第二章 警告の声(5)

「あれ? みなさんお揃いで、今から出かけんの?」
 教会を目指す途中、後ろから陽気な声が聞こえた。耳になじみのある声に誘われて、ステラは振り返る。
「トニー、課題はもういいの?」
「ああ。なんとか終わった」
 トニーは伸びをして、ちょっと悪戯っぽく笑った。課題の疲労感よりも、清々しさが見える表情に釣られて、ステラたちも笑顔になる。
「で、今からどっか行くの?」
「ええ。ちょっと、教会に」
「うん?」
 トニーが猫目を丸くする。不思議そうな彼に、ステラとナタリーでこれまでのことを説明した。すべてを聞いた少年は、しかつめらしく腕を組んで、悪戯を思いついたかのように目を細める。
「よし、そういうことなら俺も行こう」
「トニーも?」
 三人の声が重なった。六つの目に見つめられても、少年は一切動じない。もったいぶるように、帽子を目深にかぶった。
「おうよ。おもしろそうだからな。……あとは、団長の代理ってことで」

 エドワーズ神父は、驚きとほほ笑みをもって四人を迎えてくれた。団長不在の中、トニーが先の言葉通り彼の代理を務め、率先して挨拶をする。
「いや、突然お邪魔してすみません。神父様にどうしても話しておきたいことがあって」
「わかりました。お入りください」
 エドワーズは、当然首をかしげた。しかし、悪意のない猫目の少年を見ると、快く迎え入れてくれる。規制線の取り払われた教会に、ステラたちは今度こそ堂々と足を踏み入れた。
 教会は祈りの場であると同時に、神父の生活の場でもあるという。建物の奥、神父の部屋に、四人は通された。部屋は狭く、そして簡素だった。壁も床も白い。家具は寝台と小さな机、そして小さな衣装箪笥がひとつ。それだけだった。そこにエドワーズは椅子を運び入れたが、二脚入れたところで部屋がいっぱいになったので、結局寝台も使うことになった。エドワーズとステラが椅子を使い、トニーとレクシオ、ナタリーが寝台に腰を下ろす。そうして形が整ったところで、神父が穏やかに切り出した。
「話したいこと、とはなんでしょうか」
「ええと……まずはこれを見てもらえますか」
 ステラは、すぐに応じる。鞄から、例の紙を取り出しながら、友人をうながした。ナタリーもこわごわと紙を持ちだして、広げた。
 それを見た神父の表情が凍りつく。
「これは……!」
「落ちていたんです。いえ、正確には、届いたんだと思います。私のものは孤児院の前に、ナタリーのものは自宅の前に」
 神父は、青ざめたままの顔を学生たちに向ける。四人を順番に見るその目には――恐れとも悔恨ともつかぬ光が揺蕩っていた。
 ステラは、深呼吸する。一時わきあがった感情を押し殺して、口を開いた。
「ここに書かれている内容について……何か、思い当たることはないでしょうか」
 さしあたり、それに答えたのは沈黙だった。
 エドワーズは頬を震わせ、短い間だけ瞑目する。その動作から何を読み取ったのか、「神父さん」と呼びかけたレクシオが、窓の外を手で示した。
「俺たちの見る限り、この紙に書かれている言葉は、教会の壁の落書きと同じ筆跡です。無関係とは思えない」
 エドワーズはなおも押し黙っている。その沈黙の合間を縫って、レクシオは言葉を続けた。声色はあくまで明るく穏やかだが、なぜか、聞いているステラは背筋が寒くなった。
「壁の落書きを見たときも、何かに気づいていらっしゃったんでしょう? でも、それを俺たちに言わなかった――いや、言えなかったのかな。でも、こうしてみんなの身の回りにも影響が出てきてるんだ。一連の事件の裏に俺たちの知らない何かがあるのなら、事態が大きくなる前にそれを知りたいんです」
 教えていただけませんかね? と締めくくったレクシオが、目を細める。ほほ笑んでいるように見えるが、奥の緑の瞳は、まったく笑っていなかった。その翳りにのまれそうになっていたステラだが、はっと我に返ると、自分のすべきことを思い出す。エドワーズに向かって、頭を下げた。
「無理を言っているのは承知の上です。でも……どのみち危険なら、情報があった方が、対処のしようもあると思うんです。お願いします。話せる範囲でいいので、教えていただけないでしょうか」
 ステラが言うと、ナタリーとトニーも彼女に倣って頭を下げた。エドワーズはなおもかたい表情をしていたが、四人を順番に見ると、大きく息を吐いた。
「わかりました」
 か細い声が、長い長い沈黙を破る。ステラは、そっと顔を上げた。エドワーズ神父の表情は、穏やかなものに戻っていた。
「……できる範囲でお教えします。正直、決まりとは言え、隠し事をしていることへの後ろめたさはありました」
「決まり、ですか」
「ええ。その紙に書かれている文言に関することは、聖職者にだけ伝えられる秘事なのです」
 学生たちは、顔を見合わせる。予想以上に大きなことに首を突っ込んでしまったのではないか。そんな思いが、ステラの|裡《うち》を駆け巡った。さりとて、あそこまで言っておいて今さら撤回もできない。腹をくくるしかなさそうだった。
 エドワーズが、立ち上がる。
「ついてきてください。お話ししましょう。――隠されたラフィア神話について」

 エドワーズ神父に案内されたのは、図書室だった。蔵書に目もくれず進んでいく神父の背中を、ステラはじっと見据える。ここに、例の神話とやらにまつわる書物があるのだろうか。
「その話は、ほとんど口伝で受け継がれています。なので、関連する書物というのはありません」
 ステラの内なる疑問を見透かしたように、神父がささやく。彼は学生たちを振り返ると、笑った。その笑顔は、穏やかな神父のものというより、悪さをする前の学生のもののようである。
「しかし、ひとつだけ、その神話を伝える物があるのです」
 エドワーズは壁際で足を止めた。ステラは、ナタリーと一緒に、短く声を上げる。小さな扉が、目の前にある。以前来たときは、まったく気づかなかった。エドワーズはにっこりしてから、扉に手をかけた。
 ぎいぎいと不細工な悲鳴を上げながら、扉が開く。その先は暗く、足もとさえもよく見えない。エドワーズに続いて踏み込むと、高い靴音がこだまする。固く、ひやりとした感触が、靴越しに少し、伝わってきた。
 空間は狭い。壁際まで、すぐだった。そこには、申し訳程度に小机が置いてある。エドワーズは小机の前で立ち止まり、その上に置いてある角灯を手に取った。灯を高く掲げて、壁を照らす。その灯を――灯が照らすものを見て、四人は息をのんだ。
「これは――」
 壁画、のようだった。それも、相当に古い。ステラには歴史や美術史はわからないが、古いものだということだけはわかる。その絵には、三人の人が描かれている。左側に女性が一人。右側に、それより小さい人が二人。おそらくは、一組の男女だろう。そして、左側の女性の背には大きな翼が生えている。
「こっちの女の人は、ラフィア神だよな。たぶん」
 トニーが左側の女性を指さす。エドワーズは、正解、といわんばかりにうなずいた。
「ラフィア神はわかるとして……その前にいる人はなんだろ」
「何かを捧げてる……? いや、単にひざまずいてる……のかな?」
 顔をしかめるナタリーと一緒に、ステラも首をかしげた。なんだか、歴史の講義を受けているような気分になってくる。そのかたわらで、レクシオは一人、黙っていた。
「彼らは『翼』です」
 それぞれの反応を示す学生たちに、たったひとつの答えを示したのは、神父だった。彼の方を振り返った四人は、声を揃えて反芻する。
「『翼』?」
「そう、呼ばれる人たちです。女神様の代理人、と言えば、わかりやすいでしょうか。この壁画は、ラフィア神が『翼』を選んでいるところを描いているといわれています。実は、この描写は正確ではないのですが……今は、それはいいでしょう」
 エドワーズは、角灯を持ったまま、四人の前へ進み出る。体を彼らの方へ向けて、ちらりと壁画を振り仰いだ。
「ラフィアが代理人たる『翼』を選ぶこと。それを、『選定』あるいは『女神の選定』というのです」
 落とされた言葉は、さりげないものだった。だから、それが答えだと、ステラはすぐに気づけなかった。『翼』と『選定』。耳慣れない二つの言葉が染み込んできて、ようやく彼女は目をみはる。
「それって……じゃあ……」
 ささやきは、しかし音にはならなかった。あたりを見回す。ほかの三人も、顔をこわばらせ、息を詰めて壁画を、そして神父を見ていた。
 神父はしばらく何も言わなかった。凍りついた空気がやわらいだ頃、それを見計らったかのように、口を開く。
「今からお話するのは、神々の争いの歴史。そして、ラフィアの『翼』として選ばれた人間たちの物語です」
 ――そして彼は語り出す。忘れられた、意図的に隠された、神話を。