第三章 正義と悪の境界(5)

 事が起きるまでの二日間、ステラたちが遊んでいたわけではない。むしろ、いつにもまして忙しく動き回っていた。いよいよ大詰めとなった学院祭フェスティバルの準備と、変わらず続く授業。その合間を縫って、「レクシオ救出作戦」を進めなければならなかった。しかも、作戦に関しては時間がない。もたもたしている間に、レクシオが手の届かない場所へ行ってしまう恐れがあったからだ。
 それでも、シャルロッテとリンダ・テイラー先生が協力してくれたのは大きかった。大人の意見を逐一聞けるというのはありがたいし、シャルロッテのおかげで声が届く生徒が増えたのだ。
「何が楽しくて軍を敵に回すんだよ。俺はやらないぞ」
「協力したい気持ちはあるけど、私はちょっと……ごめんなさい」
 例えば、署名の呼びかけをしているとき。そういうふうに拒み、顔を背ける生徒ももちろんいた。一方で、消極的に、あるいは積極的にペンを取ってくれる人たちも、確かにいた。
「みんなが内心であいつをどう思ってるかが、はっきり出てる感じだねえ」
 驚くべきことに、一、二日で百を超える数が集まった署名。それを見ながら、トニーがぽつりと呟いたものだ。ジャックが隣でしきりにうなずく。
「なんだかんだ、彼も世話焼きだからね。本人も気づかないうちに、味方を増やしていたのかもしれない」
『名のない指名手配犯』のことで、レクシオは一時、孤立していた。しかし、ステラと仲良くなってからは、ほかの生徒と関わることも増えた。取り繕っていたものであったとしても、彼の笑顔はそのとき、大きな武器となったのだろう。
 色あせた記憶を噛みしめた後、ステラは意識を現在に戻す。隣でもうひとつの紙束を見つめていたシャルロッテに、呼びかけた。
「それで……この署名を憲兵隊本部に持っていくんだよね」
「そうね。受け取ってもらえる可能性は低いけど」
「じゃあ、それはあたしがやる。イルフォード家の人間なら、門前払いはされないでしょうから」
 ステラが己の顔を指さして言うと、シャルロッテは驚いたように目をみはる。それから、ふわりとほほ笑んで「じゃあ、お願いするわ」とささやいた。
「それと、もうひとつ」
 明るい声がした。シャルロッテのものではない。ステラが首をかしげていると、紫陽花の少女のかたわらから、ブライス・コナーが顔を出した。
「帽子くんからの提案でねえ。この嘆願書を特別調査室に送ったらどうか、って」
「特別調査室に?」
 赤毛の少女の言葉を反芻してから、ステラは目を丸くした。
 憲兵隊本部に署名を届けるだけだと、突っぱねられてそれで終わり、になる可能性がある。だから保険として――あるいは真打ちとして、特別調査室にも「もの」を届けようというわけだ。
 ステラはトニーを振り返る。得意げな笑みが、返ってきた。
「これはジャックとナタリーにお願いすることにしてるよ」
 彼はそう言うと、手もとの帽子を軽く放って、つかんだ。

 淡いクリーム色の壁と、灰色の絨毯が敷き詰められた部屋を、照明が煌々と照らしている。魔導具などという高価すぎる物を導入する余裕はないので、まだまだガス灯が現役だった。
 膨大な書類と調査資料に埋め尽くされた机。きっちりと整頓されている山もあれば、雑然と散らかっている野もある。各机の使用者の性格が、如実に表れているといえた。
 勤務時間中は常に四、五人が動き回っているこの部屋だが、今いるのは一人だけである。残りの人たちはまだ出勤してきていないか、別の用事で席を外しているかのどちらかだった。
 書類の山に埋もれている唯一の人間、アーサーは、書類作成の手を止めると思いっきり両腕を伸ばす。肩が鈍い音を立てた気がするが、気のせいだと思いたい。
 これまでに作成した書類をまとめて重ね、角を揃えた後に軽く留めた。その上に、昨日上官から発行してもらったばかりのある紙を載せる。そのとき、部屋の扉が軽快に三度、叩かれた。
「はい」
「『オルディアン少佐』、いらっしゃいますか」
 くぐもった声を聞き、アーサーはわずかに眉を上げる。目もとを軽くもみほぐしてから、応じた。
「アーノルド捜査官か。いるぞ。入っても大丈夫だ」
「失礼します」
 扉が開き、声の主が入ってくる。黒軍服に身を包んだ、鋭い目の男だ。アーサーよりは年上だが、憲兵隊の中では若い方だと、アーサー本人は記憶していた。髪型と、お世辞にもよいといえない目つきのおかげで、下町のごろつきと間違われることも多いらしいが、その表情からは人の好さがにじみ出ている。そんなセドリック・アーノルドは、混沌とした執務机の山々を越えてアーサーの前へやってくると、見本のような敬礼をしてみせる。
「例の件は済んだか」
「滞りなく。今日中には回収したものを届けさせます」
「頼む」
 ひとつうなずいた後、アーサーは碧眼に悪戯っぽい光をきらめかせる。
「あなたにも、慣れないことをさせて済まなかったな」
「いえ。名門校の警備員というのも、案外やりがいがあるものですよ」
 アーノルドも緊張をほどき、目を細める。一見すると挑むような微笑だが、決してそうではないということをアーサーは知っていた。だから、少しばかり声を弾ませる。
「そうか、そうか。退役後の就職先になりそうかな?」
「さあ、それはどうでしょう。候補のひとつくらいにはなるかもしれませんね」
 若き上官の言葉を受け流したアーノルドは、机上の紙束に目を落とす。「いよいよ動かれますか」との問いに、アーサーは無言でうなずいた。アーノルドの表情が、わずかにほころぶ。
「それはよかった。いやね、今回の任務中に、何度か標的に会ったんですよ。毎回毎回挨拶されてると、愛着というものが湧いてきまして」
「少なくとも、愛着が湧く程度には『まとも』ということかな、その子は」
「父親の十倍はまともでしょう」
 言い切ったアーノルドは、よくとおる笑声を上げる。釣られてアーサーも少し笑ってから、先ほど書類の上に置いた紙を手に取った。
「昼には憲兵隊の方へ行くことにする。あなたも一緒に来るか」
「ぜひ、お供させていただきたいですね」
 アーサーの問いに、アーノルドは間髪入れず答える。アーサーがその申し出を承諾すると、また見本のような敬礼をした。

 アーサーは宣言通り、その日の昼過ぎに憲兵隊本部へ赴いた。特別調査室の職員の来訪に、隊員たちはざわめいた。彼ら以上に動揺していたのが、上の人間だ。面会願いを聞き入れ、青ざめた顔をさらした憲兵隊長に、アーサーは例の紙を突きつける。それは、「内部調査令状」――憲兵隊の内部調査が許されたことを示すものだ。憲兵隊上層部にとっては、何よりも恐るべき紙切れのはずである。
 憲兵隊長は、やはり、大岩のような顔を汗で濡らしていた。
「オルディアン少佐……こ、これは……」
「見ての通りだ。特別調査室室長および、アーサー・オルディアン少佐の名において、これより憲兵隊の内部調査を実施する。協力していただこう」
 この場合の要請は、ただのお願いではなく命令である。調査に入られる方に拒否権はない。それは憲兵隊長もわかっているはずだが、彼は否定に近い言葉を口にした。
「わ、我々は何も、不正などしておりませんぞ。憲兵隊の名に誓って――」
「貴官らの意見は関係ない。今回の調査の決定は、我々特別調査室の調査結果に基づくものだ」
 アーサーは淡々と切り返す。瞬間、隊長の顔が赤黒く歪んだ。もともと陸戦で数えきれない武勲を上げた人だから、そうしていると凄まじい威圧感がある。伴った副官が警戒態勢をとるのを制して、アーサーはさらに言葉を続けた。武人の威を前にしてなお、凍てついた表情を保ったまま。
「本来、貴官らに情報開示する義務もないのだが――納得いかぬと仰るのなら、いくつか開示しよう」
 アーサーは指を二本立て、そのうちの一本をゆっくりと折る。
「まず、ひとつ。憲兵隊が秘密裏に『魔導の一族』を狩っているという話がある。その可能性を示唆する物的証拠や証言も多数存在する。ルーウェン解体後、逃げのびた彼らには手を下さぬ、という決定が為されたはずだ。この話が本当なら、憲兵隊が皇帝陛下の御意に背いていることになるな」
「そのようなことは、断じて……」
「していない、と仰るか。ならば堂々と内部調査を受け入れればよろしい。調査の結果、何も見つからなければ、我々は黙って去る。それだけのことだからな」
 憲兵隊長のわずかな抗弁を打ち消して、アーサーはぴしゃりと言った。隊長が歯噛みしているのをよそに、彼は二本目の指を折る。
「もうひとつ。最近、帝都で学生たちの運動が活発化しているのをご存知かな。クレメンツ帝国学院から発生したものらしいが……。先日、その運動の一環だという嘆願書が、特別調査室に届いた。『学院の生徒が憲兵隊に不当に拘束されている』『憲兵隊はいくら訴えても応じてくれない』『ゆえに、特別調査室の方で調査してほしい』という内容だった。もちろん、軍律違反の証拠としては弱いものだ。しかし、これまで積み上げてきた調査結果を公表するきっかけとしては、十分すぎる」
 言い終えたアーサーは細く息を吸う。それから、憲兵隊長をじっと見つめた。アーサーよりいくつも上の階級であるはずの彼は、若き少佐を前にして酸欠であるかのように口をぱくぱくさせている。
 ――特別調査室に嘆願書が届いたのとほぼ同時期に、憲兵隊に署名が届いている。後ろで沈黙を貫いている副官が明らかにした情報だった。憲兵隊がその署名をどう扱ったのか、アーサーは知らないが、これまでの調査結果を見る限り真剣に対応したとは考えにくい。
 しかし、二か所同時に書類を送りつけるとは、奇抜な発想をする学生もいるものだ。しかも、一か所はあまり存在の知られていない特別調査室である。アーサーは報告を聞いたときのことを思い出し、胸中でそっとほほ笑んだ。
 表面上ではあくまで冷徹な若者を装い、憲兵隊長と対峙する。彼は、目もとと頬を震わせて立ち尽くしていた。怒りの沸点もとうに通り越したと見える。そんな彼に、アーサーは氷のかけらを投げかけた。
「ご満足いただけたかな。それでは、内部調査を開始いたす。よろしいかな?」
 確認の形をとってはいたが、それは宣言だった。もちろん、隊長には肯定する以外の選択肢は与えられない。
 悄然とした彼は、隊員の一人を呼び出した。スティーブン・メンデス少佐といういかにも堅物そうな男は、動じた様子もなくアーサーたちに敬礼した。彼に連れられ、調査に赴く直前、アーサーはまるで今思い出したかのように、立ち尽くす隊長を振り返る。
「ああ、それと。あなた方が破棄しようとしていた機密資料は、回収させていただいた。後ほど調べさせていただくので、そのつもりで」
 言うだけ言って顔を背けたので、アーサーは隊長がどんな反応をしたのか知らない。ただ、扉が閉まる音だけを背中で聞いた。