第二章 警告の声(2)

 薄い緑色の光は、その場で渦巻きながら空にとどまっていた。そうかと思えば、間もなく、たんぽぽの綿毛のように動き出す。そのたびに尻尾が現れ揺れる様は、まさに人魂だ。
「で、ででで、出たっ……!?」
 ひきつった悲鳴が聞こえる。ステラとジャックが振り返ると、今にも失神しそうなナタリーの横顔が見えた。なんだか、見ていて哀れになってくる。とりあえず彼女をなだめるところからか、とステラは友人のもとへ行こうとした。しかし、その前に、レクシオがナタリーの隣へ歩み寄る。人魂らしきものを追う彼の顔は、冷静そのものだ。冷たい、とすら思うほどに。
「ナタリーさーん、落ち着けよ。これ、人魂じゃないでしょ」
「……ひぇっ?」
 ナタリーが、震えながら目をしばたたかせる。ひたすら錯乱していた彼女は、レクシオに声をかけられてから、少しずつ冷静になっていった。打ち寄せた波がひいていくような変化だ。
「あ……これ、もしかして」
「魔力の残滓、だな」
 ナタリーにかぶせて呟いたのは、トニーだ。
 魔導士の卵たちが冷めていくのを見たステラは、一番近くにいた団長に目を移す。彼は瞳を好奇心で輝かせ、光の玉を熱心に追いかけていた。
「誰かがこの近くで魔導術を使ったのだろうね。それにしても、ここまで濃い残滓は初めて見たよ」
「そ、そういうものなの?」
「ああ。一般的な魔力の残滓は、すっごく薄い光の帯みたいな感じだ。よく目を凝らさないと見えない」
 ジャックの静かな言葉に、ステラは思わず息をのむ。彼の語ったことの意味――つまりはそれほどまでに強い魔導士がここで術を使った、ということではないか。
「これも――警察に相談した方がいいかもですね」
 レクシオが、腕を組んでしきりにうなずく。
「『まとも』な臭いがしないんで」と付け足した彼の表情は、おどけた言葉尻とは裏腹に鋭い。エドワーズも、少しひるんだ様子ながら首を縦に振る。
 窮屈な沈黙。頬をかいたトニーが、それをかき乱した。
「人魂じゃなかったのは拍子抜けだけど、今度は妙な展開になってきたなあ」
 猫のような目がくりくり動いて、魔力の残滓を追っている。
 不規則に動き回る緑色の光は、いつまでも消えない。ステラは空中を行き来する光を追った後、軽く首をかしげる。
「魔力の残滓って、こんなに長く残るものなの?」
「……いや、そんなはずはない」
 誰にともなく問うた。三人分の否定の声が返ってくる。魔導科生に断言してもらったステラは、けれどちっとも嬉しくない。ぐ、と鼻のあたりに力がこもった。
「先日の襲撃者の件といい、真相のわからないことだらけですね」
「ひょっとしてその襲撃者が関係してんのかね、これ」
「いや、でも、エドワーズさんたちが襲われる前から、この光は目撃されてたわけだし」
 言葉を交わせど、答えは出ない。
 首をひねっていてもしかたがないので、もう少しだけあたりを見させてもらってから解散しよう、ということになった。ステラが女友達の悲鳴を聞いたのは、ちょうど足もとを観察しようとしゃがみこんだときだ。
「何、ナタリーどうしたの?」
 すばやく立ち上がり、身をひるがえしたステラは、尻餅をついたナタリーのもとへ駆け寄る。口をぱくぱくさせている友人は、助け起こすと少し冷静さを取り戻した、ように見えた。
「あ、ありがと」
「大丈夫? なんか見つけたの?」
「うん……でも大丈夫。ちょっとびっくりしただけだから」
 言いながら、ナタリーが指さしたのは教会の壁。暗闇の中、壁に向かって目を凝らしたステラは、ひっ、と息をのみこんだ。友人が尻餅をついた理由を知る。
 本来、白いはずの壁には、濃い文字が躍っていた。塗料か何かで書かれたそれはずいぶんと荒い。かといってただ乱雑なわけでもない。書き手の激情が伝わってくる気がして、ぞっとした。ステラは反射的に肩をすくめる。
 それでも、おびえきっている友人の手前、平静を装って文字に目を走らせた。光源には困らない。魔力の残滓がまだ、彼女たちの頭上をうるさいほどに飛び回っている。
『銀の月の夜 女神の選定の日 我は神聖なる場を あかく染めに降り立つ』
 文章、というより詩に近いそれを読み終えて、ステラは眉をひそめた。
 言語として理解はできるが、何が言いたいのかちっともわからない。
「お二人さん、どうした……げっ、なんだこりゃ」
 レクシオが後ろからのぞきこんでくる。彼は途端に、顔をくしゃくしゃにした。
「気味の悪い落書きだなあ。誰が書いてったんだ」
 彼が抱いた感想はステラと大差ないものだ。
「レクシオー? なんか見つけたー?」
「壁に落書きあり。あと、見つけたのは俺じゃなくてナタリーとステラだ」
 闇の中からトニーが呼びかける。レクシオは振り返り、手を振った。
「落書き?」
「なかなかにおっかないぞ」
 軽い調子の言葉にひきつけられて、数人分の足音が近づいてきた。三人のもとへ追いついてきた残りの面子は、落書きを発見すると一様に苦い顔をする。中でもエドワーズ神父の表情は、痛ましいとすら思えた。当然のことだ。
「これはかなーり気持ち悪いな」
「ナタリーくんでなくとも恐怖を感じるよ」
 露骨に嫌がるトニーの横で、ジャックがため息をつく。彼は上品な所作で振り返り、顔面蒼白の神父を見つめた。
「これも警察の方に知らせた方がよいですね。立派な器物損壊罪ですから」
「そう、ですね」
 エドワーズ神父は応じた。けれど、どこか歯切れが悪い。自分の管轄の教会に落書きをされたのだから無理もない、とステラは思った。けれど、すぐに首をかしげる。それにしても反応が大げさすぎるような気がしたのだ。魔力の残滓を目撃したときより、よほど恐怖しているような……。
 ステラはふと視線を動かす。その拍子に、幼馴染と目が合った。彼も「なんかおかしい」と顔に書いて、首をひねっていた。
「それにしても、なんだろうな、この詩。おぞましげなことは書いてあるけど、何が言いたのかわかんないや」
「『女神』って書いてあるし、ここ教会だし、ラフィア神に関わることだとは思うけどね……」
「んー。でも、選定ってなんだろうな? ラフィア神話はひととおり読んだり聞いたりしたけど、『女神の選定』なんて出てこなかったぞ」
「レクがわかんないならあたしにもわかんないわよ」
 ステラはため息をつく。そのまま、夜に沈んだ地面をにらみつけた。
 女神の選定。選定――いったい、何を選ぶのだろうか。
 考えると、急に背筋が寒くなった。理由はまったくわからない。ステラは肩をこわばらせる。
 不気味な沈黙が、夜の教会に広がった。それを破ったのは、手を叩く音と、団長の一声だった。
「とにかく、人魂――魔力の残滓の手がかりはなさそうだね。今日の調査はここまで、ということになりそうだ」
 場の空気が一気に緩む。ナタリーが安堵したように息を吐き、トニーはやれやれと肩をすくめた。
「どうも消化不良という感じだけど……ま、しかたないわな」
「何も出てこないし、私ら以外に誰もいないんだからね。しょうがない、しょうがない」
「ナタリー、今めっちゃほっとしてるだろ」
「う、うううるさい!」
 ナタリーがトニーの頭を軽くはたくと、その場で笑いが起きた。それまで青白い顔を引きつらせていたエドワーズも、ようやく頬を緩める。
 とにかく、ここから先は警察に任せるべき領域だろう。教会の中に引き取ったのち、魔力の残滓と落書きのことを全員で整理して、それをエドワーズが紙に書き起こした。すべてを終えて、『調査団』の面子はそれぞれ帰宅することにする。帰り際、ジャックがエドワーズに頭を下げた。
「騒がせてしまってすみません。本日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。来ていただけて助かりました」
 きまじめなやり取りの横で、ステラとレクシオ、ナタリーとトニーがそれぞれ顔を見合わせた。
 神父に見送られて、五人は夜の帰路につく。細い月が照らす中で、ただ一人レクシオが、ふいに足を止めた。ステラは気配と足音でそれに気づいて、振り返る。
「レク? どうしたの?」
「あー……悪い。ちょっと教会の方に見ておきたいものがあったんだわ」
 頭をかいたレクシオは、ジャックとトニーに向かって、手を振った。
「すぐに戻るから、先帰っといてくれや」
「お? おう」
「夜の町は危険だから、長居はしないようにね」
 わざわざこの二人に伝えたのは、彼らが同じ寮生だからだろう。二人がそれぞれ言葉をかける。それをありがたく受け取るそぶりを見せて、レクシオは教会の方へ駆け戻っていった。
 ステラは呆然として幼馴染を見送る。しかし、影が夜陰に溶け込んで、足音すらも夜気に吸い込まれてしまうと、自分も弾かれたように駆けだした。

 ステラは、教会の裏手でレクシオを見つけた。裏庭のさらに外側だ。すでにエドワーズ神父の姿はない。教会の窓のひとつから明かりが漏れている。明るい部屋に、いるのかもしれない。
 レクシオは、窓を避けるようにして歩き、庭の柵の右端で足を止めた。そのまま何をするでもなく、虚空をながめている。――いや、にらみつけている。いつもは新緑のように輝いている瞳が、今はひたすらに鋭い。夜空に浮かぶ明るい星、そのもののようだった。
 ステラは息をのむ。足音を、気配を、すべてを殺していた。幼馴染相手に、そんなことをする必要はないのに。そうしなければいけないような気がしていた。
 レクシオは、しばらく立ち止まってから庭のまわりをゆっくり行き来し、また止まった。それを何度か繰り返した後、深くため息をついた。ステラの顔に力が入る。そのとき。
「なーにしてんですかー? そんなところで」
 軽く顔をうつむけたまま、彼が声を発した。その言葉は明らかに、ステラに向けられたものであった。頬を引きつらせたステラは、観念して、物陰から顔を出す。
「ご、ごめん……」
「別に怒りゃーしないぜ? 隠れなくたっていいでしょうに」
「何するのか気になったのよ……」
 言い訳しながら、ステラはレクシオの隣まで歩く。茫洋とした明かりに照らされた横顔は、すでにいつものレクシオ・エルデだった。
 へらりと笑う少年を、少女はわざとにらみつけてみせる。
「あんた、誰も見てないところで平然と無茶するでしょ。昔から。だから心配だったの」
 心臓の音で、自分の声がよく聞こえない。それでもステラが言い切ると、レクシオは目をみはった。その表情はどんな感情ゆえのものか。察する前に、少女は幼馴染の軽いげんこつを食らった。
「ステラだって人のこと言えねえくせに」
「な、なによ! 言っておくけど、あたしはレクみたいにこそこそしたことなんて、そんなないんだからね。どうせ無茶するなら堂々とするわよ」
「威張ることか?」
 とうとう、レクシオは声を立てて笑った。ひとしきり笑った後、彼は唇を尖らせているステラの背中を叩く。
「ほれ。もう用事は済んだから、途中まで一緒に行こうぜ」
「はいはい」
 軽くうなずいてから、ステラは歩き出した。横に並んだレクシオをちらと見る。
「で、結局何してたの?」
「んー……ちょっと、魔力の残滓が気になってな。もう一回見ておきたかったんだ。ま、残滓じたい消えてたし、成果なしだけどな」
「そっか」
 うつむく。足もとは暗い。闇の海の中に、音の雫がひとつ、ふたつ、みっつとこぼれて、目に見えない波紋をつくる。
「ねえ」
「なんすか」
 口を開く。お互いに。顔を上げれば、すぐそばにきょとんとした彼の顔がある。こんなに近くにいるのに、なぜか今は隔たりを感じた。
 梟の声がする。黒い街路樹がさざめく。ステラは笑った。笑みをつくった。
「ごめん。やっぱり、なんでもない」
 ああそう、とおどけて答えた少年は、内心どう思っているのだろう。幼馴染と違って、ステラは嘘をつくのも表情を繕うのも下手くそだ。今が夜でよかったと、心から思う。

 教会の裏手を歩き回り、ため息をついた、あのとき。レクシオの口が言葉の形に動いていたのを、ステラは見ていた。ささやきの音も、少しだけ拾った。
 彼女の見間違い、聞き間違いでなければ。彼は闇に向かって、呼びかけていた。
「親父」――と。