第二章 警告の声(4)

「ステラ! ちょっとうちに来て、後生だから!」

 ナタリー・エンシアから悲鳴のような連絡があったのは、ステラが奇妙な紙を見つけた後の、休日のことだった。ちょうど孤児院の掃除が終わったところに飛びこんできた通話。その内容と、通話機越しに鼓膜を突き破らんとする声に、ステラは苦笑した。
「後生って……そこまで言わなくたって、いくらでも行くのに」
 何やら切羽詰まっているようだった。珍しいことだ。ステラは、できるだけ早く行こう、と決めた。掃除用具を片付けて、子どもたちに出かける旨を伝える。それから自室に駆け戻り、剣と鞄をひっつかむ。そのとき、机の上をふと見て、例の紙の存在を思い出した。
「これ……も、持っていくか」
 ナタリーの話を聞いた後に、相談できるかもしれない。ステラは紙を丁寧に折って、鞄の中に滑りこませた。
 部屋を出たところで、恰幅のよい女性の姿を見つけて手を挙げる。
「ミントおばさん! ちょうどよかった!」
「お出かけするんでしょう、ステラ。みんなから聞いたわよ」
「うん。ナタリーのところに行ってくる。いつまでかかるかはわからないけど、夕飯の準備までには帰ってくるようにするわ!」
 それだけのことを、ステラは階段を駆け下りながら言った。ミントおばさんは、にこにこ笑って「気をつけてねえ」と手を振ってくれる。そこまでは、いつもどおりの休日のようだった。

 ナタリーの家は、帝都南西にある。両親と三人暮らしで、学院にもその自宅から通っているのだった。何度かお邪魔したことのあるステラは、迷わずその場所へ向かう。帝都の住宅には珍しい、小さな戸建ての家。赤い瓦の屋根が目立つそこは、いつもより静かな気がした。
 扉の横に、くすんだ金色の呼び鈴がかかっている。鈴の中央からぶら下がる細い鎖をにぎって揺らすと、呼び鈴は涼やかな音を立てた。
 少しして、足音が迫ってくる。ナタリーのものだとすぐにわかった。ドアノブが動くと同時、ステラは一歩後ろへしりぞいた。扉の先から弾丸のように飛び出してきた少女が、つんのめる。
「ステラぁ~! 来てくれた! ありがとう~!」
「こんにちは、ナタリー。また、その……ずいぶんと慌ててるわね」
 情けない声で友を歓迎したナタリーは、顔も情けなく歪めている。両目にうっすらと涙がにじんでいることに気がついて、ステラは肩をすくめた。ナタリーは、『調査団』の中で唯一――そしてもっとも怖がりなのである。
「どうしたの。幽霊でも見た?」
「幽霊ではないけど、変なことがあった」
「変なこと?」
「とにかく、私の部屋に来て」
 顔の前で両手を合わせて言うナタリーは、その場で土下座しそうな勢いだ。彼女をなだめながら、ステラはエンシア家にお邪魔した。家の中は静かだ。ナタリーに聞くと、両親はどちらも仕事で出ているという。
 ナタリーの私室は、家に入ってすぐのところにある。広くはないが、彼女だけの部屋だった。ナタリーが前に立って扉を開けてくれた、そのとき――ステラは目をみはった。
「あれ? レク?」
「よう。やっぱりお呼び出しを受けたか」
 部屋には先客がいた。彼女の幼馴染が、部屋の隅で足を組んで座っている。ステラがぽかんとしていると、彼は軽く手を振った。
「ナタリーは『調査団』の全員に連絡したんだとさ。けど、ジャックは用事、トニーは課題が立て込んでて出てこれなかったらしい」
「『出てこれた』のがあたしたちだけだった、ってことね」
「そーゆーこと」
 ステラはナタリーに軽くお辞儀して、幼馴染の向かいに座った。鞄を抱え込んでから、そわそわしている友人を見やる。
「それで、ナタリー。何があったの?」
 ナタリーは、たっぷり沈黙してから、一枚の紙を二人の前に差し出した。
「昨日、うちの前にこんなものが落ちてたんだ」
「落ちてた……」
「正確には、落とされたんじゃないかと思う。家の前に突然カラスが飛んできて、それがいなくなったと思ったら、これがあったから」
 ステラとレクシオは、顔を見合わせる。まさか、と互いの目が語っていた。身を乗り出して、紙を見る。そこには見覚えのある文字で、短い言葉が書かれていた。
『銀の月の夜 神官は血に染まり 神の翼は折られるであろう』
 ステラは思わず顔をしかめた。隣を見ると、レクシオが静かな表情で考え込んでいる。その沈黙をどうとったか、ナタリーは慌てて口を動かした。
「自分でも変なこと言ってると思うよ。でも本当なんだって。カラスも興奮してるみたいだったし……この間のこともあるし、怖くて怖くて……」
「ナタリーを疑ってるわけじゃないわ」
 ステラは肩をすくめ、笑ってみせた。思考の海から脱したレクシオも、それに追随する。
「そうそう。これの筆跡、あの落書きと同じだろうしな。意味があるんだろ」
「やっぱり!?」
「つーかナタリー、よく耐えたなー。昨日のうちに連絡してくれてもよかったのに」
 レクシオが目を細めて言うと、ナタリーはへらりと笑みを浮かべた。それはすぐ泣き笑いに変わる。相当に怖かったらしい。
 奇妙な話だ。先日、殺人未遂事件に遭遇した三人のまわりで、似たようなことが起きている。カラスが飛び立ったところに紙が残っていた、という経緯まで同じだ。偶然で片付けるには不自然な点が多い。
 とはいえ、こちらの話を切り出すには好都合だった。ナタリーが落ち着いたときを見計らって、ステラは鞄から紙を取り出す。少しだけ新たなしわができていたが、中身を見るのに支障はない。
「実はね、ナタリー。あたしもこれを見つけたんだ」
 ステラが紙を開くと、ナタリーは嫌いなものを見たような顔になる。
「ステラのところにも来たの? これ……」
「うん。孤児院の前にいきなりカラスが来て、それがいなくなったところに、紙が落ちてたの。そのとき、たまたま孤児院にレクも来てた」
「……なーんか、におうわね。それ」
 顔をしかめながら、ナタリーは黄ばんだ紙の表面をにらむ。一方のレクシオも「ちょっと見せてな」と言い置いて、彼女が持っていた紙を拾った。矯めつ眇めつ、ながめている。そのとき、緑色の瞳が一瞬揺らいだのをステラは見たが、あえて何も言わなかった。
 レクシオの目が、紙の表面、文字に戻る。
「ふうむ。しかし、何が言いたいんだろうねえ、これ」
「『銀』と『月』、あと『神』って言葉が必ずある……あの落書きも含めて、ね」
 レクシオのぼやきに、ナタリーが返した。いつの間にか恐怖の色は薄らいで、彼女らしい知性が戻ってきている。その変化に苦笑しつつ、ステラも文について考えぬわけにはいかなかった。
「ラフィア関連であることは間違いないとして。『銀の月の夜』に何かするってことかしら。えーと、選定?」
「だろうな。それにしても、選定ってなんだろうなあ。あれから神話の本を見直してみたけど、やっぱそんな言葉は出てこなかったぜ?」
「うー…………そこは詳しい人に聞いた方がいいのかもね」
 レクシオが頭をかいた。ステラもため息をつく。
 ラフェイリアス教に詳しく、かつステラたちと面識のある人は、エドワーズ神父くらいしかいない。しかし、あの夜の神父の様子を思い出すと、落書きのことを直球で尋ねるのもためらわれる。
 さらに、ナタリーが紙の端をつついた。
「わからないといえば、『銀の月の夜』もわからないけどね。夜はいいとして、銀の月はなんのこと? 単に月が出る夜なら、何度でもあるわよ」
 ふむ、とレクシオが首をひねる。その拍子に、顔にかかった黒髪を指で軽く払いのけた。
「何かの暗喩かね」
「えー……レク、なんか知ってる?」
「いんや。小説とかだと、たまにこういう表現見かけるけどな。そんくらい」
「じゃあ……暦は? 『銀の月』なんてあったっけ」
「いや、ねえわ。白の月アルプシェールならあるけどな。それにしたって今は黄の月フラーウスだ。白も銀も関係ない」
 ステラとレクシオ、二人は揃って天を仰ぐ。いくら言葉を重ねてもどうどう巡りになりそうだった。
 二人の上に暗雲が立ち込めたのを察してか、ナタリーがすくっと立ち上がる。
「いったん休憩にしよ! ここで話し込んでても、答え出なさそうだし。お茶とお菓子持ってくるわ」
 彼女は言い終わると同時、くるりと身をひるがえした。部屋を出ようとしたその寸前で、二人の方を振り返る。花のような笑みが、少女の顔を彩った。
「二人とも、ありがとうね。話したらだいぶ気が晴れた」
 ステラは「どういたしまして」と笑い返し、レクシオは無言で手を振る。ナタリーは一瞬白い歯をこぼすと、台所の方へ駆けていった。
 友人の部屋に残される形となったステラとレクシオは、特に何ということもなく顔を見合わせる。ステラはすぐに顔を戻し、紙を畳んで鞄に戻した。しかし、その耳元に、レクシオが唐突な言葉を投げつける。
「この紙、どうも殺人未遂の人が仕掛けたみたいだ」
 ステラは、弾かれたように顔を上げる。ナタリーのもとへ届いていた紙をつまんでいる少年は、真剣そのものの目をしていた。すぐにその意味を悟ったステラも、表情を消す。
「おまえが見たっていうカラスも、ただのカラスじゃなかったんだろうな。魔導術でもかけたのか――想像もつかんが、『造った』のか」
 けだるげに言葉を続けたレクシオに、ステラはひそめた声で問いかける。
「それは、『視た』の?」
「ああ」
「じゃ、間違いないか」
 ステラはひとつうなずいて、鞄の口を閉じた。レクシオは目をみはり、それからあきれ顔になる。
「……おまえ、本当にころっと信じるよな。自分が視たわけでもないのに」
「信じるわよ。あんた、そういうところでは嘘つかないでしょう」
 ステラはきっぱりと言い返す。それに対して、レクシオは何か言いたげな表情であった。しかし、言っても仕様がないと心得ているからか、すぐに顔つきをやわらげる。紙を二人の間に置いて、うんと伸びをした。
「あーあー。落書きの方も触っときゃよかったなあ」
「あれは……しかたない。エドワーズさんもいたしね」
 ステラが肩をすくめたとき、扉の開く音がする。ナタリーが、青色のトレイを持って帰ってきたところだった。
「お菓子、こんなものしかなかった。許せ」
「十分よ。ありがとう」
 ナタリーが持ってきたのは、人数分の紅茶と皿に盛ったクッキーだった。クッキーはおそらく、学院の近くにある小さな菓子屋のものだ。ステラもときどき行く店である。
 ともかく、そのクッキーをつまみながら、三人は話を再開した。話題はもちろん、彼らのもとにやってきた紙のことである。
「で……どうしようか、これ」
「そうさなあ」
 ナタリーが、汚物でもつかむかのように紙をつまんでぴらぴらと揺らした。レクシオは立てた膝に頬杖をついて、ため息をこぼす。彼にしては珍しく、態度を決めかねているらしい。ステラも考え込む格好を作ってはみたものの、自分の中で明確な結論が出ているわけではなかった。言葉の切れ端たちが、むなしく頭の中で踊っている。しょうがなく、紅茶を口に運んだ。ほどよい温かさになっていた。
 長く続きそうだった沈黙を切り開いたのは、レクシオだ。彼はクッキーをひとつ口の中で砕いてから、少女二人の方へ身を乗り出す。
「とりあえず、今とれる行動はふたつだな。知らぬ存ぜぬを決め込むか、傷つけるの覚悟で神父様のところに乗り込むか」
 唾をのみこむ音が、二人分。そして三人の視線は、短文が書かれた紙に集中した。
 ステラの脳裏に、神父のこわばった顔がよみがえる。
 そして鎌を携えた青年の顔と、幼馴染の言葉も。
『銀の選定』とはなんなのか。『神の翼』とはなんなのか。
 彼は、何をするつもりなのか。
 浮かんだ疑問が思いとなって、渦巻き、色づき、思考を染め上げる。
 大きく息を吸って、吐いた。そしてステラは心を定めた。
「あたしは……ちゃんと話を聞きにいった方がいいと思う」
 二人分の視線がステラを射抜いた。一瞬たじろいだが、それでも言葉は止めない。
「今回の件は、あたしたちが知らない『何か』が関わってる。それは確かだと思う。それで、たまたまとはいえあたしたちはそこに首を突っ込んでしまった。今さら何も知りません、ってわけにはいかないと思うんだ。この紙もそういう、敵からの警告なんじゃないかな」
 ナタリーがぽかんと口を開く。レクシオがおもしろそうに目を細める。彼らの表情を観察している余裕は、ステラにはなかった。焦っている。なぜかはわからないが、このときは確かに焦っていた。
「だから、きちんとエドワーズさんに話を聞いて、知るべきことを知った上でどう対処するのか決めた方がいい……っていうのが、あたしの意見」
 カップを手にしたまま黙りこんでいた少年少女が、ふむ、と考えこむそぶりを見せる。先に口を開いたのはナタリーだった。湯気の立たなくなった紅茶を流し込むように飲んでから、んー、とすっぱそうな顔をする。
「私は、今のうちは知らんふりしてた方がいい気もするけどなあ。下手に首を突っ込んだら、ますます危ないことになりそうじゃない? 言っても私ら、ただの学生なんだしさ」
「うん。それも、一理ある」
 ステラは、すなおに返した。ナタリーの指摘したことを考えなかったわけではないのだ。紅茶をすする。いつの間にか、最後の一口になっていたらしい。カップの底が見えた。
「俺はどっちかと言うと、ステラ寄りの意見かな」
 レクシオがのんびりと口を開いた。少女二人は、無意識のうちに揃ってそちらを見る。
「知っても危険、知らなくても危険なら、知ってた方がまだ対処のしようがあるってもんだろう? それに、殺人未遂の兄ちゃんとその仲間たちは、俺たちをとっくに警戒対象として見てるはずだ。じゃなきゃ、こんなものは寄越さんさ」
 こんなもの、と言いながら、レクシオは紙を示した。ナタリーが「確かに……」と顔をしかめる。
「であれば情報は集めた方がいい。知らんふりをするのはそれからでも遅くはない、と思うね」
「なるほど、正論」
 ナタリーの眉間のしわは深くなったが、瞳には理解の色が浮かぶ。友人の表情を見て何を思ったか、少年は貌からまじめな色を消して、へらりと笑ってみせた。
「ま、俺はこの文章のこと以外にも、色々確かめたいだけなんだけどな」
「え、何それ。何を確かめるの?」
「それは内緒ー」
 ――それは、レクシオが視たもののことか。それとも彼の父親のことか。ステラは、言い合いを始める二人を見て思ったが、そのどちらも口には出さなかった。ただ、窓の外を仰ぎ見る。もう一度、教会に行くことになりそうだ。