第三章 異端者たちの聖戦・4

 フーリは、空がうっすら明るくなる頃に戻ってきた。イゼットの見立て通りである。彼は、出発の準備をしている二人のもとへ歩み寄ると頭を傾ける。
「大陸の各所でよどみの大地が観測されている。ただ、かつてのイェルセリアに至るまでは大きな異常はなさそうだ」
「そうですか……ありがとうございます」
 夜の間、わざわざそれを見に行っていたということか。イゼットは戸惑いつつも、お礼の言葉を口にする。フーリの相貌は一切変わらなかったが、少しだけ嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
 二人が荷を馬に括り付けたところで、そのフーリがまた口を開いた。
「イゼット、ルー。ひとつ提案をする」
「提案、ですか?」
「このまま旧イェルセリア付近に転移するのはどうだろう」
 平板な問いを投げかけられて、イゼットとルーは顔を見合わせた。何を言われているのか、すぐにはわからなかったのだ。だが、昨日一瞬でここまで移動したのと同じことだと思い当たると、イゼットは白い子どもを見つめ返した。
「すぐに行けるのなら、ありがたいことですが……『あれ』は短期間に何度も使って平気なものなんですか?」
「君たちにとっては平気ではない。転移は人や動物の身体に大きな負担をかける。だから、普段は推奨しない」
 さらり、と言ってのけたフーリは、すぐに言葉を継ぐ。
「ただ、昨日のように天の呪物の力で周囲を覆ってもらえれば、その負担はかなり軽減できる。昨日と同じ状態であれば、短期間に二度転移しても、大きな問題は起きない」
「つまり……俺が昨日と同じことをすれば平気だと?」
「そう。それと、今は緊急事態だ。少しでも移動時間は減らした方がいいと考えた」
 彼の言うことはもっともだ。イゼットもルーも少し考えこんだが、決断は早かった。緊張にこわばった互いの顔を見合わせて、うなずきあう。それから、フーリを振り返った。
「わかりました。よろしくお願いします」
「うん。イゼットも『浄化の月』の展開を頼むよ」
 フーリの言葉を受け止めて、イゼットは体を翻す。ヘラールのそばに行くと、ルーとラヴィを呼び寄せた。
 少女は愛馬を連れ、軽やかにイゼットの隣までやってきた。一人と一頭の姿を確かめて、彼は静かに瞑目する。いつ、どこで見た光景だったか、薄絹が風に揺られてなびく様を思い出し、そっと力を汲み出した。
 ちょうど瞼を上げたとき、イゼットを中心として円状に薄い光が広がってゆく。ルーが、不思議そうに自分の足もとを見下ろしていた。
 光はほどなくして消える。それを確認したフーリが、無言で腕を上げていた。
「では、転移するよ」
 平らな声でそう宣言した後。白い子どもは、二人には理解できない言葉を呟いた。その声が途切れたとき、イゼットはよろめいた。視界がぶれる。頭の中がかき混ぜられるような、不快感。昨日と同じ感覚だ。
 これが「転移」の前触れであると彼が理解した瞬間。目の前がふっと暗くなる。全身がひっぱられるような感じがして、遠くで小さな光が瞬いた。その光に違和感を覚えたが――違和感の正体をつかむ前に、意識は遠くに持っていかれてしまった。

 目を開く。イゼットはそのとき、茶色い大地に立っていた。どこであるかはよくわからない。ただ、草木もまばらな道が伸びていて、遠くには――遺構の一部だろうか――獅子の像が見えた。
 かたわらにはルーがいる。馬たちも。みな、体に大きな異常はなさそうだ。イゼットはほっと安堵の息を吐くと、残る一人の姿を探してあたりを見回す。
「あっ、フーリさん!」
 その一人は、十歩ほど離れたところに立っていた。彼はイゼットの呼び声に反応すると、静かに歩み寄ってくる。白い子どもを前にして、イゼットは目を瞬いた。天上人アセマーニーは相変わらずの無表情だ。しかし、なんとなく、顔をしかめそうな雰囲気が伝わってくる。
「どうかしましたか」
「……やられた」
「え?」
 イゼットとルーは声を揃えて反問する。それは、言葉の意味がよくわからなかったからでもあるが、彼が人間らしい悪態をついたように聞こえたからでもあった。フーリは、人間たちの反応をよそに、言葉を続ける。
「想定外の事態だ。転移の直前、『僕たち』の力が干渉してきた。そのせいで座標が少し狂った。ここは、目的地の――こちらでいうところの、三パラサングほど手前だ」
 えっと、とルーが目を白黒させた。
「それって、つまり――」
 彼女は、皆まで言う前に全身をこわばらせ、振り向いた。さながら、毛を逆立てた猫のように。
 その視線の先を中心として、圧力が広がった。イゼットとルーが半歩下がると同時、空中に白い人影が続々と現れた。その数、五人ほどか。
『“浄化の月”を捕捉』
『捕獲、及び破壊せよ』
 無機質な声が立て続けに響く。人間たちは、落ち着かない馬たちを連れてじりじりと距離を取りはじめた。
 彼らは、一瞬で移動できる。得体の知れない力も使う。はっきり言って、ただの人間では勝ち目がない。とすれば、ここでイゼットたちがとるべき作戦はひとつだ。こちらの天上人アセマーニーも同じ答えに達したらしい。色のない瞳を二人に向けてきた。
「ひとまず、彼らには僕が対応する。二人は自分の身を守ることを優先して」
「……了解!」
 思いやりのかけらもないような声で告げられた「作戦」に、しかしイゼットたちは素直に応じた。馬に飛び乗り出発の合図を出すと、それぞれの相棒は軽快に走り出す。徐々に速度を上げて、襲歩に切り替える頃に、背後で白い光が弾けた。破裂、轟音、爆風の余波が押し寄せる。それは一度きりのことではない。
 覆いかぶさる空気が、ちりちりと肌を焼く。実存する熱だけでなく、全身がすくむほどの威圧感がそうさせたのだ。飛び散る岩の破片をなんとかかわしていたイゼットは、己の奥底が戦慄しているのを知った。
 敵わない。『アレ』は人の形をしているが、人ではない。いうなれば人形か兵器だ。
 脳裏をよぎった考えを、イゼットは頭を振って追い払う。手綱をにぎり、前をにらんだ。不安や恐怖はヘラールに伝染し、思わぬ事故を招きかねない。騎手がしっかりしていなければ、乗り越えられるものも乗り越えられなくなってしまう。フーリのためにも、なるべくここから離れるべきだ。そう思った瞬間、しかしイゼットは手綱を引いた。遠くに連なる人影を見つけたのだ。隣でも停止の音がする。ラヴィを止めたルーが、呆然と前を見ていた。もとより白い肌が、心なしかより青白くなっているようだ。
「嘘、でしょ?」
 唇が震えて、音が漏れ出る。それはクルク語だった。
 イゼットは答えられない。彼にも答える余裕はない。
 連なっていた人影は、すべてが天上人アセマーニーのものだった。身長こそ微妙に違うものの、彼らは一様に白い髪と体、色のない瞳を持っている。人形以上に差異のない姿は、人間たちを意志に関係なくおののかせる。
 イゼットとルーは目配せし合い、とっさに反転した。しかし、彼らより早く天上人アセマーニーたちが動く。馬たちが、荒々しく鼻を鳴らした。
「――っ、ダメです、イゼット!」
 ルーの悲鳴がすぐ隣で響く。それとほとんど同時に、イゼットは状況を察知していた。彼の中の『浄化の月』が激しく警告していたからだ。
『反逆者』が来る。今度こそ、己を壊しにやってくる。
 イゼットは、歯を食いしばった。このままではヘラールが巻き込まれる。今度こそ彼女を逃がすべく、彼は停止の合図を出そうとした。
 しかし――そのとき、すぐそばに迫っていた圧力がふっと緩む。
 風のうなる音がして、光る何かが飛来した。空中で半円を描いたそれは、イゼットたちに迫っていた天上人たちの方へ飛んでゆく。それを避けたのか、受けたのか。つかのま、彼らの姿が揺らいで消えた。
「え……?」
 人馬は、ゆっくりと立ち止まった。ゆらゆら揺らぎながら後退する天上人たちを、信じられない思いで見やる。彼らは案の定無傷だったが、一方で想定外の事態に戸惑っているふうでもあった。
 直後。白い人影を覆い隠すように、何かが立ちふさがる。その影は、その背中は、イゼットにとってひどく懐かしいものだった。
「よう。こりゃ、なんの騒ぎだ?」
 剣の腹で肩を叩いた男は、場違いにのんびりとした声で呟く。
 忘我から立ち直り、肺に乾いた空気を取り込んだイゼットは――かみしめるように彼を呼んだ。
師匠せんせい……」