離は進めないし、短時間で行ける範囲に隊商宿や街もない。今から動くのはかえって危険ということで、三人と二頭はその場で野営をすることにした。
 実際に準備をするのも、その必要があるのもイゼットとルーだけだ。フーリは無言、無表情で佇んでいる。一応周囲の様子を探ってくれているらしい。
 枯草と木切れを集めて火を起こす。水を汲んでろ過し、保存食を確かめて広げていく。一通りのことが終わった頃には、空はすっかり暗くなっていた。
 静かに燃える火が野営地を橙色に照らし出すと、白い子どもがすとんとその場に腰かけた。火の明かりが浮き彫りにする相貌は、どこまでも白い。やはり、ひどく人間離れしているように、イゼットには見えた。
 火を囲んで静かな夕食を摂った。その後、休むことになる。――が、いつものように目を閉じた半刻後、イゼットは掛布がわりの上着の下から這い出して、細くなった火の前に座っていた。フーリの言う「認知を阻害するフィールド」とやらが機能しているため、警戒は必要ないらしいが、彼にとって夜の番は癖のようなものだった。
 そのフーリの姿はない。野営地から離れているのか、シャハーブの様子を見にいっているのか。わからないが、彼のことだ。夜が明けたらひょっこり戻ってくるのだろう。
 身を切るような冷気の下、大地は全てが死に絶えたかのように静まり返っている。イゼットは上着の袷をかき寄せた。顔を上げれば、天上を埋め尽くす星たちが色とりどりにきらめいている。
 天上人アセマーニーたちの目には、この星空がどう映っているのだろう。
「イゼット? 起きてたんですね」
 闇の中より声がする。ほぼ同時、クルク族の少女がひょっこりと顔を突き出してきた。黒に限りなく近い茶色の瞳は、火光を弾いて爛々と光っている。彼女も眠っていなかったのかもしれない。
 ルーは当然のようにイゼットの隣に腰かけると、思いっきり伸びをした。先ほどのイゼットと同じように、空を仰ぐ。
「静かですねえ」
「そうだね」
「虫さんすらいないみたいです」
「昼間の騒動でみんな隠れちゃったのかもね」
 静かな会話。その終わりにイゼットが少しおどけてみせると、ルーは小さく吹き出した。くすくす笑って「そうかもしれません」と応じた彼女は、闇の中に視線を転じる。
「あの、イゼット」
 名を呼ぶ声はいつもより低い。息をひそめている感じすらある。イゼットは、少女をそっと振り返った。
「ん?」
「この間の戦いのこと……気にしてますか?」
 そう言われて、イゼットは息をのんだ。胸がちくりと痛む。心の奥底に押し込めていたものをかき混ぜられたような、そんな感覚。瞼を下ろして息を吐く。少しだけ胸のざわつきを落ち着かせてから、彼は小さくうなずいた。
「うん。まあ、少しはね」
 血に染まる槍と、乾いた笑声。その光景は、音は、脳裏にこびりついている。きっと、一生残り続けるのだろう。
「いつかこういうことになるだろうとは思っていたけど、やっぱり、実際直面すると堪えるものだね。……参ったなあ、聖女の従士は、結構な汚れ仕事なのに」
 イゼットが槍を握りしめたとき。ルーが身を乗り出してきた。
「イゼットは、それでいいと思います」
「……ルー」
「聖女の従士が具体的にどんな仕事をするか、ボクは知らないのでなんとも言えませんが。でも、そうやって悩んで苦しむ気持ちを捨てる必要は、ないと思います。だって、それがイゼットじゃないですか」
 夜の静寂の中に、少女の声が透き通る。イゼットは、目の前を柔らかく照らされたような気がした。もう一度、槍を握る。名前も知らない女性が最後に放った言葉を繰り返して――のみこんだ上で、是と否を同時に突き付けた。
 槍を下ろす。手を伸ばす。頭をなでて、髪に触れると、少女は目を瞬いた。
「ありがとう、ルシャーティ」
 しばらくぶりに、真の名を呼ぶ。ルーは軽く体を震わせた後、花がほころぶような笑顔を見せた。
 紅い光がしぼんでいく。野営地を照らす火は、細く縮んで、今にも消えそうになっていた。