第二章 警告の声(3)

 魔力の残滓を目撃してから数日は、とにかく平和に時が過ぎた。ジャックは『クレメンツ怪奇現象調査団』の責任者として、同好会グループ活動の報告書を学院に提出したらしいが、一介の団員にすぎぬ他の面子は、学業とその他もろもろに追われる日々だ。
 そんなある日の、放課後。ステラはひとり、武道場へと足を運んでいた。武術科生が課外授業や演習で使う広大な建物だ。普段、大きな扉は固く閉ざされている。しかし、月に数回だけ終日開放されていた。今日は、その開放の日だ。
 それにもかかわらず、武道場にはステラ以外の学生はいなかった。ほかの用事で出払っているのか、単に練習する気がないのか。どちらの人もいるだろう。それぞれに事情や思いがあって、それを非難する資格はステラにはない。けれども、なんとなく、ため息がこぼれた。
 人がいないおかげで真剣を使えるのはよいことだ。何かを傷つける心配がない。ステラは部屋の半ばで立ち止まると、少しだけ柔軟体操をした。それが済んだら姿勢を正し、深呼吸をする。空気を入れ替え終えると、ゆっくり剣を抜いた。
 前を見る。上段の構えの後、素振り。構えを変える。今度は先ほどよりも小さな動作で――
 基本動作を延々と繰り返す。怪我のこともあり、ここのところきちんと体を動かしていなかった。そのせいで、体がなまっている気がする。ゆっくりじっくり、温めていくのがいいだろう。あまり激しく動かすと、怪我にも響くかもしれないからだ。
 素振りと深呼吸、それから構えの復習をステラはしばらく繰り返した。しかし、ふいに動きを止める。近づく足音に気づく。剣を鞘に戻して、振り返った。
 まったりと肩の力を抜いたレクシオが、こちらへ歩いてくる。彼はステラの顔を見返すと、いつもの調子で手を振った。
「熱心だねえ」
「まあね」
「やりすぎるなよ。まだ完治してないだろ?」
 それは、ステラ自身も気をつけているつもりだった。けれど、痛いところを突かれた気がして、しかめっ面になってしまう。彼女のちぐはぐな内心を読み取ったのかどうか、レクシオはいつものように笑った。
「やれやれ。じっとしてるってことが、どうもできないらしいな。ステラさんは」
「うっ……だって、あいつのこと思い出したら、もっと強くならないと、って考えちゃうんだもん」
「あいつって」
 首をかしげてから、レクシオは「あー」と手を打った。
「この間の殺人……未遂犯」
「何その呼び方。でも、うん、正解」
 ステラは姿勢を崩して、壁にもたれかかった。この幼馴染と話していると、ときどき気が抜ける。レクシオも、彼女の隣にやってきた。
 がらんとした武道場を何の気なしにながめる。そうしていると、ここ最近の出来事が泡のように思い起こされた。恐怖も、驚きも、悔しさもあった。不気味さと――ほんの少し、居心地の悪さも。
「ねえ、レク」
 口を開く。あのときは舌に乗せるのすらためらった問いが、今は驚くほどするりと出てきた。
「人魂探しにいった日にさ、魔力の残滓が気になったって言ってたじゃない。あれ、何を気にしてたの?」
 隣を振り返る。レクシオが――あのレクシオが、少し青ざめている気がした。夕暮れのせいだろうと思いたかったけれど、そうじゃない。ステラは訊いたことをすでに後悔していた。しかし、もう引き返せない。
 沈黙が続いた。感情を石膏で固めたみたいな少年の声が、それを破る。
「魔力の残滓ってさ、当然だけど元は魔力なんだわ。だから、うっすらとだけど、使い手の魔力を感じられることがある。それが、さ――知り合いに、似てたんだわ」
「知り合い?」
 ステラは彼の言葉を反芻する。頬も、体も、声も、自然とこわばった。レクシオはひとつうなずいた。決断のための、時間を作っているようだった。
「俺の、父親」
 ステラは押し黙った。とっさに言葉を返すことができなかった。
 知り合いどころではない。あの日の予想が見事に的中していたわけだが、嬉しいはずもなかった。むしろ、胸がぎりぎりと締め上げられる気さえする。
 しかも、レクシオの父親といえば――ステラにとっても、少し苦々しい思い出のある人だ。
「レクのお父さんって、確か……」
「そ。昔、指名手配されてた奴。ああ、あれ、今も継続してんのかな?」
 ステラが濁した言葉の続きを、レクシオが自嘲的に引き取った。あまりにも辛辣な声を聞き、ステラは眉間のしわを一本増やすこととなる。
 二人がまだ初等部に入ったばかりの頃。一人の男が指名手配された。実際の手配書をステラは見たことがないが、その男はレクシオによく似ていたという。そのことから、「レクシオ・エルデは人殺しの息子だ」という悪い噂が学院中に立った。そのせいで、ステラが出会った当初、レクシオは学院で完全に孤立していた。――その噂を、レクシオ自身が肯定していたせいもある。
 ステラが彼と一緒にいるようになったことで、噂は自然消滅していった。しかし、完全に消えたわけではないらしい。
「でも、あれ、あくまで噂でしょう」
「いいや? まぎれもない事実さ。噂どまりなのは、手配書に名前が書かれてなかったから。そんだけの理由。でもって、それは国の連中が親父の名前を突き止められなかったからに過ぎない。親父が――ヴィント・エルデが軍人や警察官を十人ばかり殺したってのは、ほんとのことだろうよ」
「なんで、言い切れるの?」
「そうなるだろうってわかってるからさ。まあ、なんちゅうの? 色々事情があんだよ」
 そう嗤うレクシオの横顔を見て。ステラはぞっとした。初めて、彼に対して恐怖に近いものを覚えた。それは、教会に行った夜と同じ表情。
 事情。その一言を、胸中で繰り返す。たった一言に、ステラの知らないレクシオがすべて内包されている気がした。
「あの夜、追いかけてきたのがステラでよかったよ」
 急に、少年の声色ががらりと変わった。レクシオは、いつもと同じおどけた様子で頬をかく。
「ほかの奴らに怪しまれてたら、なんてごまかすか考えなきゃいけなかったところだ」
「いや……怪しんでると思うけど」
「やっぱり? まあそうだわなー」
『調査団』の人々は、揃いも揃って洞察力が高い。だからこそ、怪奇現象の調査などということが、きちんと活動として成り立っているのだろうが。
 やれやれ、と呟いたレクシオが伸びをする。
 ほかのみんなにも、もう少し事情を話してもいいんじゃない? と言いかけて、しかしステラは思いとどまった。幼馴染といえど、他人が口出しすることではないだろう。
 代わりに、まったく違うことを言った。
「あたし、そろそろ帰るね。今日も夕飯作らなきゃだし」
「おう、そうか。じゃ、俺も一緒に行っていい?」
「いいけど……レクから言い出すの、珍しいね」
「何、たまにはお世話になった場所に顔出さなきゃ、と思ったのさ」
 へらりと笑うレクシオに釣られて、ステラも相好を崩す。彼女に反対する理由はない。ステラは上半身を起こすと、幼馴染の手を取って武道場を出た。

 二人は帝都の喧騒を抜けて、孤児院へ向かった。その間、どちらもほとんど無言だった。口を開いたとしても、ステラが中身のないことを言って、それにレクシオが応じるだけである。ぎこちない空気の中で、ステラの脳内ではひたすら先ほどの話が再生されていた。
 貴族の館さながらの建物が見えてきたとき、どちらからともなく息を吐く。口や顔に出さずとも、安堵しているのは明らかだった。
「ただいまー。今日はレクシオ兄ちゃんも一緒だよー」
 ステラは、扉を開けるなり、叫ぶ。「遠い先輩」の来訪を知らされた子どもたちは、大喜びで飛び出してきた。レクシオが少年少女にじゃれつかれている間、ステラは鞄を肩から下ろして、孤児院の中をざっと見渡す。いつもいる人がいないことに気がついた。
「ミントおばさんは?」
「ミントおばさん、お買い物に出てるよ」
 答えたのは、子どものかたまりの一番後ろにいた、赤茶色の髪の少年だった。名はリュカといって、先日十歳になったばかりだ。ステラは彼の言葉に、あっさりと納得する。食材か日用品を切らしたのだろう。
「なるほど、買い物か」
「んー、そりゃあ残念。会いたかったんだがなあ」
 子どものかたまりから抜け出したレクシオが、頭をかく。子どもたちは不思議そうに首をかしげた。
「おばさん帰ってくるまでいればいいのに」
「そうしたいのはやまやまなんだけどなあ。学院の寮には門限っていうのがあるんだ。ほら。大時計の長い針が六を指すまでに帰りなさい、って言われるだろ? あれと一緒だよ」
「ええー」
「お兄ちゃんも、帰る時間決まってるんだねー」
 子どもたちは次々と、不満と落胆の声を上げる。終わりが見えないと思われた嵐は、しかし唐突にやんだ。孤児院の扉のむこうで、激しい物音がしたのだ。鳥が近くで羽ばたいたときの音だと、ステラはすぐ気づく。しかし、妙だ。鳥がこんなところまで来ることは、めったにない。
 表情を凍りつかせた子どもたちを見下ろして、ステラはほほ笑んだ。とにもかくにも、この子たちを安心させることが最優先である。
「なんだろうね? あたし、ちょっと見てくる」
「ステラ、ひとりでいくの?」
 年少の子どもたちが、心細げな表情をする。ステラは頭をかいた。かえって逆効果だっただろうか――しかし、見にいかないわけにはいかない。明確な理由はわからないが、なんとなくそんな気がするのだった。
「大丈夫。すぐ帰ってくるから。それに、きっと大したことじゃないわ」
 ステラは、笑顔を深めて言い切った。レクシオに目配せしてから、小走りで戸口に向かう。
 扉を指一本分ほど開ける。その瞬間、声を上げそうになり、慌てて口を押えた。扉のすぐ前でカラスが真っ黒な羽をばたつかせている。しばらくそうした後、カラスはそこをうろつきはじめた。あたりに、彼の餌となりそうなものは何もない。それなのに、何かを探すようなそぶりを見せている。ややして、拾えそうなものがないと見たのか、カラスはカァ、と低く鳴いて飛び立った。
 しばらく無言でいたステラだが、遠ざかる羽音を聞いて、扉を全開にする。
「びっ……くりしたぁ。ただのカラスかあ」
 大きく息を吐きだして、外に出る。そのとき、ふと足もとに違和感を覚えた。立ち止まり、目を見開いて、地面を凝視する。違和感の正体は、紙だ。黄ばんで少ししわの寄った紙が落ちていた。
 ステラは首をかしげて、紙を拾う。深く考えず、大きく書かれた文字を見た。
 背筋が急に凍りつく。
 細い月。緑色の小さな光。そして、浮かび上がったおぞましい文字。
 いくつかの記憶が脳内にひらめく。幻影の再生は、つかの間のことだった。ステラは大きく息を吸う。地面を踏みしめる感覚。風の音。ほこりっぽい臭い。黄色い残照。現実を彩るものを噛みしめて、ステラは目の前のものに意識を戻した。改めて紙を広げ、そこに書かれた文字を読む。
『銀の選定は壊される。神の梯子は外される』
 謎の短文の筆跡は、教会の壁の落書きとまったく同じだった。