第二章 罪人の子(2)

 前へ進む。
 上体を少し傾けて、次は足を前に。ぐっと、力を込める。それだけのことをするのに、果てしない労力が必要だった。いつから自分は体に重石をつけたんだっけ、などと実りのない思考が芽生える。立っているというより、浮いているように感じる。気を抜けばそのままどこかへ飛んでいきそうなほどに。
 全身が熱い。肺が張り裂けそうだ。それでも前へ進んだ。けれど、当時の小さくて貧弱な体では、それにも限界があった。木の根に足を取られた途端、使い物にならない体が大きく前へ傾いた。
 痛い思いをすることはなかった。前を歩いていた父が、すぐに気づいて支えてくれたからだ。無愛想な父は、顔を真っ赤にし、悲鳴のような音を立てて呼吸をしている息子を見下ろし、眉をわずかに下げた。
 珍しい表情だ。父がそんな顔をするのは、母に呆れられたときだけだと思っていた。
「休憩しよう」
 言われて、けれど首を振った。立ち止まれば、見つかる。見つかれば大変なことが起きる。また、無愛想な父が無茶をするかもしれない。そう思って今までも、とてもではないが疲れたと言えなかったのだった。
「大丈夫だ。ここまで来れば、すぐに追手がくることはない。……そういえば、昼ごはんもまだだったな」
 どうあっても淡々とした喋り方になる父が、声をやわらげようとしているのがわかる。
「おまえにばかり気をつかわせている気がするな」
 ため息まじりに続ける父の声を聞き、とっさに否定しようとした。けれども、空気の通り道がぎゅうっと痛んで、そんな声すら出ない。結局、何も返せないまま、太い腕に頭をゆだねた。

 レクシオは、鞄の中身を点検しながら、大きなあくびをこぼす。早くも本日三度目のあくびだった。夢の残滓が頭にこびりついているようで、思考には未だ靄がかかっている。これでは、何度点検しても忘れ物をしでかしそうだった。
 レクシオはひとつ伸びをすると、あきらめて廊下の方向につま先を向ける。先に朝食を摂ってくることにした。人前でご飯を食べれば、多少は頭が冴えるだろう。
 いつもの調子で部屋を出たレクシオだったが、寮の食堂に辿り着くより前に、異変に気づいた。やけに強く視線を感じる。肩と首まわりをほぐすふりをしてあたりをうかがうと、何人かの生徒がちらちらとこちらを見ていた。指さしてきて、何やら話している少年たちもいる。ただの噂話にしては、悪意が濃い。
 これは一言言ってやるか。内心で嘆息したレクシオが、指をさしてきた少年たちの方へ体を向けたとき。元気よく背中を叩かれた。
「おっす、レク!」
「……トニー? おはようさん」
 振り返ったレクシオは、ほとんど反射で挨拶を返す。常に帽子を持ち歩くかかぶるかしている少年は、けれどこのとき手ぶらだった。朝食前だからかもしれないが、おかげで一瞬誰だかわからなかった。
 白い歯を見せて笑っていたトニーは、けれど挨拶が済むとその笑みを消した。軽く背伸びして、顔を寄せてくる。
「おお、どうなさった?」
 猫目に鋭い光が宿る。それにやや気おされつつレクシオが問うと、トニーは彼の腕を少し引いた。
「ちょっと、こっち来て。何も知らずに食堂行くのはまずい」
 学友の顔は真剣だ。だからレクシオは、首をかしげつつも彼に従った。
 トニーがレクシオを連れてきたのは、男子寮の広間だった。みんなこぞって食堂に向かっているらしく、ひと気はほとんどない。トニーが足早に端の丸テーブルに歩み寄り、何かをひったくるように拾った。新聞と一緒に広げてあった一枚の紙だ。
「これ……」
 わずかに震える声でそれだけ言って、トニーは紙をレクシオに手渡す。――手配書だ。その内容を一目見て、レクシオは得心した。
 長いこと名前がなかった、男の手配書。そこに名前と、いま少し詳しい情報が書き加えられている。おそらく、昨日か一昨日に更新されたばかりなのだろう。でなければ、何年も前からあるものが無造作に置かれているわけがない。
 かのヴィント・エルデでも、軍人の目をかいくぐり続けるのは無理だったらしい。そう思うと、むしろ笑いがこみ上げてきた。
 頬に何かが当たったように感じて、振り返る。トニーが心細げに目を細めて彼を見ていた。思わず口角を上げたレクシオを見て、逆に心配したらしい。沈痛に黙り込んでいる少年に、レクシオはひらりと手を振った。
「気にしなさんな。指名手配犯の名前がわかったってだけだろ?」
「でも……どう見てもそれ、レクの身内……だよな。エルデなんてそうある姓じゃないし」
「まあ、実の父親だけどな」
 淡々と返すと、トニーは口を開けて固まった。瞳孔まで細くなっている。本当に猫みたいな目になっている、とレクシオはのんきなことを考えた。
「この手配書が最初に出たときから、親父だってことは知ってたよ。約十年越しに答え合わせがされたってだけだ。俺は気にしないし、トニーが気にすることでもない」
 おそらく、外野の人間はそうもいかないだろうが――とは言わなかった。トニーが気にかけているのが、まさにそこであろうから。
 丸テーブルに手配書を戻して、レクシオは未だ動揺している学友を振り返る。
「ま、教えてくれたのは助かった。ありがとう」
 そう言葉を付け足して、食堂に行こうと言おうとした。しかし、彼が口を開く直前、その名を呼ぶ声が広間にこだまする。
 寮監が広間に入ってきたところだった。後ろに見慣れぬ壮年の男性がいる。その取り合わせを見て、トニーが表情をこわばらせた。レクシオは、むしろ凪いだ目をもって、大人たちを迎える。
「エルデさん、少しいいですか」
「俺に何かお話でも?」
「いえね、こちらのお客様が、君にお会いしたいと仰って……」
 寮監は、よほどのことがない限り穏やかで優しい人だ。今日も物腰柔らかだが、さすがに顔はこわばっている。彼が脇にどいたところで、後ろに立っていた人物が半歩前に出た。
 軍人だ。紋章の入った腕章をしているところを見ると、所属は憲兵隊だろう。だが、憲兵にしては妙に違和感がある――レクシオが警戒心ゆえに目を細めたとき、その憲兵が敬礼した。レクシオはとっさに敬礼を返す。将来軍人になる生徒が多い『武術科』では、敬礼も叩き込まれる。ゆえに、自分が軍属でなくとも反射的に返礼してしまうのだった。
 目の前の憲兵がそれを知っているかどうかは、レクシオの目からはわからない。少なくとも彼は、驚きもせずに淡々と言葉を発した。
「憲兵隊のスティーブン・メンデス少佐だ。レクシオ・エルデくんといったか、君に話を聞きたい。急なことだが、本部までご同行願いたい」
 レクシオは、つい後ろの丸テーブルを一瞥した。その拍子に、青ざめたトニーの横顔が目に入る。巻き込んでしまう形になったことを申し訳なく思いつつも、レクシオはメンデス少佐なる人物を見返した。
「……話、というのは、父に関係することでしょうか」
「ここでは答えられない」
「お気遣いいただかなくて結構ですよ。わかりきったことでしょう」
 わずかに嘲笑をひらめかせ、レクシオは切り返す。寮監が顔をこわばらせたのが見えた。それでも彼は、態度を変えようとは思わなかった。自暴自棄になっていたのかもしれない。
 一方のメンデス少佐は、巌のようであった。眉一つ動かさず、けれどため息まじりの言葉を紡ぐ。
「単なる気遣いだけではないのだよ。形式というものがあるのだ。くだらんことだがね」
「くだらない、という点には同意します」
 レクシオが乾いた声を投げ返すと、初めてメンデス少佐が目をみはった。その間に、少年は、表情をやわらげて半歩前に出る。
「わかりました。一緒に行きます。提供できる情報なんてものはほとんどありませんが、それでもよければ」
「……感謝する」
 まったく心のこもっていない感謝だ。けれど、そこにわずかな居心地の悪さ、あるいは気まずさのようなものを見出して、レクシオは少し目を細めた。
 父が何をしでかしたかは知らないが、これはいささか面倒なことになるかもしれない。
「ちょっと、レク」
 内心で嘆息したレクシオを、控えめに呼び止める声があった。トニーだ。顔面蒼白の少年は、彼の肩をつかんで離さない。レクシオがじっと見つめると、彼は強くかぶりを振った。
「だめだ。おまえだってわかるだろ。これ、なんかおかしいよ」
「そうだな。この状況はおかしい」
 同じように声量を落として言うと、トニーは歯を食いしばった。きつい目でレクシオをにらみ返してくる。「だったらなんで行くなんて言うんだ」という彼の心の声が、そのまま聞こえてくるようで。レクシオはふっと目もとを緩める。そうでもしないと、与えられたぬくもりに甘えてしまいそうだったから。
「トニーが気にすることじゃない。さっき言ったでしょうが」
「そういう問題じゃないだろ!」
 声を荒らげるトニーに向かって、今度はレクシオがかぶりを振った。
「軍に逆らってもいいことなんか一つもないっしょ。後々騒ぎになるくらいだったら、唯々諾々と従うさ。――大丈夫、どうせ単なる事情聴取だ。すぐに終わる」
 学友をなだめ、あるいは諭したレクシオは、肩にかかっていた手を強引に外す。よろめいたトニーに心の中で謝罪しつつ、彼の目は軍人を見上げていた。
「お待たせしました。行きますか」
 メンデス少佐はうなずいて、レクシオの手を取った。その力はなかなかに強い。逃げやしませんよ、とささやいても、まったく緩めてくれなかった。
 鬱屈とした気分をため息に変えたレクシオは、しかたなしに歩き出す。トニーの呼び声が何度か聞こえたが、振り返らなかった。

 広間を出るその瞬間、まなうらに屈託のない少女の笑顔が浮かぶ。
 もう少し猶予があると思っていた。最後に一回くらいは会えると思っていた。が、レクシオの予想以上に軍人たちの動きは早かったらしい。
 間に合わなかった。それだけが、心残りといえば心残りだ。

 ――別れの挨拶くらい、しておきたかったな。

 レクシオは、そっと、声に出さずに呟いた。