第四章 ここがあなたの帰る場所(1)

 砂色の闇の中から、声が響く。
 それは、さざめき。
 それは、ささやき。
 耳元で語りかけた。
『困りましたな。このままでは、あなたを帰すことができません。いや何、我々にも体面というものがありまして』
 静かで礼儀正しい口調。しかし、その裏には明らかな軽蔑と愉悦の心がのぞく。
『お父君の情報が頂けないということであれば、ほかの魔導の一族の情報でも構いませんよ。噂くらいは聞いたことがおありでしょう』
 優しさを装った恫喝。それは言葉だけではなく。
 不愉快だった。だからといって、この檻を打ち破るだけの力もない。重い肉体を抱えたまま、とっくの昔に乾ききった笑顔を、なおも貼りつけ続ける。それくらいしかできなかった。
 しょせん、無力な子どもだ。生き抜くすべは限られている。
 いつまでこの時間が続くのだろうか。
 そもそも、最初の日からどのくらいの時が経ったのかも――もう、わからなくなりはじめていた。

 重く沈殿した意識を、尖った音がかき乱す。レクシオは瞼をこじ開けた。
 なんの騒ぎだろうか。ここのところ、ただでさえろくに眠れていない。眠れているうちは寝かせておいてほしかったのに。
 彼らしくもない文句を心の中で並べ立て、レクシオは鈍重な体を起こす。体のあちこちが軋んで、目が腫れぼったく、頭もろくに働かない。けれど、どのみち起きなければならないことに変わりはない。昨日までの傷が痛むのを無視して、レクシオは掛布を跳ねのける。ささくれた心は、外から響く音を拾って苛立ちの火を灯した。
 重い扉のむこうが、いつになく騒々しい。それも、今までにない雰囲気だった。何かが怯えているような、何かを警戒しているような、そんな空気。
 それを察して初めて、少年の心の中に疑念が浮かぶ。耳を澄ました彼は、息をのんだ。誰かが、誰かと話している。その声は少しずつ、こちらに近づいてくる。
 血の気が引く。苛立ちが焦燥に変わっていくのを感じながら、レクシオは寝台から下りた。体は日に日に精神の言うことを聞かなくなっている。そのため、ほとんど引きずるようだった。
 声の中にはメンデス少佐もいるようだ。彼がそう気づいたのは、声がすぐそばまで来たからだった。よろめいたレクシオが冷たい壁に手をついたとき、声と足音が彼の見ている扉の前で止まる。少佐が誰かに何かを確認した後、けたたましい解錠の音が響いた。
 その余韻が消えぬうちに、扉が開く。真昼の光が淡く差し込み、そのむこうから誰かが踏み出してきた。レクシオは懸命に息を殺して、その相手を見つめる。
「君が話にあった学生だね」
 男性の声が、レクシオに語りかけたらしかった。初めて聞いたようで、けれどなぜか記憶にもある声。それに対する返答をレクシオは持っていなかった。喉がふるえてろくに音も出ない。だから、とりあえず、うなずいた。
 光に目が慣れてくる。レクシオの前にいたのは、憲兵隊の服を着た人相の悪い男性だった。だが、彼がここしばらく接してきた憲兵たちとは、どこか雰囲気が違うようである。男性は、レクシオの顔をじっと見つめた後、一人で勝手にうなずく。
「なるほど、確かに」
 一人で呟くと、彼は背後を振り返る。鋭すぎる視線の先には、憲兵たちが立っている。ある者はうんざりしたとばかりに顔をしかめ、ある者は逆に全身をこわばらせていた。先ほどの声は、この男性と、後ろにいる憲兵たちのものだったのだ。
「では、先ほどの話の通り、彼の身柄はこちらで預からせていただきます。よろしいですか?」
「どうぞお好きなように。一応言っておくと、我々から提供できる情報は彼に関することだけだぞ」
「もちろん、承知しております。それだけでも助かりました。ご協力、感謝いたします」
 男性は、少しばかり表情をほころばせると、メンデス少佐に向かって敬礼をする。メンデス少佐も、重みのある敬礼を返した。
「あなた方の処分の軽減に関して、オルディアン少佐にかけあうこともできますよ」
「いや結構。自分たちがしたことの愚かさは、自分たちが一番よくわかっているのでね」
「……そうですか。承知しました」
 男性はメンデス少佐との話を終えると、再びレクシオに向き直る。彼は、よいとは言えない人相の上に、人の好さそうな笑みを乗せた。なぜか違和感がない。
「さて。さっそくで悪いんだが、一緒に来ていただけるかい。レクシオ・エルデくん」
「……どこ、に」
 レクシオは当惑したまま、なんとかそれだけを言う。身震いが抑えられなかった。そろそろ「用済み」判定されるかと身構えていたところだったから、男性の言葉が死刑宣告のように聞こえたのだ。相手もそれを察したのだろうか、わずかに表情をやわらげた。それでも、少し怖いことに変わりはなかったが。
「大丈夫。安全な場所だよ。少しの間、私の上官に会ってもらうだけだ」
 手袋を嵌めた手が差し出される。レクシオは、相手の不良みたいな顔をじっと見つめてから、その手を取る。久しく感じていなかったぬくもりが、五指を伝って流れ込んできた。
 いつもと違う相手に手を引かれ、レクシオは戸惑ったまま廊下を歩く。靴音の反響はだんだんと小さくなり、足もとも冷たい灰色から柔らかい黄色に変わった。先ほどの憲兵たちの気配は、もうない。代わりに、あたりは恐慌の空気に満たされていた。
 その中で、レクシオは男性の背中を見上げる。それまで凍りついていた疑問が、ようやく顔を出した。
「あの……あなた、学院の警備員さんですよね。それが、えっと、憲兵……?」
 かすれた声を聞き、男性は一瞬だけ足を止める。彼は少年を振り返り、苦笑した。
「あーあ。顔を覚えられていたか。上手く隠していたつもりだったんだが」
「えっと」
「本職はこっちだよ。上官の密命で警備員をやっているだけだ」
 会話の間も二人は歩き続ける。先ほどまでの喧騒が遥か後ろに流れ去ったところで、男性はようやく足を止めた。少年と憲兵らしき者は、薄い扉の前で向かい合う。
「帝都警察所属の憲兵隊専任捜査官、セドリック・アーノルドだ。よろしく」
 ぽかんとしているレクシオに歯を見せて笑った男性――アーノルドは、それから、目の前の扉を叩いた。切れ味のよい一声を発する。
「オルディアン少佐、アーノルドです」
「――入れ」
 扉のむこうから、お世辞にも友好的とは言えない応答がある。アーノルドは淡々として「失礼いたします」と返した。レクシオには馴染みの薄い世界だが、上官と部下とは、そんなものなのかもしれない。
 扉が開く。その先にあったのは、がらんとした空間に寝台がひとつあるだけの部屋だった。ただし、レクシオがそれまでいた所とはかなり違う。床は温かみのある板張りで壁は白、いずれも清潔そのものだった。大きな窓からは、陽光が静かに降り注いでいる。
 その部屋の窓際に、二人の人が立っていた。片方は、背の高い実直そうな男性。もう片方は、それより若そうで、かつ上品そうな青年だった。蜂蜜のような金髪の下から、晴天の瞳がじっとこちらを見つめている。レクシオが呆然とそれを見返していると、若者の方がこちらに歩み寄ってきた。彼はアーノルドに向かって敬礼してから、レクシオに目線を合わせる。それまで剣のように鋭かった視線が、ふっとやわらいだ。
「そうか、君がイルフォード嬢のご友人か」
 レクシオは目をみはる。なぜ、彼がステラのことを知っているのか。思いはしたものの、その疑念は形にならない。そうなる前に、青年が体ごと室内を振り返った。
「まずは、色々と説明をするとしよう。殺風景な部屋だが、楽にしてくれ」
 それと同時、もう一人の男性がレクシオのもとに歩み寄ってくる。彼のやや後ろで、青年がアーノルドを見た。
「アーノルド捜査官。事後処理をお願いしてもよいかな?」
「お任せを。では、私はこれで失礼しますね」
「ああ。ありがとう」
 短いやり取りの後、アーノルドは退室した。その間にレクシオは、とりあえず寝台に案内される。正直、体を起こしているのがつらかったが、知らない人間の前でいきなり横になれるほどずぶとい神経はしていない。結局レクシオは、寝台の端におずおずと座った。
 そんな彼に、青年はあくまで穏やかに説明した。まずは、二人の素性だ。青年の方はアーサー・オルディアン少佐。もう一人の男性は彼の副官、マーヴィン・グリフィス大尉。二人は軍内部の不正を調査する部署に所属していて、今回の一般人拘束について調べていたという。その過程でステラたちにも接触したらしい。事の詳細を聞いたとき、さすがにレクシオは愕然とした。驚きが過ぎ去ると、頭を抱える。感覚の乏しい指で、ぼさぼさの黒髪をつかんだ。
「あい……つら……! 危ないことしやがって!」
 一瞬、軍人の前だということも忘れてうめいた。
 ステラたちが黙っていられるわけがない、というのはわかっていた。だからこそ、連れてこられる前、トニーに釘を刺したのだ。その努力はどうやら報われなかった――いや、予想とは違う方向で報われたらしい。
 爽やかな笑い声が響き渡る。レクシオが飛び跳ねるようにして顔を上げると、ちょうどアーサーが口を開けて笑っていた。彼は少年の視線に気づくと、笑声を引っ込める。ただし、目もとはなおも楽しそうに緩んでいた。
「それだけ君のことが大切だったということだろう。いいことではないか」
「いいこと、でしょうか」
「無論だ。我々としても、彼らの嘆願書が行動のきっかけになったんだ。学生の暴走と責めることはできんよ。だから、安心したまえ」
 そう言われると、レクシオとしても黙るしかない。学友たちに、そして誰よりステラに心配をかけたのは事実だ。むしろ怒られるべきは彼かもしれない。
 少年がうなだれているのを見て、アーサーはどう取ったのか。腕組みをして少し考えこむと、話題を変えた。
「ともかく。そういうわけで、君はもうここにいる必要はない。学院にも滞りなく復帰できるよう、我々の方から働きかけておこう」
「あ、ありがとうございます……」
「うん。ただ、その前にしばらく休養した方がいいだろう。どこまで自覚があるかはわからないが、かなり疲れているようだからな」
 レクシオの顔をのぞきこんでから、アーサーは副官を振り返る。
「事が事だし、一度軍病院で診てもらった方がいい。手配できるか、グリフィス大尉」
「問題ありません。手続きを進めましょう」
 どことなく堅い、二人の会話。
 レクシオは最初、それをぼんやりと聞いていた。意識の中を音だけが滑って、それは闇に吸い込まれていく。言葉は遅れて入ってきた。その一つひとつを噛みしめていたとき――頭の中で、知らない音が弾けた。

 何かをささやく、人の声。
 そのすべてを拾うことはできない。
 檻、実験、術、薬、死――
 不穏な言葉ばかりが、花火のように弾けて、消えて、うねって、嵐となる。

「――い、やだ」
 しぼり出したその声は、まるで別の誰かのもののように響く。
 レクシオは頭を抱え込んだ。そのせいで、アーサーとグリフィス大尉が目をみはって振り返ったことに、気づかなかった。
「軍の病院は、行きたくない……行きたくないんです……お願いします、お願い、だから……!」
 心の奥から濁流のようにあふれ出す言葉を、なんとか音にして吐き出す。それでもなお、濁流は収まらなかった。
 体が熱い。胸が痛い。視界がゆがむ。
 荒く息を吐きだしながら、なおもレクシオはうずくまる。ややあって、小刻みに震える肩に、手が置かれた。
「わかった」
 青年の声がする。
「君が嫌なら、軍病院はやめておこう」
 ささやきが、鼓膜を震わす。レクシオはそれに答えようとして、けれど答えられないことに気がついた。声が出せない。体が言うことを聞かない。その代わり、頭の中は奇妙に澄み渡り――その奥底で、ぷつん、と何かが切れる音がした。
 視界がゆっくりと暗くなっていく。緩やかな変化に抗えないまま、レクシオはその場に崩れ落ちた。

 何やら錯乱したかと思えば、急に倒れてきた少年。その体をとっさに受け止めたアーサーは、思った以上の軽さに目をみはった。よい扱いは受けていないだろうとは思っていたが、まさか食事もまともに与えられていなかったのだろうか。
 アーサーはかぶりを振って、少年を抱き上げる。上官の些細な動きに反応したグリフィス大尉が、寝台を整えた。有能な副官に感謝しつつ、アーサーは彼の体を横たえた。
 改めて観察すると、気づくことがある。体のいたるところに痣があり、赤く腫れている部分もあった。腕には魔導術を封じる重々しい鉄輪がかけられていて、体は同年代の少年たちと比較しても細い。顔色は悪く、唇がかさついて、何度も切れては治った痕があった。
「ひどいな」
 アーサーは、思わずうめく。薄い掛布と毛布を少年にかけたグリフィス大尉が、無言でうなずいた。
「特殊部隊だかなんだか知らないが……我々が来なければ、彼を殺すつもりだったな」
「そうでしょうね」
「この鉄の塊は、アーノルド捜査官に外してもらえばよかったな」
「あとで私から頼んでおきましょう」
 さらりと言った副官に、アーサーは「頼む」とうなずいた。それから、実直な黒茶の瞳を改めて見る。
「頼むついでに、ひとつ訊きたいのだが……エルデどのの後見人はわかるだろうか」
「後見人ですか」
 普段の口調で尋ねてきたアーサーに対し、グリフィス大尉は首をかしげる。
「彼がクレメンツ帝国学院に入れたということは、身元保証人なり後見人なりがいるはずだ」
「それでしたら、学院から提供していただいた書類に記載がありました。オルフィリア・マクファーレンという女性です。帝都で孤児院を運営しているようですね」
「なんと、マクファーレンどのか!」
 アーサーは、晴天のごとき碧眼を見開いた。それに対して、グリフィス大尉も少し驚いた顔をする。
「お知り合いですか」
「知り合いというほどではないな。式典で何度か儀礼的な挨拶をした程度だ。しかし、そうか。マクファーレンどのなら任せてもよいかもしれんな」
 アーサーは口もとに手を添えて、記憶を辿る。オルフィリア・マクファーレンは、元々は医者だ。今でも免許を持っている。国立の病院に勤務していたこともあったはずだ。彼女の運営する孤児院にも、簡単な診療ができる程度の医療設備が整っていると聞く。
「よし、ひとまずはその孤児院とやらに彼を帰そう。マクファーレンどのに診ていただいて、必要があれば専門の病院にかかってもらう。それが、エルデどのにとっては一番よいだろうから」
「了解しました。では、マクファーレン氏と連絡をとりましょう」
 グリフィス大尉に、アーサーはうなずく。上官の了解を得た大尉は、敬礼して一度部屋を出た。
 扉が閉まるのを見届けて、アーサーは寝台を振り返る。涙の痕を頬につけたまま眠っている少年を、まんじりとながめた。

 ――あなたはそれでよいのですよ、アーサー。存分にやりなさい。
 あの日の姉のささやきが、耳の奥にこだました。